天使の鏡

志摩田 一希

天使の鏡

 晴天の十和田湖では水面が太陽と雲を反射して、二つ目の空をつくる。

 それはまるで天国を映す鏡のようで、天使が地上に落としてしまったお気に入りの姿見だったかもしれない。


 

 こんな話をしたら彼女に笑われたことを思い出す。あれは五月の晴れの日で、上着のいらないほどに温かい日だった。緑と水が艶やかに輝いていて、遊覧船を指さして笑っていた彼女の顔が天使みたいだったことも思い出した。

 あの瞬間は、開けた空と湖のなかにすっぽりと彼女がはまって、そこに世界の輝きがぜんぶ集約されていたんじゃないかと今でも思う。


 そういや、湖のきわに行く前は、ソフトクリームを食べたっけ。なんの変哲もない、ただのバニラのやつ。でも、春の日差しを肌で感じながら、のんびりと深く腰掛けて食べてみたら、舌に残る心地よい甘さがよけいに際立った。

 鼻にクリームが付いているのも気付かずに彼女は

「甘さが体にしみるわぁ~」

 なんておっさんみたいにしてさ、あれはギャップがすごくて、大笑いが止まらなくて、心地よかった。そして笑い終わった後には一気に疲れが来たことも覚えている。


 そもそもなんで疲れていたかって、お互い体力に自信もないのに奥入瀬渓流を自転車でめぐって行こうなんて言ったせいだ。彼女があれ以上に意地を張って、電動アシストのついたやつにしていなかったら、湖に辿り着けていなかったかも。あとから調べたら14キロもあるんだって。

 そんなもんだから湖畔についた直後には、二人して

「疲れたね」

 ってシンクロしてた。しかも着いたのは子ノ口の方だから、お店もほとんどなくて、小さな食堂と船着き場しかなくてさ、

「なんにもないね」

 って、これもシンクロして。言葉だけをなぞるとネガティブだけど、あのときは最上の褒め言葉として使ってた。ここまでたどり着いたお互いの健闘を褒めるのもそうだし、疲れた体で何にもない湖畔に到着した時は、何もない景色だからこそ達成感がよりこみあげてきたから。それまでの滝や川が白波を立ててうなっていた音もなくなって、しん、と静まった自然のさまが、綺麗に感じられたのもあった。


 こんな風に言うと、それまでの滝や渓流が余計なものだと誤解してしまうかもしれないけれど、もちろんそんなことはない。湖畔に着く前は、銚子の滝では二人で記念撮影しようとしたけれど、デジカメで慣れない自撮りをしようとするから何度も失敗して、思った以上に水しぶきも浴びてしまった。だけどそれも気にならないくらいには浮かれていた。

 滝に近づくまでの道では慎重になって、足元が滑るから二人で手をつないで

「転ばないようにしないとね」

 なんて言ってたけど、あの時は手をつないでいてほんとうに良かった。足を滑らせた彼女の手を掴んでいなければ、ひょっとしたらケガさせてしまっていたかもしれないし。あと、少しでもカッコがつく瞬間だったから。これでさっきの挽回もできたかな、と思ったのもある。


 なんで挽回しなくちゃいけなかったか。これは俺だけのせいではないんだけど。

「石ヶ戸には女盗賊の伝説があるんだって、知ってた?」

 彼女がそう言ってきたときはすごくニヤニヤしていて、いかにも楽しい悪だくみを思いついた顔をしていた。

「というわけで、わたしをおんぶして!」

 自転車で疲れた足もおかまいなしで、石ヶ戸に着いて休んでいた時に、彼女は元気にジャンプして、俺の肩にしがみついてきた。彼女はかわいかったが、たしかに悪党だったわけだ。

 当然おんぶせざるを得ない、そしていくら彼女が軽いとはいえ重さはある。最初の一瞬は平気だと思ったが、バランスを崩してしりもちをつく格好で転んでしまった。二人でいっしょに岩の上に転んで、二人で笑い合ったけど、あの時はちょっと情けないとも思ってしまった。だから、挽回という訳だ。

 そういえば石ヶ戸の伝説はたしか、女盗賊が川を渡る際におんぶしてもらって、その隙をみて旅人の懐からものを盗む、というものだったはず。あの時はまちがいなく彼女に体力を奪われたけれど、他にもなにかを盗まれていたりして。



 そういや、その前も――――





「なにボーっとしてるの?」


 やわらかな声を後ろからかけられて我に返る。運転席、ハンドルを握って森の中を低速で進んでいた。

 天気は晴天で雲一つなく、風はゆるやかに草木をなぞり、かすかに揺らす。上りの道を進むフロントガラス越しの視界の中では、緑と青が鮮やかに映えるその真ん中を飛行機雲が一閃、空に伸びていった。

「大丈夫? 疲れてるなら無理しなくてもいいんだよ?」

 心配をかけていたようで申し訳ない。後部座席から聞こえる彼女の優しい声をふたたび聞き、しっかりと気を引き締める。

 車は森の中を低速で進んでゆく。なるべくエンジン音がしずかになるよう、ゆっくりとペダルを踏み、開けた窓から滝や川の音がなるべく入るようにする。車体の揺れを減らすためにゆっくりと進む。あの日に、レンタサイクルで通った道をゆっくりと。

 ひょっとして、あの時盗まれたのは心だったのかもしれないな。 

 なんて、今言ったら確実に笑われるだろう。想像するだけで顔が赤くなりそうだ。内心を悟られないようにしながら(彼女がニヤニヤしているのは気のせい)、慎重に進むと視界が開けてきた。



 十和田湖だ。



 あの日と変わらず、いやそれ以上に、澄んだ青が水平線で溶け合っている。水面は空から降り注ぐ光を反射して、彼女の輪郭をまばゆさでなぞる。

 遊覧船が小さく見えて、おもわずつぶやいた。

「ここは、天国かもしれないな」

「あの時も、そんなこと言ってた」

 そう笑って彼女はおなかをさすり、近いうちにやってくる天使に思いをはせていた。

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