第6章:太陽の焦がれ歌

  一、満月前


 満月の夜が近付いている。


 杜宇胡とうこからの報告書を月に透かし眺めていた居鷹いたかがニヤリと口元を歪ませた。縷紅るこうはそれを黙って見ている。

 ちなみに報告書そのものは一般的な紙に、特に仕掛けも何もない墨で書かれた普通の手紙であり、月に透かして見ていることに深い意味はない。


 汰虎たとらを北へやってから一ヶ月。月の満ち欠けが一巡りする間に杜宇胡からの報告書はこれで二度目。だが、汰虎からは一度もない。杜宇胡からの報告書により、汰虎が無事北で登用されたこと、そして期待以上の速さで北帝ほくていに近付けたことは分かっているが、肝心の汰虎からの音沙汰が全くないのでは意味がない。にも関わらず、目の前の異母兄は嬉しそうに笑っている。縷紅には居鷹の考えていることが分からない。父の穆敷院ぼくふいんも居鷹を可愛がりながらもどこか敬遠している節がある。いや、警戒していると言った方が良いだろうか。決して自分の言うことに従う人物ではないということだけははっきりしているから。

「杜宇胡は何て?」

「お子ちゃまは環境に馴染むのが速いみたいだな」

 それは果たして自分の質問に対する回答なのだろうかと縷紅は困惑して居鷹の顔を見る。居鷹がちろりと横目で縷紅を見やる。口元はやはり楽しそうに笑んでいる。

「案の定あれは、汰虎を気に入ったようだ」

「読み通りだったな」

「ただ、どうやら汰虎もあれを気に入っちまったらしい」

 ケタケタと居鷹いたかが楽しそうに笑う。それすらも読み通りだったんだろうと思ったが、縷紅るこうはそれは口にはしなかった。言ったところで意味あり気な笑みが返ってくるだけだ。

 居鷹は決して考えていることの全てを縷紅に話したりはしない。それでも縷紅は、頼れる相手も、頼ろうと思う相手も、居鷹以外には考えられなかった。この食えない異母兄は、それでもやはり、どこか人が好く憎めないし、どの兄よりも有能に見えた。

 だからこそ、縷紅は他でもないこの男にのみ、絶対に知られてはならない母のある過去を教えた。一人で抱えるには重過ぎて、どこかにすがる場所が欲しかったのかもしれない。もしくはあり得ないと笑い飛ばしてくれることを期待していたのかもしれない。どちらにせよ、縷紅はこの男を選んだ、その事実は変わらない。

「母上の望みを叶えるのに邪魔にならなければ良い」

 縷紅はもう、この話を切り上げようと、そう言い捨てた。居鷹やうつぼ汰虎たとらに何を期待していたのかは知らないが、縷紅の中では汰虎はただの子どもでしかなかった。少なくとも縷紅自身はそう思っている。


 縷紅の言葉に居鷹が複雑な表情を浮かべた。縷紅は居鷹のこの表情が嫌いだ。詰っているような、それでいて憐れんでいるような、そんな居鷹の表情を見ると、縷紅は落ち着かなくなる。

「お前の望みは叶えてくれるかもしれないぜ?」

 居鷹いたかが小さく笑んだ。縷紅るこうは顔をしかめる。

「私の望みは南北の統一だ。北は狂っている」

 そのためにも母上の望み、北の化け物を滅するという望みを叶える必要がある。言い切る縷紅に居鷹は今度ははっきりと、憐れみの表情を向けた。お前の望みはもっとちっぽけなはずだ。居鷹の声は小さくて、縷紅はそれを聞こえなかったことにした。

汰虎たとらに関しては手を打つ。タダでくれてやるには惜しいからな」

 居鷹は立ち上がり、自分を見ようとしない縷紅に一瞥くれ、部屋から出て行った。残された縷紅は、感情の持って行き場所が分からなく、身動みじろぎひとつ取れなくなっていた。


