第3章:月の裏側が見たいなら

   一、慌しく過ぎる朝


「おはようございます、朝ご飯はお済みですか?」

 存在感の薄い男に聞かれる。右頬の印・座っている場所・装束、どれを取っても北帝であることは間違いない。だが、その姿は汰虎たとらをひどく失望させた。朝日の光に溶かされて、まるでそこの部分だけ塗り忘れられたまま放置されている絵のようだ。そこに貼り付く仮面のような感情の見えない微笑。本人には全く存在感がないのに、そこだけ妙に脳に焼き付く。落ち着かないったらない。

「食べてる途中でここに連れてこられた」

「お茶が来ましたね」

 仮面のように変わらない北帝の微笑に対峙させられて、汰虎の動揺は大きい。それでもどうにか冷静さを保とうと、相手の質問に答えたが、敬語を忘れた。縷紅るこう居鷹いたかは汰虎に敬語で喋ることを求めなかったので、その癖が出てしまったのかもしれない。汰虎はしまったと思ったが、北帝は気にした風でもなく、そして汰虎の返事を聞いたのかどうかすら分からない反応を見せた。北帝が汰虎よりも向こう側を見ていたので、汰虎は少しばかりためらいがあったが、後方を見る。北帝から視線を外すことに不安を感じていた。

 汰虎が視線をやった先には女性が一人、お茶を三式を盆に乗せてこちらに向かってきていた。うつぼを連想した。同じ仕事をしている人物であることは間違いないだろう。ただ靫とは大きく違う点があった。ほとんど何の表情も見せずにこちらへやって来る。部屋まで来てようやく、汰虎にだけ、ご挨拶に笑みを見せたが、それもすぐに引っ込んだ。ずっと優しく微笑んでくれていたうつぼとは大違いだ。

「朝ごはん、途中だそうです」

銀輪ごんりん様の分もお持ちしますか?」

 女性の問いかけに北帝がどうしようかなあと首を傾げる。茶を卓の上に置き、女性はお持ちしますと言って立ち去る。立ち去り際、少将から俺の分もと頼まれたが、それに対して何の反応も見せずに行ってしまった。女性を見送り、汰虎が北帝に向き直ると、北帝が笑みを崩さず、汰虎に卓を挟んだ隣の椅子に座るよう勧めた。

 汰虎は戸惑う。少将がガタガタと、部屋の隅にあった椅子を近くに運び座り、汰虎に北帝の横の椅子を勧めた。仕方がないので言われるがままに座る。北帝の微笑がさっきより近い。居心地の悪さも増す。


 少将が茶の蓋を取ると、知っている香りがした。いつか靫が一度だけ入れてくれたものの、あまり好きではなかったお茶の香りに似ている。

「南の方はあまりこのお茶が好きではない方が多いそうですね」

 北帝が、汰虎が南の人間であることを知っているような言い方をしたので、汰虎は一瞬どきりとした。どきりとして、願書に書いた出身地を見たのかと思い至った。だとすれば、居鷹が言っていた通り、北帝は今は存在しない村の名前に気がついたということなのだろうか。

「少将殿もあまり得意ではないんですよ」

 汰虎に向かってにっこりと微笑んだ後(元々微笑みっぱなしなんだけど)、北帝は、お行儀悪くずずずっと音を立てて茶をすすっていた少将に視線を向けた。この話の流れだと、少将も南の出身だということになるが、この男は身の周りに南の人間を集めるのが趣味なのか? 汰虎は呆れる。

白山葉はくざんようっていうと、ここ五年で一番、一般の人間に被害が出たとこだろ」

 少将がもう一度ずずずっと茶をすすってから汰虎に言った。白山葉っていうのが汰虎の出身地一帯だ。あそこはひどかった。少将の表情が少しばかり暗くなる。茶を卓の上に置いて、少将が汰虎の方へと身を乗り出した。人差し指が汰虎の腰辺りを指す。

「それで、悪帝退治に来たか」

 汰虎は腰に刀を差していたことを思い出してはっとした。慌てて北帝の顔を見たが、北帝は二人のやりとりとは全くの別世界にいるように見えた。汰虎は柄を指先でなでる。あの刻まれたバツ印が内側にあることを確認してほっとする。居鷹いたかが北都に来ていたときに、北帝の父親である滄桑院そうそういんからもらった刀だ、ひょっとしたら北帝も知っているかもしれない。南の人間であることは知られていても、まさか居鷹が北の事情を探るために遣わした人間だということまでは知られていないはず。だとしたら、この刀が居鷹の物だと気付かれるのはマズイ。

