路上で目覚めた少年の話(その8)

「最初は、ごく些細ささいな事象のだったよ……この世界が一人の人間の夢だと仮定すると、絶対に有り得ないような実験データが、いつの頃からか繰り返し現れるようになったのだ」

 意外なほど落ち着いた声で、博士が語り始める。

「……どんなに方程式を因数分解しようとも決して答えの出ないエッキスが、この世界にはある……何故なぜだ? ……いつまでも続く研究の日々と、何千回、何万回もの実験の果てに私が辿たどり着いた結論は……」

「結論は、何だ! 何だと言うのだ! さっさと言え!」

 美少年の顔から薄笑いが消え、苛立ち、叫んだ。

 それと反比例するように、落ち着きを取り戻した佐多博士の顔に薄笑いが浮かんで来た。

「そうわめくな。そんなに大声でわめかんでも教えてやるよ……『このせかいの現象に対し、夢を見ている本人以外の何者かが外部から干渉している』これが私の出した結論だ。そうでなければ不確定数エッキスの存在に理屈が通らない」

「ば、馬鹿な! あり得ない! そんな事が、あってたまるか!」

「そうだな……他人の夢を操作するなど……通常なら考えられない話だ。しかし、もし、この夢の? いや、そもそも夢の中の住人である我々には、本来はのではないのかね?」

「く、くだらん! すべては妄想だ! 貴様の狂った頭に浮かんだ出鱈目でたらめだ! 出鱈目でたらめでないというのなら、しょ、証拠を見せてみろ!」

「今度こそ、ほんとうに私の頭の中をのぞいてみたらどうかね? 私は逃げも隠れもせんよ」

 佐多博士が余裕の笑みを浮かべる。

 逆に、さっきまで博士を見下みくだし余裕の笑みを浮かべていた美少年「夢見ゆめみ玄鬼郎げんきろう」の顔に、不安の色が浮かび始めた。

「言われなくても!」

 博士の心の中を探ろうと、玄鬼郎げんきろうは博士の顔をジッと見つめた。

 博士も、ぐに玄鬼郎を見返す。

 美少年の顔が驚愕きょうがくに歪む。

「そ、そんな……馬鹿な!」

「フッフッフッ……どうした? 『夢のあるじ』さま? ……ひょっとして、たかが被造物のまぼろしである私の頭の中を知ることが出来ないんじゃないかね? 全知全能であるべき創造主にもかかわらず……」

 博士の笑い声は、明らかに美少年・玄鬼郎を侮辱していた。

 白く光っていた美少年の頬に、怒りの赤が差す。

 ついさっきまで見下みくだし侮辱していた被造物に、かえって自分のほうが侮辱されている……怒りに震える声で、爬虫類めいた美少年が叫んだ。

「なぜだ! なぜ、貴様の考えが読めない! たかが僕の夢の住人のくせにィ」

「だから、さっきから言っているだろう……外部から何者かの『干渉かんしょう』が入っているのだよ。そしてそれが夢の外部から来ている以上、『夢のあるじ』すなわち全知全能であるはずの君自身にも、どうにも出来ん……『干渉かんしょう』だけではない。それにまつわる全ての知識に対して、君は何も出来んのだ」

「う、嘘だ……」

「そうか? ならば、なぜ、君は私の心を読めない? それが君自身の夢の産物ではなく、外部からの干渉によるものだからではないのか?」

「信じない……僕は、信じないぞ!」

「どうぞ……ご自由に……しかし、私の心を読めないという事実には、どうを付けるつもりかね? いくら嫌々をした所で、厳然たる事実は変えようがないだろう?」

 そう言って、佐多三吉博士は満面の笑みをたたえ、鋭い眼光で夢見ゆめみ玄鬼郎げんきろうにらみ返した。

 それは、この世界の創造主、夢の主に対する反抗の心であり、そして勝利宣言だった。

 ……突然!

 佐多博士の後ろの壁が、まるで爆風でも喰らったようにけた。

 はじけ飛んだ木の破片とステンドガラスの破片が、散弾のように博士の背中、うなじ、後頭部に突き刺さった。

「ぎゃあああ!」

 博士は、もの凄い悲鳴を上げて仰反のけぞり、テーブルの上にうつぶせに倒れて回った。

 その向こうから壁を突き破って出現したのは、巨大な双頭の黒馬だ。

 双頭の馬は、その体重と脚力と硬いひづめで、博士の体をテーブルごとつっぶし、もの凄い勢いで夢見玄鬼郎の前まで走り、そのまま美少年の胸、ちょうど心臓のある辺りに強烈な前蹴まえげりを喰らわせた。