「私の望みは、母上の望みを叶えることだ、母上の狂気を取り除くことだ」

 誰もいない部屋で、縷紅は自分自身に言い聞かせるように呟いた。北の化け物、龍欺子りゅうぎしさえいなければ、何もかもが丸く収まるはずだ。彼さえいなければ母の琳琅后りんろうごうが苦しむこともなくなる。滄桑院そうそういんは力を失い、北は容易に南に堕ちる。

 そこまで考えて、縷紅はゆるゆると首を横に振った。龍欺子にしたって傀儡に過ぎない。滅すべきは滄桑院だ。だが、母の実兄である滄桑院を倒すわけにはいかない、それは母の狂気を深めてしまう。

「北の人間は脆い、何かを失うと途端に狂う」

 独りち、縷紅るこうは天井を見上げる。そこには南都なんとに住む多種多様な異民族の絵が描かれている。しかしそれらのほとんどは混血が進み、独自性を保っているのはごく少数に過ぎない。

 くさびが異民族を支配するとき、必ず混血政策を取る。面白いことに、自らの民の血も積極的に他民族と交わらせてしまう。支配者ほど純血性を保とうとするものだろうに。

 おかげで元は一組の双子だった北と南の皇族は、今や外見から違う。縷紅は父親の血が濃く出たらしく、黒々とした髪を持って生まれたが、北から入室した母の琳琅后りんろうごうは少し色が薄い。それでも、母の実兄の滄桑院そうそういんよりはずっと黒い髪なのらしい。縷紅は南都から出たことがないので滄桑院も龍欺子りゅうぎしも、その目で見たことはないが。


 そういえば、と、縷紅は記憶を辿る。杜宇胡とうこの髪の色も少し変わっていた。光の当たり具合により青みがかって見えた。どこからともなく居鷹いたかが連れてきた青年。縷紅より少し年は上だろうか。顔を合わせたのも数回しかない上に、杜宇胡が恐縮がってあまり顔を上げなかったので、顔に関してはほとんど覚えていないが、髪の色だけは妙に頭に残った。

 縷紅は天井の絵から、青い髪の民族を探そうとしたが、夜の闇を照らすには、部屋の灯火は小さ過ぎた。仕方なく諦め、人を呼び、寝台に入る。朝、覚えていたら天井の絵を確かめよう、そう思っていたが、目が覚めた頃にはすっかり杜宇胡への関心は薄れていた。


「お前の苛立ちに気付いたみたいだな、汰虎たとらから便りが届いた」

 薄曇の昼下がり、うつぼ縷紅るこうに茶を淹れているところに居鷹いたかが封書をぴらぴらさせながらやって来た。タイミングが良いんだか悪いんだか分からないと靫がちた。縷紅が苦笑して居鷹にも茶を用意するよう言うと、靫は居鷹にむくれっ面を見せて出て行った。

「どうにも汰虎を北へやってからというもの、俺への風当たりが強いな」

 居鷹が首をすくめるが早いか、一度出て行った靫が飛んで戻ってきた。

「今、汰虎から便りがあったって言いました?」

 興奮で頬が色付き、目が輝いている。そういえば年頃だったけ、それなりの相手はいるんだろうかと居鷹は下世話な心配をしつつ、元気にしているらしいと教えてやると、ご機嫌で戻っていった。

「今日は良いお茶を淹れてもらえそうだな」

 縷紅がからかうと、居鷹はもう一度首をすくめた。

「俺が東宮だってこと忘れてないかね、あのお嬢さんは」

「東宮らしく振舞えば思い出すだろう」

「俺が東宮らしかったらここでの生活退屈よー?」

 ニヤニヤ笑いながら居鷹いたかは卓を挟んで縷紅るこうの右隣に座った。そこへ上機嫌のうつぼが居鷹の分の茶を持ってきて、しばらく何かを待つように立っていた。それが、汰虎たとらの便りの中身を聞こうとしているのだと縷紅は気付いて、居鷹に促そうとしたが、居鷹は縷紅に笑みを向けただけだった。