「不用意に刀に触るもんじゃねーぜ、おちびさん。ここには怖い姉ちゃんがいるからな」

 少将が茶を手に取りながら、ニヤリと笑った。『怖い姉ちゃん』、居鷹もそんなことを言っていた。と、少将の向こう側にこちらに近付いてくる女性がいることに気が付いた。汰虎の反応に少将も何か気付いたのか、汰虎の見ている先を見、そして固まった。


 女性の額には焼印があった。皇族女性の印だ。だが、皇族女性とは思えない軽装、それもズボン姿で、なおかつありえないことに、坊主頭だった。とてもはっきりした顔立ちで、誰が見ても美人だと思うだろう女性だった。その人が大股にやって来、北帝の部屋へ入ってきた。汰虎をちらっと見て首を傾げたが、すぐに北帝へと視線を向けなおした。

「美しい方は頭の形も美しいんですね」

 誉め言葉なのかどうか判断に窮する北帝の発言。多分、本人は誉め言葉のつもりなんだろうと思うが。少将はあんぐりと口を開けて固まったまま動かない。真っ直ぐ立つ女性は服装こそ軽装ではあったが、気品や風格を感じる。まさかこの人が『怖い姉ちゃん』ってわけではないよな。汰虎は困惑しながら状況を見守る。

「この子どもは?」

「うわああああああ!」

 女性が汰虎たとらを指差し尋ねるのと重なって悲鳴のような叫び声が響いた。女性とは全く逆の、淡白な顔立ちの男性。右頬には皇族男性の印。こちらは身分に合った服装をしている。

「名前、何でしたっけ」

「やややややややかく、どうしたことなんだ、これは」

 叫び声なんて聞こえてない風の北帝は汰虎に名を尋ね、淡白な顔立ちの男性はまだ叫ぶ。汰虎はどうすべきなのか分からず、北帝の顔を見、女性の顔を見た。この状況下で自己紹介を始めるべきなのだろうか。

刃梟はきょう、とりあえず深呼吸。坊や、私は夜鶴やかく芙蓉ふようみやと呼ばれることの方が多いけど」

「あ、えと、俺は汰虎」

 汰虎の動揺を見て取った女性が名乗ったので、汰虎も合わせて名乗ったが、やっぱりどうも、自己紹介って雰囲気ではないように思えてしょうがない。しかも初対面の人間にさらっとわたくしの名前で名乗る女性に戸惑いを覚える。本来だったら“芙蓉の宮”という公の名前のみを名乗るべきではないのだろうか。それとも北ではあまりこだわらないのだろうか。

「そ、よろしく、汰虎。ここにいるってことは銀輪ごんりんに気に入られちゃったってわけね。ああ、一応、夜鶴っていうのは私の名前だから、ここ以外では使わないでね。それと、あっちで可愛い反応してくれてるのは刃梟、普通は龍赳子りゅうきゅうしって呼ばれてる子」

 腕組みして仁王立ちしてても夜鶴は気品がある。それに半ば見惚れながらも、さらさらっと私の名前付きで紹介された名前と顔をしっかり頭に入れる。つか、つまり東宮(北の言い方だと春宮)ってことじゃないか、叫んでた人。噂の人徳者とは思えない派手な登場をしてくれた刃梟は、夜鶴に言われるに従って深呼吸をして気持ちを落ち着けている。


「芙蓉の宮、その、頭、一体」

 どうにかフリーズ状態から抜け出した少将が恐る恐る夜鶴に聞く。夜鶴がちろんと少将に視線を向ける。

「狐に嫁入りしろって言われたから、だったら尼になってやるって剃ってやったの」

 本当に出家する気はないけどね。夜鶴が北帝を見る。北帝はにっこりと笑みを見せて、大胆ですねーと感心するように一言。どうも、雰囲気的にここで言う『狐』とやらは北帝であるようなのに、自分との結婚を派手に拒否してる相手に見せる反応なのだろうか。夜鶴は溜息ひとつ。

「刃梟の十分の一くらいでも動揺してくれればまだ可愛いのに。本当にあんた嫌いだわ」

 くるっと踵を返して、部屋を出て行く。慌てて刃梟が夜鶴を呼び止めるが聞きやしない。刃梟は北帝にまた出直しますと言い残し、夜鶴を追いかけていった。何だか嵐のようだった。


「おっどろいたー。あー、芙蓉の宮を銀輪の正室にしようって動きがあるってのは聞いてたけど」

 既に姿のない夜鶴の後姿を見ながら、少将が溜息をこぼした。普通、それなりのご身分の女性は一人では出歩かない。そもそも姿を見せることすら稀なものだ。それなのに、少将と面識があるところを見ると、夜鶴はかなり規格外な行動を取る人なのだろう。そもそもここに乗り込んで来たってだけでもまず規格外なのだが。その上丸坊主。

 それと、汰虎には気になることがひとつ。

「ごんりん?」

 この章の冒頭ら辺からずっと、当然のように出てきている聞きなれない固有名詞らしきもの。ひょっとしてひょっとしちゃうんだろうなと分かってないながらも、汰虎たとらは少将に確認してみる。

