1-3

 聞いたことのある名前。昔の友人とか、親戚の名前とかじゃなくて……


「って、上司の名前!!」


「上司?」


 アズサの初対面の上司に対するものとしては無礼極まりないような声にもかかわらず、気分を害した様子はかけらもなくイナバと名乗った男は首を傾げた。

 長ったらしい前髪。完全に目を覆った控えめに言っても汚い茶髪のせいで、今一つ表情はつかめない。


「え、えっと、……イ、イナバさん! あなた、なんか恨まれてませんか?」


「そんなことないっすよ」


 信用できそうにない薄い笑いで、あっさりとイナバは答えた。

 いやいや、と反論したいのを抑えてアズサは必死で足と頭を動かす。かろうじて残っていた『危ないところを颯爽と助けてくれたいい人』の印象が、一秒ごとに崩れ去っていっている気がする。失礼を承知でこの人が上司でないことを、アズサは心から祈っていた。


「待てコラ、イナバァ!! うちのシマぁ荒らしてただで帰れると思ってんのか!?」


「その脚引きちぎってやる! 糞ウサギ!!」


「あんた、今日こそは容赦しないよ」


 ふ、増えてる!?

 男も女も、ウサギ? イナバ? 殺す!! くらいの勢いで、路地を通るたびに敵が増えている。


「どんだけ敵が多いんですか! イナバさん!!」


「あはははっはは」


 楽しそうにイナバが笑う。

 アズサはとても楽しそうには笑えない。

 笑えない。

 本当に笑えない。


「お、ちょうどいいところに」


 前を向いて走り続ける二人の前に、白いボウッとした人影が現れた。

 どうやら人であることは間違いなさそうだが、全身に白い靄でもかかっているかのようにぼやけている。


「あれは……?」


「シラユキさんです」


 もちろんその名前を聞いたところで『へえ、あれがシラユキさんかぁ』とはならないのだが、たしかに白い人影は名前に負けず劣らず白かった。白くぼやけた中でも、その奥の人影が体のラインや歩き方でどうやら女性らしいことはわかる。


「跳ねますよ」


 ぐい、と腕を引っ張られ、見た目よりもずっと強い力で上空に持ち上げられる。先ほどよりもより垂直に近い角度で飛び上がり、高さは五メートル。イナバの手は離れているが、魔力を使えるならこの程度の高さは大した問題にはならない。くるりと体を翻して浮かび上がり、シラユキと呼ばれた人影を飛び越えて着地する。一歩先に着地したイナバは右手に次の魔術を編んでいる。


「走って!」


 イナバが叫ぶ前にアズサは駆け出していた。それと同時に、イナバはシラユキに右手に作り出した小さな水の塊を投げつける。


「えい」


 気の抜けた掛け声でイナバが投げたそれは、イナバの手から離れると一気に膨張して、直径十メートルにも届きそうな巨大な水の塊になった。

 その水がシラユキを覆う白い膜に触れた瞬間――。


 一瞬で空間が破裂した。


「なにあれ!?」


「水蒸気爆発です」


「ば、爆発!?」


「逃げるっすよ」


 そういう間にも二人は足を止めることなく走り続ける。後ろからのイナバを追う声も聞こえなくなってもなお走り続け、いくつ目かの角を曲がった路地裏で、ようやく二人は足を止めた。


「逃げ切れましたかね」


「まあ、大丈夫っすかね」


 イナバは汗もかいていないどころか、息も乱れていない。

 肉体的な弱さは魔力で補えるものではあり、アズサは少なからず魔力に自信のある方だ。そんな彼女であっても、これだけの距離を全力で走り続ければさすがに少しは疲労するものなのだが、イナバはそんな素振りをまるで見せない。

 単純に体力的に劣っていると言われてしまえばそれまでかもしれないが。


「それで、あの、イナバさん」


「はい、なんでしょう?」


「イナバさんのフルネームをお聞きしても構いませんでしょうか」


「ああ。これは失礼しやした。何分この街にいると、名乗ることもほとんどないもので」


 イナバは左手に巻かれたPHDをぽんと叩く。すると見覚えのあるマークが浮かび上がった。


「あっしは稲葉紡と言います。一応、警察官、なんですかね」


 PHDから浮かび上がるシンボルマークを見た時点で、アズサは自分が頭を下げるべきであることを理解できていた。今日付でこのススキノにやってきたアズサよりも位の低い警察官などいるわけがない。