「靫、下がれ。他にも下がらせろ」

 縷紅に人払いを命ぜられた靫の目が大きく見開かれた。

「汰虎に関しては元気にしているの一言だけだ」

 居鷹が続けて言うと、靫はがっくりと肩を落とし、縷紅に命ぜられた通りに動いた。もっと詳しく北で汰虎がどんな生活をしているか知りたかったのだろう、靫は汰虎をとても気に入っていたから。


 人払いが済むと、居鷹が寝室を指差した。淹れてもらったばかりのお茶に口をつける暇もくれないらしい。

「それで?」

 寝台に腰掛けると、縷紅は向かい側に椅子を持ってきた居鷹に問うた。日の入らない寝室は狭くはないが、開放感もない。その部屋に居鷹が入るのは、人に聞かれてはならない話をするときのみだ。つまりは何か問題が起こっているということなのだろうと縷紅は当たりをつけて居鷹に話すよう促した。

杜宇胡とうこは知らないようだが、あれは杜宇胡のことにも気付いていたらしい」

 推薦人に同じ人間を使ったのがマズかったかな。そうぼやく居鷹はしかし、気付かれ理由は果たしてそこなのだろうかと疑っている様子だった。

「杜宇胡のことに『も』っていうことは、汰虎のことも気付かれたのか」

 縷紅が聞くと、それは計画通りだと、しれっと居鷹は言う。縷紅はため息をついた。汰虎をそんな危険な状況に投げ込んでいるようでは、靫に恨まれたって仕方がない。

「杜宇胡はお前の言う『ごつい兄ちゃん』の部下なのだろう? そこから推薦人のことも知られていてもおかしくはないだろう」

 居鷹いたかにしては随分と初歩的な手抜かりだと縷紅るこうは思った。わざとそうしたのではないのか。

「んー、まあ、確かに杜宇胡はごつい兄ちゃんに気に入られてはいるようだが、それで推薦人の話までするか? そもそも推薦人が誰かなんてこと、いちいち気にしないだろ」

 うつむいて居鷹がうなる。居鷹にとっても計算外であることは間違いないようだ。

「それに、だ、どんなに気に入ってたって、お目見え以下の一武官でしかない杜宇胡の話をそもそもごつい兄ちゃんが逐一狐に話すのかね」

「そこは二人の関係性による」

 縷紅が率直に述べると、うつむいていた居鷹がちらりと目線だけを縷紅に寄越した。縷紅には目線の意味が汲み取れなかった。きっと今、居鷹の頭の中は縷紅に想像も出来ないほどの速度でいろんな考えが巡っている。

「違うな、狐は俺たちの知らない何かを知っている」

「そしてお前も、私の知らない何かを知っている」

 縷紅の言葉に居鷹がニヤリと笑んだ。隠し事をしていることを隠す気はないようだ。清々しくもあるが、腹立たしくもある。こちらは手札の全てを居鷹に預けているというのに。

「思っている程、俺たちは優位ではないらしい」

 隠し事をしていることを認めながらも、再度『俺たち』という言葉を使った居鷹に、縷紅ははっきりと苛立ちの色を見せた。けれど居鷹に動揺はない。どうしても食えない、この男は。

「やはりあの男と接触し損ねたのは大きいな」

 白山葉はくざんようで会う予定だった、あの男。居鷹が再びうつむく。右手がせわしくなく顎を撫でている。珍しく居鷹が苛立っている。この男にも感情があったのかと、自分の方がよほど無感情に見られていることは棚に上げ、縷紅は興味深く居鷹を眺めた。