「そいつの名前。龍欺子りゅうぎしなんていう恐れ多い名前も一応あるけど」

 少将が指差した先は予想通り北帝だった。一国の皇帝の、本来親ぐらいしか呼ばないはずの私の名前が、ずっと気軽に連呼されている。

「ちなみに俺は鳳冥ほうめいな、鳳凰の鳳に冥土の冥。ごんりんは銀の輪」

 ご丁寧に漢字まで教えていただきまして。そんでもってお茶を持ってきた女官が三人分の朝食を持って再登場。皇帝なら少しは良いものを食べているのかと思いきや、またあの硬いパンが現れた。違うのは、温められていて、いくらか食欲をそそる匂いがしてくれているところくらい。

「あ、それとこれ優女やさめね。優しい女でやさめ。お前の巻物見つけたの、優女なんだよ」

「その刀はあくまで護身用にしておいてくださいね」

 少将に紹介された優女が、ふんわりと優しく微笑んで、忠告した。汰虎の腰にある刀に気付いていたらしい。汰虎は黙って頷いた。何となく、逆らってはいけない感じがした。

「あんまり子どもを脅すもんじゃねーぜ」

 机に置かれた皿からパンを一枚手に取り、少将改め鳳冥が優女に言った。優女はそれに微笑みで返答。それは、鳳冥の忠告を聞く気があるのかないのかどちらなのだろう。


 汰虎も鳳冥にならい、おずおずと皿のパンに手を伸ばす。持ってみた感じ、季諾ときつくのところで食べたものよりは柔らかそうだった、あくまで比較の問題でしかないが。汰虎がパンを取ったところで、優女は皿を北帝改め銀輪ごんりんの前へと差し出した。銀輪は一度躊躇を見せたが、大人しく一枚手に取った。優女が皿を卓の上に戻す。食べてくださいね。優女は銀輪に言い、鳳冥を見、部屋の出入り口で一礼して出て行った。鳳冥は優女に頷いて見せた後、小さく溜息をついた。

 汰虎はパンを手にしたものの、食べて良いものか分からず、二人の様子をひたすら観察していた。正直なことを言うなら食べたい。朝食を中断して連れてこられたから少しばかり空腹を感じている。でも銀輪は一向に食べ始めない。優女を座ったまんま見送った鳳冥がようやくパンにかぶりついた。でも銀輪は動かない。

「あんま食わずに来たんじゃねーの? 食えよ、大して美味いもんじゃねーが、食えないよりはずっと良い」

「お茶も気に入らなければ換えさせますよ」

 鳳冥がようやく汰虎を促してくれた。それに続いて銀輪も、汰虎が全くお茶に口をつけていないことに気付いたようで、にっこり微笑みながら言った。お茶は匂いに慣れないだけで飲めないわけじゃない。飲む暇がなかっただけだ。夜鶴やかくが登場し、刃梟はきょうが現れ、騒々しい中で、暢気にお茶をすすっていたのは銀輪だけだ。

「気に入らなくはないよ」

「それに慣れねーとな、北で出てくるお茶は大概これだから」

 もう半分くらいになったパンをぴらぴらしながら、鳳冥が言う。喋る口の中にまだ咀嚼中のパンが残っている。何ともお行儀が悪い。同じ農村出身で近衛になった人間でも、季諾ときつくとはえらい違いだ。育ちの悪さがもろに出ている。こんな風でよく左近衛少将なんてやっていられるものだ。

 汰虎はパンを一口食べる。うーん、少しは美味しいだろうか。隣では銀輪がパンを皿に戻そうとしていた。食えよ。気付いた鳳冥ほうめいがぴしゃりと言う。銀輪はにこにこ微笑んだまま、パンを皿に戻すことを諦めた。だが、手に持ったまま食べようとしない。その間にも鳳冥は食べ終わり、もう一枚、皿に乗っていたパンに手をつける。

「そのパン嫌いなの?」

 パンがパサパサで口が渇くので、お茶を少し飲んでから、汰虎は銀輪に聞いた。銀輪は表情を変えないものの、返答に困っているようだった。汰虎は首を傾げる。何か困るようなことを聞いただろうか。

「そいつはね、それが嫌いなんじゃなくて、食うことが嫌いなの」

「それも少し違うかなー」

「違わねーよ。物が何だろうと食おうとしねーじゃねーか」

 どうやら反論出来ないらしい。銀輪は口を開きかけたものの、すぐに閉じた。それを見る鳳冥の表情が得意気だ。

 銀輪が細長い指でパンを一口分ちぎる。食えよ。もう一度鳳冥が言った。汰虎はパンを食べながら、ひとちぎりのパンと睨み合いを続ける銀輪を観察する。髪にも肌にも艶を感じない。顔はそんなに痩せている風には見えないが(だからといってふくよかなわけでもない)、指の細さを見るに、服に隠れている部分に厚みがあるとは思えない。そのせいだろうか、大層立派な生地で作られた服に負けている。押し潰されそうだ。