「失礼しました。わたくしは――」


「よくぞ来た! 我が仇敵よ!!」


 アズサの言葉は、上空から降ってきた声に押し潰された。


 上空――正確にはビルの屋上。アズサたちがいる位置から首を大きく上に傾けて何とか見えるくらいの距離だ。 大きな月を背負い、風にマントを躍らせている人影が見える。

 改めて挨拶しようとした途端にこれである。まったくこのススキノと言う街は、心休まる場所がない。


「うぇ……聖剣……」


 ここまでどんな事態にも飄々としていたイナバだったが、ここに来て初めて、巨大なイボガエルにでも遭遇したかのように顔を歪めていた。


「……お知り合いですか?」


「お知り合いではないさ、レディ!」


 訊いてもいないのに、ビルの上から男の声が降ってくる。


「宿命の……仇敵ライバルさ」


「逃げるっすよ」


 まさしく脱兎のごとく、イナバはアズサの腕を引いて走り出した。先ほども相当な速度で走っていたと思うのだが、今は完全に本気だということが窺える。というより、引かれる腕が容赦なく痛い。アズサのことを考える余裕がなくなっている。


「でも、お知り合い……じゃなくて仇敵ライバルなんじゃ」


「ただの昔馴染みっすよ」


 そう言うイナバの顔は青ざめていた。口元にはまだ微笑が残っているが、頬に垂れる冷汗は誤魔化し切れていない。その間にも後ろからは例の仇敵の声が追いかけてきている。


「ふぁっはっはっは!! 我が名はアルヴェルト・フォン・ペン~~~~ドラゴン!!」


 やたら間延びした声に、アズサは思わず振り返った。

 ビルの屋上で踊る人影は――男だ。長髪の男。月光の陰になっていて判別しにくいが、多分金髪。顔は随分と美形だ。どうせ抱かれるならこっちの兎よりもあっちの金髪の方がよかったかもしれない。長髪は気に食わないが短髪にしても似合わないということはないだろう。まるでどこかの国の王子様だ。

 そんないかにもという格好の男が、これまたいかにもという両刃の大剣を地に刺して叫んでいる。


「イナバよ! 今宵こそ、我ら因縁の戦いに終止符を打とうぞ!」


 コンクリートに突き刺した大剣を軽々と持ち上げると、両手支えたまま彼は宣誓する。


「因縁の、とか言ってますけど……」


「無視して下さい。あれと関わるとろくなことにならないんで」


 アズサがなんと言おうと走る速度は変わらない。アズサも付いていけない速さではないが、そもそもなぜこうも必死に逃げているのかもわからないので、どうにも危機感がない。


「輝け! エクスカリヴァー!!」


 金髪の叫ぶ声と同時に、掲げた大剣が黄金色に輝きだした。そして同時に、彼を中心に突風が吹き荒れる。その風を背に感じたアズサは、ようやく、自分が立たされている窮地に気づくことができた。


 ――魔力風!? この距離で!?


「括目せよ! 黄金に煌めく騎士王の裁きを!!」


 アズサは絶句した。


 文字通り声が出なかった。


 金髪が握る大剣は、大きくなっていた。


 まるで街を丸ごと飲み込んでしまうんじゃないかというほど巨大に膨れ上がった光の奔流が、空に柱を作っていた。


 アズサにはそれがいったいどんな魔術であり、何をもたらすものなのか想像もつかなかったが。

 仮にそれが単なる魔力の塊であったとしても、自分とイナバが消し飛ぶのに十分だということは理解できた。


「ぎゃあああああああああああああ――!!」


 アズサは叫んだ。

 そしてめいいっぱい足を動かした。

 もっと早く!

 もっと早く!

 そう祈りながら、走るしかなかった。


 ――どうしてこうなってしまったんだろう。



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