「まあ良い、汰虎が何も情報を寄越さない可能性も考えていたが、こうして知らせてくれるなら何かつかめるだろう」

 顎を撫でていた右手を膝にやった。短い焦りだった。


汰虎たとら龍欺子りゅうぎしの指示で動いている可能性は考えないのか?」

 随分とお人好しだなと縷紅るこうは疑問を口にする。縷紅は、居鷹いたかはこういうところでは情を挟まない男だと思っていた。

「そこまで汰虎があれを信頼する材料がない」

「それは私たちも同じだ、二年間生活の場を提供しただけに過ぎない」

 縷紅はわざと、『私たち』と、居鷹を含めた。居鷹が面白そうに笑む。

「身寄りを失くしたものにとって、それ程大きな恩義はあるまい」

 ニヤリ、笑むその顔は、普段全く似たところがないと思っている父親の顔とそっくりだった。

「もう一つ、これは根拠はないが、あれは汰虎を利用することなど考えない」

 根拠がない割に確信に満ちた断言の仕方だ。縷紅はこういうとき、原因の分からない不快感に襲われる。居鷹の、龍欺子のことは全て分かっているとでも言うような発言を聞く度に、名前の分からない感情がふつふつと湧き上がってくる。それが何なのか分からないが故に、益々縷紅の不快感は増長される。ひどく不愉快だ。

「北はお人好しの集りか」

 詰る縷紅に居鷹が、おや、という顔をしたが、縷紅の苛立ちの原因にまでは気付かない。居鷹にでも分からないことがあるのだと思うと、少しだけ胸がすっとした。縷紅は気持ちを立て直す。

「そうは思わんが、少なくともあれ自身もその周囲の人間も、情報操作なんて器用なことは出来ないさ。まあ、一人、面倒な姉ちゃんはいるが」

 龍欺子りゅうぎしの周辺で唯一、居鷹いたかがその出自を把握出来ていない人物。縷紅るこうは名前までは聞かされていない、居鷹が言うところの『怖い姉ちゃん』、彼女だけは居鷹にとって警戒に値する人物であるらしい。

杜宇子とうこも十分出自不明だと思うが」

「南都の南方の少数民族みたいだけど」

 確かに何て民族なのか聞いたことないなと居鷹がぼやく。随分と信頼出来るスパイがいたものだ。縷紅はもう、居鷹の人選に関しては気に留めないことにした。

「話はそれだけか」

 縷紅は言いながら立ち上がる。居鷹は立ち上がらない。腕を組んでしばし思案顔でいる。縷紅は居鷹を残してこの部屋を出るわけにもいかないので立ったまま、居鷹を見下ろして待った。あまり見下ろすことのない異母兄の姿を何とはなしに眺めた。いつも軽装の居鷹は右頬の印がなければ誰も皇族とは気付くまい。


「あると言えばあるし、ないと言えばない」

 ようやく口を開いたが、明確な内容ではなかった。縷紅は待ち損だったかと部屋の御簾を開けようとしたが、それは唐突に立ち上がった居鷹によって止められた。じっと縷紅の目を睨むように見つめる。

「あると言えばあるんだよ」

「ないと言えばないんだろう?」

 ため息をつき、居鷹いたか縷紅るこうから視線をそらした。うつむき気味の横顔から、思案する様子が伺える。縷紅は再び待つ。何かそんな言い難い話題があるのだろうか。

 異母兄の常にはない躊躇の様子に、縷紅は眉をひそめる。良い話ではないだろう。

汰虎たとらがな、狐の母親は誰なんだろうと聞いてきた」

 居鷹が掴んでいた手を放した。自身は椅子に腰を下ろす。縷紅は止められたままの格好でじっと立ち止まっていた。

「それに、何か問題でも?」

 縷紅は腰掛けた居鷹を見下ろし尋ねる。

「いや、何も。いや、分からない。なぜ聞いてきたのだろう」

「誰も知らないんだ、疑問に思うことは不思議じゃない」

 ましてや、汰虎が龍欺子りゅうぎしの近くにいて、人としての彼を見たならば、今まで気に留めることのなかった彼の母親について気になるようになったって、おかしなことではない。頭に浮かんだ疑問を思いついたまま手紙に書いたまでの話だ。居鷹の懸念が縷紅には分からない。