「おちびさん」

「汰虎」

「……汰虎、来たばっかで悪いんだがよ、食い終わって一息ついたら図書部行くぞ」

 鳳冥の言葉に汰虎は驚く。そういえば来るときに図書部がどうのって言ってはいたが。汰虎の驚きに鳳冥は納得するように頷き、最後の一口を押し込んで、図書部がお前の仕事場だよと言った。

「午前中だけか午後だけか、どっちだけで良いからうちへ寄越して欲しいって図書部が懇願するもんでさ。一応お前は皇帝付きの……何て言うんだろうな、世話係というか、子守というか、なんだけど」

 言って、鳳冥はぱんぱんっと手を払って、お茶も飲みきる。汰虎は自分の北での役割がいまいち分からずぼんやりする。

「俺も基本的には左近衛少将ってやつの仕事があってここにはいないことの方が多い。優女やさめは用のあるときにしか姿を現さない。お前としてもこいつと二人きりで部屋にこもってんのなんてごめんだろ。俺は図書部の連中の仕事なんてさっぱり分からんが、たぶん、ここにいるよりは楽しいぜ。勉強出来る奴ってのは本好きが多いし。お前もなんじゃねーの、汰虎」

「あ、うん、多分、好き」

「じゃとりあえずそれ、さっさと食っちまいな」

 まだ半分ほど残っている汰虎たとらのパンを指差す。言われて汰虎は少しばかり食べるペースを上げたが、銀輪ごんりんはまだ一口目を見つめている。普通、人間ってお腹が空いたら美味しくないものでも妥協して食べるもんじゃないか? 汰虎は思ったが、先ほどの話を聞いた限りでは選り好みして食べないわけでなないようだし、さっぱり理解出来ない。

 鳳冥ほうめいが立ち上がった。銀輪の前に立つと、パンをふんだくって半分にちぎる。半分を銀輪に返し、残り半分を自分の口に入れる。立ったまんまパンを食べながら自分を見下ろす鳳冥に諦めたように微笑を見せ、銀輪はようやくちぎって持っていた一口分を口の中に入れた。しばらくもぐもぐと咀嚼する。飲み込むのに苦労している風でもあった。

 銀輪が最初の一口に苦労している間に汰虎は残っていた半分の半分を食べ終わる。茶をすすり、残りの分を食べきる。そしてお茶を飲み終わった頃、銀輪がようやく二口目を食べ終わった。一体何時間かけて食べる気なのだろう。鳳冥は当然のように銀輪から取った半分のパンを食べ終わっている。あまつさえ、自分の分のお茶は飲みきってしまっていたので、銀輪のお茶を少々失敬する始末だ。これが南だったら、縷紅るこうのものに誰かが手をつけるなんて考えられないことだ。それがたとえ居鷹いたかであっても許されないだろう。だが、銀輪は特にそれを咎めるようなこともせず、ひたすら自分に課せられたノルマと闘っている。

 汰虎は落ち着いて周りを見渡して、見える範囲に自分たち以外の人間がいないことに気が付いた。人払い、してあるのかもしれないけれど。


 あまりの食べる遅さに、最終的に鳳冥は痺れを切らし、四分の一を奪い、口に入れると、残りは食えと言い残し、汰虎を伴い、銀輪の、皇帝の居住空間から出てしまった。

「良いの?」

 何となく、汰虎は聞いた。立ち去り際、銀輪を振り返ると、片手にパンを持ったまま、ひらひらと空いている手を振って見送っていた。あのまま残していってパンを食べるのかどうかも分からなかったが、何よりも、建物の中に銀輪以外の人間がいるように見えなかったことに不安を感じた。

「あれ、次からはお前の仕事だから。銀輪に物食わせるの」

「え、あ、え? あー、そうなん……いや、衛兵とか何とかいる雰囲気でなかったけど」

 鳳冥がぴたりと立ち止まる。汰虎は危うくぶつかるところだった。鳳冥がかがみこんで汰虎に目の高さを合わせる。大きな顔、太い眉、がっちりっとした首。いかにも武人な鳳冥が少し意地悪な笑みを見せる。

「お前、悪帝退治に来たんじゃねーの?」

 そいつがなぜ皇帝の身の周りの警備の薄さを気にかける? 言外に聞かれて汰虎は反応に困った。

 汰虎が親の仇として思い浮かべていた『北帝』は、もっと悪役然としていた。偉そうに、どっかりと肥満気味の体で、椅子の上で踏ん反り返っていなければならなかったのに。実際はどうだろう。日の光に溶けてしまいそうなほど薄い存在感、痩せた指。顔に浮かぶ笑みは貼り付けられた仮面のようではあったが、見下しているわけではなかった。ただ、遠ざけている感じはしたが。