 玄鬼郎の体は反動で後ろにっ飛び、食堂のドアを破り、突き抜け、廊下の壁に背中を強打してやっと止まった。

 玄鬼郎の体が廊下の壁から落ちて動かなくなると同時に、あれほど荒々しかった双頭の黒馬の動きもピタリと停まった。

 馬の後ろには、二輛にりょう編成の黒い馬車が連なっていた。この大きな馬車をいて屋敷の中に突入して来たのか……

 玄鬼郎が動かなくなり、馬の動きが止まると同時に、玄鬼郎によって体の自由を奪われていたミヨ子の体からフッと力が抜け落ちて、そのままゆか折れた。

「ミヨ子さん!」

 モリオと名付けられた少年も体の自由を取り戻し、和服姿の美少女のもとへ駆け寄った。

「ミヨ子さん! 大丈夫ですか!」

 ひざまづいて少女の体を抱き起し、軽く揺する。

「え、ええ……私は……ここから逃げましょう……早く……あの少年が復活しないうちに……」

「復活? あの夢見玄鬼郎とかいう少年が生きているとでも言うのですか?」

「ここは玄鬼郎の夢の世界……生死さえも思うままに操れる……さあ、あの少年が目を覚まさないうちに、馬車の中へ……」

「馬車の中?」

「ええ……これは私のですが……あの中なら安全かと……」

「本当ですか?」

「確証はありません……しかし、疑っている時間も無いでしょう……さあ!」

 少女は、やっとの思いで立ち上がり、そのままヨロヨロと力なく歩いて馬車の扉を開けた。そしてい上がるようにして馬車に乗り込み、振り返ってモリオを呼んだ。

「さあ! 早くお乗りになって!」

 訳も分からず、しかし、少女の言う通りにしようと決めて、少年も馬車に乗り込んだ。

 馬車の中は広く、豪華だった。

 少女は車内に造り付けられた赤いビロード張りの椅子にグッタリと寄りかかり、少年を見ながら車室のかどを指さした。

 モリオ少年が振り返って少女の指さす方向を見ると、つたが這うような複雑な形のつばと精密な彫金エングレーブを持った銀色に輝くサーベルが壁に掛かっていた。

「あれで……」

 少女が言った。

「あれで……夢見玄鬼郎の手を……私の体をもてあそはずかしめた玄鬼郎の手を切り刻んで下さい……」

「え?」

「今の私には、自分で復讐をする体力がありません……だから、代わりに……」

「しかし……」

「モリオさん、私の魂と肉体からだは、既にあなた捧げると決心しました……その私の魂と肉体を汚し辱めたという事は、すなわちモリオさんを辱めたも同然……だから……あの憎らしい手を挽肉のように滅茶苦茶めちゃくちゃにして……」

「……」

「モリオさん、お願いです!」

 モリオはビロードの背もたれに寄りかかり、はあはあとつらそうにあえいでいる和服の美少女を見た。

 濡れた真っ黒な瞳が少年を見返していた。

 モリオは壁に掛かったサーベルを取ると、馬車の扉を開いて車外に飛びだした。

 壊れた扉のに気を付けながら、黒馬の体と扉の隙間から廊下に出る。

 廊下の壁に寄りかかり、座るような格好でグッタリしている美少年を見下ろした。

 黒馬の巨大なひづめで蹴られた跡が、胸の中央に深いくぼみを作っていた。

「右だったか、それとも、左手か……」

 着物をでまわしていた手は左右どちらかと記憶をたどり、目に焼き付いたその光景を思い出し、なぜか激しい怒りが湧き上がって、全身の血が眼球の裏に集まるような錯覚を感じた。

 サーベルを大きく振りかぶり、玄鬼郎の手に狙いを定めてマサカリのように振り下ろす。

 ちょうどひじと手首の中間あたりに食い込んだサーベルの刃は、しかし腕を完全に切断するまでには至らず、腕の肉を半分裂いた所で骨に当たって止まった。

 すでに死んでいる玄鬼郎の体が、なぜか激痛を感じたようにビクンッと震えた。

 モリオはサーベルの刃を美少年の千切れかけた腕から抜き、もう一度、振りかぶり、全身の力と体重をかけて振り下ろした。

 刃は、さっきの傷から五センチ程ずれた場所の肉を裂いた。

 もう一度、振りかぶって、振り下ろす……もう一度、もう一度、もう一度……

 何度も何度も、ミヨ子の体をもてあそんだ玄鬼郎の手にりったけの憎悪を込めてサーベルを叩きつけた。叩きつけるたびに血液が飛び散り、玄鬼郎の死体が激痛を感じたように震えた。

 サーベルを持ち上げられない程に疲れ切って、モリオはやっと我に返った。

 玄鬼郎の手を見下ろすと、元の形も分からないような血と肉と骨のボロきれに成り果てていた。

 サーベルを引きずりながら、ふたたび馬の体とドアの隙間を通って食堂に戻り、馬車に乗り込んだ。

 中で待っていた美少女は、疲れた顔をモリオに向け、精いっぱいの笑顔を作った。

「ありがとうございました」

 その言葉にうなづいてサーベルを壁に戻し、少年は少女にたずねた。

「これから、どうしますか」

「どこか、遠い所へ行きましょう」

「遠い所とは?」

「さあ、どこかしら……私にも分かりません……行き先は馬が……双頭ふたつあたまの馬が知っているでしょう……」

 それに答えるかのように、双頭の黒馬が大きく一度ひひっといなないた。

 二輛編成の連結馬車がゆっくりと動き出す。

 双頭の黒馬と連結馬車は、迷路のような屋敷のあらゆる壁を破壊し突き抜け、最後に玄関を破って森の砂利道に出た。

 轟音にモリオが丸窓から屋敷を振り返って見ると、内部から柱と壁を破壊され支えを失った屋敷が崩れ落ちる所だった。

 雪崩なだれのように落ちていく黒瓦くろがわらが、月光を浴びてキラキラと光っていた。

 双頭の馬は、最初は並足で、それから徐々に速度を上げて、連結馬車をいて砂利道を走った。見る見るうちに屋敷の残骸が遠くなった。

 やがて砂利道が終わり舗装道路に出た馬車は一段と速度を増して月夜の森を駆け抜け、何処どこかへ行ってしまった。

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