1-2

「はい、そこまでにしときやしょ」


 ――え?


 突然降って湧いた声はアズサのすぐ隣から聞こえた。その声に反応して首を傾げると、次の瞬間には体が浮き上がっていた。


「え、ちょ、え?」


 気づけばアズサは抱えられていた。魔術で浮かされて、なんて器用な真似ではなく、小脇にぬいぐるみでも挟んでいるかのように、あっさりと抱えられていた。

 この骨の感じは女じゃない。多分男。

 こんな非常時に自分は何を考えているんだと言いたくはなるが、これだけ密着させられていれば考えないわけにはいかない。


「え、あなた? え? 誰?」


 首を上に捻れば、顔が辛うじて見える。……が、茶髪の前髪が無駄に長い。鼻先まで隠れるんじゃないかというほどの、男性にしてはずいぶんと長い髪のせいで、顔のほとんどが見えなかった。

 抱えられている感触や顎のラインを見ても、極端な肥満ややせ過ぎというわけではなさそうだが、イケメンかどうかは判別できそうにない。いやイケメンだろうと不細工だろうとなんだという話でもないのだけれど。

 仮に顔が良かろうと、その長すぎる前髪は許容できそうにないし。


「にげるっすよ」


「え――」


 顔がもげるかと思った。

 信じられないくらいの急加速。自己加速魔術は魔術の基礎。得意不得意の個人差はあれど、使えない人間はそうそういない――はずなのだが、あまりに静動の緩急が急すぎて、体が完全においていかれていた。


「テメエ! こらウサギ野郎!!」


 後ろから聞こえる野太い叫び声はどちらの男のものだろうか。


「あ、あの!?」


「お嬢さん、ススキノは初めてっすか?」


「え。あ、はい、そうですけど……」


「あんなの構ってたらダメっすよ」


「でも……」


 それは、そうなのかもしれない。


 私はこの街を知らない。


 この街の常識を知っているつもりでいたし、頭の中では理解できているつもりでもいる。


 それでも、それじゃあ、私の中の正義が、私を許してくれない。


「ちょっと、上に行きやすよ」


「え、――えっ!?」


 まったくスピードが変わらないまま、アズサの体は浮き上がった。

 いや、そんな生易しいものではない。吊り上げられた。


「この街であんな喧嘩にいちいち首を突っ込んでたら日が暮れちまいますよ」


 吊り上げられた体は、トンッという軽い音に続いてそのまま空中に静止した。足の下の座標を固定しているのか、あるいは空気の板をビルとビルの間に渡しているのか、とにかく透明な足場を形成して着地したように感じる。

 それにしても女とはいえ成人女性を一人抱えているくせになんて身軽に体を操るのだろうか。魔術を併用しているのだろうが、なんて自然な着地だろう。


「見てください」


 言われるがまま、アズサは眼下の景色に目を向ける。

 碁盤の目を模った街の地形。がらんどうに見えるビル。その間の路地やビルの屋上、空中でも火花が散っているところがある。


「あの、もう大丈夫ですので、降ろしてもらってもいいですか?」


「これは失礼しやした」


 ゆっくりとおろしてもらう。

 やはり何かの魔術で足場が固定してあるようだ。コンクリートの上に足を下ろしたのと寸分違わぬ印象を受けた。


 ――私だったらどんな魔術を使うだろう。


 ぼんやりとそんなことを思い浮かべながら、ススキノの街を眺めた。


「本当に、どこででも魔術を……」


「別に全部が全部、喧嘩ってわけじゃないっすけどね」


「実験、ですか?」


「そうっすね。でもまあ、あそこのヤマグモとかあっちの白イタチなんかは多分喧嘩ですかねえ」


 どこもかしこも魔術だらけ。少なくともアズサの過ごしてきた世界とはあまりにかけ離れていた。


「降りやすよ」


 と言うと今度は直滑降。足の下にあった頼もしい何かの存在感が霧散し、垂直にアスファルトの地面に向かって落ちて行った。


「手伝いやすか?」


「お構いなく」


 まるでベッドに寝そべるかのように、彼は空中で仰向けに倒れこむ。彼もまさかそのままアスファルトに突撃するつもりはないだろうし、アズサはアズサで着地を行う。


 地上まで十メートル弱――。

 減速、――そして着地。


 ふわりと音もなく着地する。


「お見事っす」


 男は落下、急停止。

 仰向けのまま、地面まで一メートルのところで急停止していた。

 それ、体に負担はかからないんだろうか。


「タイトだと中まではちょっと見えないっすね」


「なっ、なにをしてるんですか!!」


 今更ながらアズサはスカートの裾を抑える。警察官の下着を覗こうだなんて子供でも思いつかないだろうに。


 よっ、という掛け声で彼は跳ね上がるように立ち上がる。


「それで、お嬢さん。ススキノにはどんな用事で?」


「仕事です」


「…………」


 彼は驚いたように目を見開くと、まるで見定めでもするかのように上から下までゆっくりと視線を移動させた。


「……なんですか」


「いえね、お嬢さんが何の仕事をしているかは知りやせんが、お嬢さんのような小奇麗な方に、この街は――」


「ぐゔえっ」


 最後まで言葉は告げられずに、彼はアズサの首根っこを掴んで引っ張った。


 アズサが驚き、強引に絞められた喉から言葉にならない音が漏れ出すのと同時に、アズサがそれまで立っていた場所が唐突に凹んだ。


「大丈夫っすか?」


「今まさにあなたに殺されかけたんですけど」


「走りやすよ」


 男はアズサの手を引くと、先ほど同じかそれ以上の急加速で走り出した。慌ててアズサも足を動かし、走り出す。

 アズサも先ほどよりは落ち着いているとはいえ、やはり、早い。

 さすがに顔ごと持って行かれるような感覚には陥らなかったが、アズサではついていくのがやっとだ。


「ウサギィ!!」


 後ろからの叫び声は先ほどの二人組とは別人のようだ。


「あ、あなた! う、ウサギさん?」


「ウサギじゃないっすよ。イナバっす」


 ――ああ、それで兎か。


「ってそうじゃなくて。え、イナバって……」


 聞いたことのある名前。昔の友人とか、親戚の名前とかじゃなくて……

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