 悪役があんな人の同情を買う姿をしていては、正義のヒーローだって大弱りだ。

 鳳冥が大きな手で汰虎の頭をぐしゃぐしゃっとかき混ぜた。境河さかいがわを渡る前、季諾ときつくが御者の頭をぐしゃぐしゃっとかき混ぜていた映像が汰虎の頭に流れる。あのとき、本当は少し、御者が羨ましかった。鳳冥の手は、農作業から遠ざかって久しい季諾の手と違い、マメだらけだった。刀を握るせいなのかもしれない。

「心配すんな。怖い姉ちゃんがいるから、余計なもんは近付けないんだよ。俺だって、銀輪を殺そうと思って中に入ったら……あー、入りきらねー内にだな、首が、すっぱーん」

 指で首を横に切って、ニヤリ、鳳冥ほうめいが笑う。冗談なのか本当なのか分かりにくい。あんなのが死んでも俺は何とも思わない。汰虎たとらは意地を張った。鳳冥はふーんとからかう笑みを向け、立ち上がった。お前は自分のやるべきことをやんな。そう言って歩き始めた。

 自分のやるべきことって何だろう。家族を亡くした悲しみを、北帝を怨むことで解消してきていた自分に、やるべきことなんてあるのだろうか。汰虎は天を仰いだ。


 図書部に着くと、図書部の人間は鳳冥に対して、鳳冥の言葉を借りて言うと、とても『友好的』に対応した。鳳冥が友好的だと表現する図書部の対応は汰虎には耐え難く不愉快だった。得てして学のある人間は学のない人間を見下す傾向にある。汰虎自身、自分にそういうきらいがあることは自覚しているが、自分のことを差し引いてもまだなおあまりある態度だった。完全に鳳冥を一人の人間として認めていないような態度だった。傍で見ている汰虎には腹立たしくて仕方がないのに、当の鳳冥がにこにこと愛想良く相手していたことが余計に気に入らなかった。昼食の頃にまた迎えに来るよと、立ち去り際に汰虎の頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜていった鳳冥は、やはり何を気にしている様子も見られなかった。

 鳳冥に対する態度はひどかったが、汰虎に対してはそんなにひどくなかった。これも、季諾のところで食べたパンと、銀輪のところで食べたパンとの差ほどでしかなかったが、とりあえず、我慢の範囲内ではあった。

「汰虎、君の仕事は図書の整理だ、具体的なことは彼に聞いてくれ」

 どうやら図書部のお偉いさんらしい人に案内されて行った部屋には、見渡す限りの本、本、本! 汰虎の目が興奮と感動で輝いた。それにお偉いさんは少しばかり気を良くした。汰虎の直接の上司となる男に、まあ君、良くしてやってくれなんて偉そうに言って、その場を離れていった。

「こんなにたくさんの本を見るのは初めて?」

「初めて! あ、初めてです」

 興奮のままに敬語を忘れて返事した汰虎に、上司の眉がぴくりとするのに気付き、汰虎は慌てて言い直した。汰虎は面倒臭いと思わなくもなかったが、ここは本の数に免じて許してやることにした。

「君の仕事は君が初めて見るほどの数の本全てを目録に収めることだ」

 え? 汰虎は聞き返しそうになった。自分の耳を疑った。汰虎のいた南帝直営の孤児院・養栄園の本だって(冊数は確かに少なかったが)、きちんと目録が作られ整理されている。まさかここの本は全く整理されていないなんてことがあるはずがないよな。期待を込めて上司の顔を見たが、突きつけられた現実は、ある意味期待通りだった。大昔に作られた図書整理指南書(文学の時間に見せてもらったことがある)と、中途というか、思いっきり序盤な感じの作りかけ(正確には作り始め)の目録を渡された。

「ここは君一人に任せるから。やりがいがあるだろう?」

 部屋の外からくすくす笑いが聞こえてくる。それに混じって、あんなちびが皇帝のお気に入りだなんてという声が聞こえた。図書部へやって来る途中、鳳冥ほうめいから図書部の人間は基本的に皇帝派だと聞いていた。だから納得した。これはねたみによる嫌がらせなのだと。

 なるほど、鳳冥が彼らの『友好的』な態度に、怒りをこらえている風ですらもなく、本当に気にしていない様子だった理由が汰虎たとらにも分かった。腹を立てるに値しない相手だからだ。やることがあまりにつまらない、人間が小さい。