「そうだな、汰虎が疑問に思うのは自然だ」

「龍欺子は汰虎を利用しないのだろう?」

 縷紅の問いかけに居鷹がはっと顔を上げる。何かに気付いた表情だったか縷紅には全く居鷹の思考が見えてこない。

「汰虎は狐にも聞いただろうか、母親は誰なのかと」

 縷紅はそれが自分に問いかけられたものなのか、居鷹の独り言なのか分からず、ただ黙って異母兄を眺めた。どちらにせよ、自分に答えられるものではない。

「狐が汰虎に母親は誰かと聞かれたとき、どう思うだろう」

 居鷹が、今度は縷紅の顔を見上げ、言った。どう思う? 縷紅には質問の意図がつかめない。何を思うというのだろう。彼の母親を知る者はいない。彼はこれまでに幾度となく同じ質問をされているだろう。今更汰虎から聞かれたからと言って、何を思うだろうか。

「居鷹、お前が気にしていることが分からない」

「俺から聞けと言われて聞いたのではないかと、思わないだろうか」

 ようやく、居鷹が懸念の中身を言った。

「俺があれの母親のことを知ろうとしていると、あれは思わないだろうか」

 じっと居鷹の目が縷紅の目を見つめる。

「気にし過ぎだ。そう思ったところで何だ、誰も知らないことだ、誰もが疑問に思う、誰もが聞きたがることだ」

 縷紅るこうは言い捨て、居鷹いたかに立ち上がれと手振りで命ずる。居鷹はまだ何か言いたそうだったが、大人しく従った。御簾を上げ、寝室から出る。縷紅も出、日の当たる部屋に目を細める。それでも今日はあまり日差しの強くない日だったので、すぐに目が慣れる。うつむき気味の異母兄の後ろ姿はまだ何かを考えているようだった。

「居鷹、誰も知らないことだ、これからも、永遠に」

 居鷹が縷紅に振り向く。その表情からは何の感情も見出せなかった。


「満月が近いな」

 一言、言い残し、居鷹は縷紅の部屋から出て行く。その後ろ姿を虚ろな目で縷紅は見送った。

「北の化け物の死以外に、狂気の呪いから逃れる術はない」

 誰が何を知っていても、知らなくとも同じだ。一人になった部屋で縷紅は小さくこぼした。居鷹が聞いていたらまた、あの、縷紅がいたたまれなくなる表情をしていただろう。

「月を消すことが出来ない以上、月に呪われた男を殺すしかないじゃないか」

 弱々しい縷紅の声は、誰の耳に届くこともなかった。


 狂気の夜が近付いていた。



  二、満月


 それは多分、異常なんだと思う。居鷹いたかは幾度か縷紅るこうの母親に会ったことがある。いっかな兄弟の母親といえど、自分の肉親でもない女性の部屋へ入ることは、破天荒で売っている居鷹にも戸惑いを感じさせた。これが、他の兄弟の母親であったなら、たとえ誘われたとしても会ってみたいと思うことも、興味を持つこともなかっただろう。

 だが、それは、その人は、曰く付きでやってきた、北の女性だった。それも、現在は滄桑院そうそういんと呼ばれている前北帝の同腹の妹だ。大いに、好奇心が刺激されるじゃないか。

 だから、縷紅が何気なく母親の話題を出したときに、さり気なさを装いながら、冗談ぽく、見てみたいもんだなぁと言ってみた。駄目で元々って思っていたから、本当に軽い口調で、半ば独り言のように口に出した。

 後から思えば、縷紅はそのとき、意図的に母親の話題を出していたのかもしれなかった。縷紅は驚くでもなく呆れるでもなく、するっと居鷹の、通常であれば無礼過ぎる申し出を承諾した。


 一般には琳琅后りんろうごうと呼ばれる、縷紅の母親の鶯月おうげつとの面会は、それから幾日も経たない内に実現した。まるで散歩にでも誘うような口調で、縷紅は居鷹を呼び、居鷹に心の準備を整えるひますら与えず、まっすぐ、鶯月の元へと案内した。