 汰虎はにっこりと子どもらしい笑顔を見せた。意識してそうしたんじゃない、自然とそうなった。

「ありがとうございます、がんばります」

 くすくす笑いは一度どよめきになり、そして小さな罵倒となった後、消えた。思惑通りにならなかったのが面白くなかったのだろう、外の野次馬たちはそれぞれの持ち場に戻っていった。上司は思いっきり引き攣った作り笑いを浮かべ、精一杯偉ぶって、頼もしいなと言い、じゃあ任せると去っていった。


 汰虎はぺたんとその場に座り込む。考えてみたら、図書整理を一から全部自分でやれるチャンスなんて、これが最初で最後かもしれない。これは、めちゃくちゃ幸運ことなんじゃないだろうか。そう思うと汰虎はわくわくしてきた。誰にも邪魔されず、ここにこもっていられるなら、丸一日だって苦痛じゃない。むしろ、あの仮面笑顔の男のいる場所に午後には戻らないといけないことの方がずっと億劫だ。

 だけど、残念ながら、楽しい時間ほど、過ぎるのは速いもので。

「よう、迎えに来たぜ」

 本の量に唖然としながらも声をかけてきた鳳冥を、汰虎は思いっきり恨みがましく睨み付けた。

「えと、ごめんなさい、お昼です」

「知ってる」

 汰虎の睨み付けに後退あとずさりながら、遠慮がちに言う鳳冥に、汰虎は立ち上がって不機嫌に答えた。

「こりゃま、半日で馴染むたー、子どもはすごいねー」

 鳳冥のぼやきは無視した。



   二、渦中の人


 夜鶴やかくは激情の中にいた。

 夜鶴は皇族女性なので額に焼印がある。成人するときにつけられた。そのときの痛みをはっきりと覚えている。気を失う者も少なくない皇族女性の成人するための通過儀礼を、夜鶴はしっかり目を開いて受けた。目を閉じてしまったら(ましてや気絶なんてしようものなら)負けな気がしていた。何にかは本人も分かっていなかったが、とにかく負けてなるものかと、その一心で乗り切った。

 鏡の中に映る自分の額を見る。前髪を真ん中で分けて焼印がしっかり見えるようにしている。これは自分の証明であり、また、自分を皇族女性であるという身分に縛り付ける枷なのだとも思っている。だから、決して隠さない。私は私に勝たなければならない。子どもの頃から夜鶴が強く持っている信念だ。

 夜鶴は普通、芙蓉ふようみやと呼ばれる。皇族・貴族はおいそれと名前を呼ばれてはならない。なぜなら名前はとても大切なものだから、魂に等しいから。この考え方は、この国、くさびを建てた民族が古く持っていた思想だ。だから、皇族・貴族には、人から呼ばれる用の名前がある。それが公の名前で、夜鶴の場合、芙蓉の宮というのが公の名前に当たる。


 長く伸ばした髪の一房を、夜鶴は左手でむんずと握り、そして右手に持っていたハサミでざっくり切った。同時に聞こえる悲鳴。夜鶴の様子がおかしいと思って成り行きを見守っていた女官のものだ。夜鶴が左手を開くと、不揃いに切られた髪がばさっと音を立てて落ちた。女官の悲鳴や制止を一切合財無視して、鏡の中の自分を睨みつけながら、夜鶴はどんどん髪を切って、肩につかないくらいの長さにしてしまった。何かに納得するように鏡に向かって頷き、夜鶴はくるりと体を反転させた。夜鶴の視界には諸々に動揺している女官たちの姿。

「頭を剃りたいから手伝って」

 女官たちが一斉に夜鶴の脚にすがって、それだけはおやめくださいと懇願する。それでも、夜鶴は引かなかった。髪を切ったくらいじゃ納まりがつかない激情の中にあった。

 夜鶴は前皇帝の滄桑院そうそういんの顧問という立場にいる上一条殿かみいちじょうどのの正妻・玲珂妃れいかひの娘で、今二十一歳。十六歳で成人して、十七~十八歳頃には粗方が結婚して母親になるのが楔女性としては一般的な姿だ。それを考えると未だ独身というのは行き遅れ感がある。世間的には父親の上一条殿が売り渋っているせいだと言われているし、それが事実でもあるが、もうひとつの理由に、本人が行きたがらないからというのもある。

 夜鶴は並一通りの人生を送ることに抵抗を感じていた。なぜかは本人にもよく分からない。もしかしたら、母親の玲珂妃が模範的な女性だからなのかもしれない。夜鶴には決して母親を軽んずる気持ちはないが、母親と同じ生き方を望む気持ちもない。父親の決めた男の子どもを産んで終わり。もっとも、女の仕事はこれだけではない。本人に野心さえあれば、子どもを使って何かしらの実権を握ることも可能だし、自分の家と夫の家とを繋ぐ役割も持つ。更に、相手となる男が皇帝となれば、息子は後々皇帝になる可能性が高く、また、息子を産みさえすれば、それだけで自分の家の位も上がる。