 美人だな。ぱっと視界に鶯月が入った瞬間に、居鷹の頭に浮かんだ言葉はそれだけだった。縷紅もとても整った顔立ちをしている。なるほど、確かに縷紅の母親だ、絶世の美人と讃えられるのも納得出来る美しさだった。だが、どういうわけか、美しい以外の何も感じなかった。縷紅の後ろについて鶯月に近付き、縷紅に従って座った。

 鶯月の部屋は畳敷きで、椅子がなかった。床に直に座るのに慣れていない居鷹はギクシャクと座った。

 俺は今きっと、借りてきた猫のようなのだろう、居鷹は自分を冷やかして、それで何とか顔に笑顔を浮かべた。

 鶯月に他を圧倒するような雰囲気があるわけではなかった。部屋の雰囲気は確かに、居鷹の母親の部屋とは大分違ったが、それはそれで、ただそれだけのことでしかないし、そもそもそのとき、居鷹には部屋の中を見渡す余裕はなかった。

 何があるわけでもない、ただ美しいだけの鶯月に全てを吸い取られているような、妙な感じがあった。部屋に入ってくるまでにはあった緊張感・好奇心・不安や興奮、そういった感情の全てが、鶯月という置物に吸い取られているような、墨で塗り潰されて自分では感じられなくなっているような、そんな感じがあった。

 どうにかあいさつをして、名乗って、落ち着いてきた頃、居鷹は鶯月に対して感じる不快感にも似た感情の理由を知る。空虚なのだ、あまりに空虚な存在。

 何もないその人は、しかし、恐らく居鷹いたかが知るべきではない秘密を内包していた。鶯月おうげつが居鷹に淡々と話している間、縷紅るこうはじっとそれに耳を傾けているようでもあれば、ぼんやりと畳の編み目を数えているようでもあった。

 だから、居鷹は、後々思うようになるのだ。これは、最初から仕組まれていた密会だったのではないかと。


 二度目の面会で、居鷹は鶯月の『発作』を見た。縷紅や女官たちが『発作』と呼ぶそれは、居鷹には、出来ればもう二度とお目にかかりたくないものだった。鶯月を襲う、狂気。それは満月の夜には必ず起こる。そして、満月の夜以外にも気まぐれに起こる。

 居鷹は、縷紅が満月の夜には必ず母親の部屋に行くことを知っていた。そしてその理由も、何となく察していた。かねてより鶯月には狐憑きではないかという噂があった。居鷹としても、本当に狐に憑かれているのだと思っているわけではなかったが、何かしら、病があって奇行をとるのだろうと、そう考えていた。

 けれど、実際は想像をはるかに超えていた。

 唐突に叫び始め、髪をかきむしる。次いで辺りに手をさまよわせ、物を探している風な行動をとった。だが、鶯月の周りにあったものは、その狂気が始まるや否や、女官たちが鶯月の手の届かないところへと持ち去っていた。

 結局、お目当ての物を得られなかった手は、そのまま腹へと移動し、かきむしるような、むしろ、引き裂こうとしているような動きを始めた。縷紅が言うには、過去に一度、刃物で腹を切り裂こうとしたことがあるらしい。

 『あれを殺して、あれを殺して、銀の化け物を! 食われてしまう、あれに食われてしまう!』

 まるで死のうとしているとしか思えないような行動をとりながら、死を恐れる鶯月の叫びが、居鷹の頭に時折甦ることがある。ほとんどの叫びは意味をなさないでいたのに、その叫びだけは、やたらとはっきり口にする。居鷹には、それが呪いのように思えた。鶯月が縷紅にかけている呪いに。


 居鷹は、他のどの兄弟よりも縷紅を気に入っている。同じ母親から生まれた同腹の兄弟はいるが、そして常識外の行動を取る居鷹とはいえ、そこは他と同じように同腹の兄弟は他の母親の違う兄弟たちよりも可愛いと感じている。母親が違えば育つ家も違ってくる。だから当然、同じ家で育つ同腹の兄弟こそ、一番兄弟という認識を持て、どの兄弟よりも肉親としての情愛が湧く。

 だが、縷紅に関しては、その、同腹か否かを超越して気に入っている。どの兄弟よりも聡明で、落ち着いている。ただ、母親への依存が少しばかり強いようなのが難点だと思っていたが、何回か鶯月に会ってみて、むしろ、母親の方が縷紅へ依存しているのだと知った。それでもやはり、難点であることに変わりはないのだが。

 母親が生きている限り、縷紅にかけられている呪いは解けない。あれを殺さねばならないと思っている。その一方で、縷紅はあれに、焦がれている。

 それもやはり、呪いなのかもしれない。

 何も知らなければ、縷紅にとってあれは、あれでしかなかったに違いない。特別な感情を抱くこともない、ただ少し邪魔くさいなぁと思うことくらいはあったかもしれないが。

 でも決して、苦しみの原因になるような存在ではなかったはずだ。


 居鷹いたかは、縷紅るこうを解放してやりたいと思っている。母親は違えど、可愛い弟だし、兄弟の中で一番気に入っているし。そして、多分、縷紅も、居鷹に救いを求めているだろうと、居鷹は自惚れでなく確信していた。だからこそ、言ってはならない秘密を教えようと思ったのだろう。

 そして、鶯月おうげつも、もしかしたら、救われたいのかもしれない。秘密は、厳密には縷紅のものではなく、鶯月のものだ。それを自ら話したということは、縷紅の連れてきた男にかけてみようという気があるのかもしれない。あるいは、状況判断が出来なくなっているのか。

 縷紅は自分の感情を表に出すことがほとんどない。それは居鷹に対してもあまり変わらない。けれど、居鷹が近付いてくることを許容している。人との関わりを最小限に抑えている節があるのに、居鷹の与太話にはよく付き合うし、自ら話しかけることすらある。

 それが、居鷹には不思議だった。縷紅が自分に興味を持つ理由が見当たらなかったから。けれど、今では分かる。居鷹は南の人間の中で一番あれの情報を持っているのだ。だから、縷紅はむしろ進んで居鷹に近付きたいと思っていたはずなのだ。


 ああ、けれど、可愛い弟よ。居鷹は願う。初めこそは意図することがあったからだったにせよ、今、居鷹との会話の時間を他の誰よりとも長く持ち、果ては己の部屋に無断で入ることまで許しているのは、自分を気に入ってくれているからなんだと、兄として認めてくれているからだなと、そう思っても構わないだろ?

 最近手に入れたばかりの、美酒と名高い酒を手に、居鷹は馬に跨る。明るく晴れ渡った空を仰げば、そこには控えめな月が見える。

 片思いは切ないからねぇ。馬を走らせ、一路、北へ。


 可愛い弟を解放してやる鍵は北にある。縷紅が全く憎しみもないのに殺したいと願い、そのくせ喉から手が出るほど欲している、あれ。恐らくは、鶯月自身も、本当はあれを手に入れたいのだろう、その胸に力いっぱい抱きしめてやりたいんだろう。けれどその愛は別方向に向かい、あれ自身には憎しみのみを抱いて、狂気の中で過去を取り戻そうとしている。

 それは多分、異常なんだと思う。居鷹はもう一度、昼の明るさに身を隠すような月を仰ぎ見る。ずっと昼間のまんまだったら、関心を持たれることすらなかったかもしれない、人を狂わせるようなこともなかったのだろう。けれど、夜は来る。月は自分の存在を知らせようと、懸命に輝く。

 もがき苦しんでいるのは月も太陽も同じだ。月は光を欲し、太陽は己の熱に焼かれまいと足掻く。幼い頃聞いた物語のように、月と太陽とで、夜と昼との住み分けなんぞ、実際はしていない。月は昼にも顔を出し、太陽の心をくすぶらせる。

「さあ、会いに行こうか、北の化け物に」

 居鷹は、春真っ盛りの花に溢れた道を愛馬と共に駆け抜ける。

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誰もが知る物語の誰も知らぬ物語 田間世一 @tamaseichi

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