 しかし、だ、夜鶴には野心なんてものはない。そして何が悪いって、一番悪いのは、父親によって決められた男ってのが、現皇帝であることだった。

 昨日の夕方、突然父親の上一条殿がやってきた。滅多にやって来ないので、母親の玲珂妃はとても喜んでいたが、夜鶴はあまり良い感じがしなかった。普段、手紙の一つも寄越さずほったらかしなのに、事前連絡なしに押しかけてきて、それでも歓迎されると信じて疑っていない父親にも、またそんな父親の身勝手な期待に応えてしまう母親にも、夜鶴は不満があった。

 とても不愉快で納得の行かない気持ちを抱えたまま、会食の席に着いていた。ただでさえマイナス方向に働いていた感情に油を差してきたのは父親だ。

「芙蓉よ、確かお前は龍欺子りゅぎしからの覚えが良かったよな」

 父親がそれまでの会話と関係なく夜鶴やかくに聞いた。父親の上一条殿は過去に何度か『夜鶴』と呼ぶことを試みていたが、拒まれてしまった。だから、娘の名前を、公の名前で呼んでいる。

「顔見知りではあるけど?」

 夜鶴のつっけんどんな物言いを母親の玲珂妃れいかひが軽くたしなめたが、夜鶴は気にせず、じっと上一条殿の顔をねめつけていた。上一条殿は軽く苦笑したものの、夜鶴の態度に気を悪くした様子は見せなかった。


 彼には二人の自慢の娘がいる。息子には恵まれなかったが、この二人の娘は何にも代え難く貴重な存在となっている。『北の大地に咲く枯れることを知らない花』と謳われる二人の娘の一人は夜鶴で、もう一人はその異母妹の鶴峰つるね、公の名前は馬上姫まがみひめという。大人しく座っていれば美貌の娘たち。はっきりした顔立ち、艶やかな髪、白く輝く肌。妹の鶴峰に馬上姫なんて名前がつくところからも察しがつく通り、どういうわけか二人が二人揃ってはねっかえりなのが問題ではあったが。とにかく親の言うことを聞いてくれない。だが、その性格のおかげで、そこら辺のつまらない男に引っかかることなく残っているのだから、可愛く思える。良い話はいくらでもあった。それら全てを断ってきたのには、ずっと狙っていた相手がいるからだ。それがようやく手に入る。

「幼少のみぎりからの付き合いだろ?」

「そういう言い方も出来たかな」

 あくまで突き放したような物言いを変えない夜鶴に玲珂妃は落ち着きなく目配せを繰り返す。それが、言葉を慎めという意味であることくらいは夜鶴にだって分かっている。けれど、穏やかにお上品に話す気にはなれなかった。この話の流れはとても嫌な感じがする。上一条殿の上機嫌な表情が、夜鶴の嫌な感情を増幅させている。いつかはこの話が来るだろうとは思っていた。上一条殿は滄桑院そうそういんからの信頼が厚い。

「お前を、龍欺子の正室にという話が出ているんだ」

 夜鶴はそれを、とても無感情に聞いた。

「まあ、まあ、まあ、夜鶴、幸せなことじゃないの!」

 玲珂妃は夜鶴の反応に気付いていない様子で嬉しそうに言う。上一条殿も玲珂妃の反応にご満悦顔だ。夜鶴は嬉しそうにあれやこれやと盛り上がる両親を、別世界の人間のように見ていた。静かな表情の下で、ふつふつと怒りがこみ上げてきているのを感じていた。

 分かっていたことだった、いつかはそんな日が来るだろうことは。けれど、実際にその日が来た実感は、今まで想像していたものとは違った。分かりきったことだから、案外諦めがつくものなのかもしれないと思っていた。龍欺子すなわち銀輪ごんりんとは上一条殿が言う通り、それなりに付き合いは長い。突然皇帝として現れた彼に、いくらかの不信感と少しばかりの同情心、それと、それなりの親しみも持ってはいる。けれど、銀輪がどういう人物であるかということとは全く関係ないところで、夜鶴は怒りを感じていた。

「芙蓉、良い話だろ。これ以上にない話だ。お前は皇后になり、お前の産む子は将来の皇帝になる。女としてこれほど栄誉なことはあるまい」

 上一条殿の得意気な発言が、夜鶴やかくの神経を逆撫でした。はっきりと、夜鶴の顔に怒りの表情が浮かぶ。と、同時に、夜鶴は立ち上がっていた。さすがに上一条殿がたじろぐ。

「冗談じゃない、あいつの子どもを産むなんてまっぴらごめん! あいつの室に入れられるくらいだったら尼になった方がマシ!」

「夜鶴、何てこと言うの」

「芙蓉よ、つまらない意地を張るな。下手に顔見知りだから照れているだけだろう?」

 慌てふためく玲珂妃れいかひと、冷静ぶる上一条殿かみいちじょうどの。冗談じゃない。今度は口に出さず胸の内に吐き捨てた。冗談じゃない、私の生き方を他の人間に決めさせて良いわけがない。

「私は絶対に、あいつの室なんかに入らない」

 はっきりと、ゆっくりと、言い切った。玲珂妃が今にも泣き出しそうな顔をしていた。

「では、龍赳子りゅうきゅうしはどうだね」

 動揺を押し隠して、上一条殿が妥協案を提示する。どちらかといえば将来性のある龍赳子の方が上一条殿としても理想的だった。だが、この提案は却って夜鶴の態度を意固地にさせることになった。夜鶴はひどく自尊心を傷付けられた。へらへらと笑う上一条殿に一瞥くれて、黙ってその場を立ち去る。


「夜鶴、どこへ行くの」

 ひどく慌てる玲珂妃の声。彼女は正室でありながら息子を産めなかった。第一子である夜鶴を産むとき、ひどい難産だったため、上一条殿は玲珂妃に二人目を産ませることを諦めた。そのため、玲珂妃は正室でありながら上一条殿から冷遇されてきた。それが、夜鶴が見目麗しく育ってくれたおかげで少しばかり待遇は良くなったが、少しばかりでしかない。けれど、夜鶴が銀輪の正室になればぐっと待遇が良くなるだろう。恐らく玲珂妃はそれを期待している。夜鶴としても、それで母親が喜ぶのなら、叶えてあげたいとも思う。あんな生き方はしたくないとは思っているが、決して母親が嫌いなわけではない。むしろ、たおやかな花のような玲珂妃を愛しく思っている。父親は当てにならない。自分が母親を守らなければならない、そう思ってる。

「まあ、落ち着きなさい、ただ啖呵を切ったに過ぎない。本当に尼になったりするものかね」

 偉そうに玲珂妃をなだめる上一条殿の声が立ち去る夜鶴の耳に届いた。母親のことを思うと申し訳なくなる。けれど、やはり、夜鶴はどうしても、上一条殿の望むようには生きたくない。

「あんたの予想通り尼になったりはしなけど」

 夜鶴は自分の部屋に戻りながら独り言ちる。

「頭を剃るくらいのことはしてやる」


 かくして、今の状況にいたる。さすがに感情のままにその場で頭を剃るようなことはしなかった。少し落ち着いて、一晩眠り、朝起きて食事をとり、しばらく考えた。そして、強く実感した。頭を剃るくらいのことはしないと納まりがつかない。冷静に考えて、それは冷静な判断ではない。それぐらいは夜鶴やかくも分かっている。つまらない意地で頭を剃るなんて馬鹿げている。それでも、どうしても、頭を剃るぐらいのことはしなければ、自分にけじめがつかないと思った。

「芙蓉の宮、どうかお考え直しください」

「どうせこれだけ切っちゃったら同じでしょ、剃るの手伝ってちょうだい」

「しかし芙蓉の宮」

 女官たちは必死に夜鶴を止める。夜鶴もそれを見ながらどうしたものかと考える。彼女たちに手伝わせると、後々、彼女らが咎めを受ける事態にもなりかねない。無理強いをするわけにもいかないか、夜鶴は諦めた。

「分かった、あなたたちには頼まない。自分で剃る」

 それは何の解決にもなっていない、女官たちにとっては。だが夜鶴はこれで全てがすっきりと解決していた。さっさと人払いをする。女官たちはうろたえながらも、聞ける方の命令を聞くことにした。すっと頭を下げ、夜鶴の部屋を出て行った。

 一人になって夜鶴は考えた。頭を剃るって、どうやれば良いんだろう。仕方がないのでハサミで切れるだけ切ってみたが、坊主頭には程遠い。悩みながら鏡とハサミとを交互に眺めていたら、人の気配がした。心配になった女官が戻ってきたのだろうか。夜鶴が振り向くと、額を飾りで隠したおかっぱ頭のよく見知った顔があった。

「姉上、不器用なんですから、自分で剃ろうなんて思わないでください」

 思いっきり呆れ顔の、妹。

鶴峰つるね、どうしてここに?」

 ぱっと顔をほころばせて、夜鶴は鶴峰に尋ねた。鶴峰は夜鶴と母親が違うので、別の屋敷に住んでいる。母親同士の関係が良いため、二人も仲が良く、よく訪ねてきてはいるが、まだ朝も早い時間だというのに。

「昨日、玲珂妃れいかひから母上のところに知らせが届いたの。父上が見えたことと、姉上が尼になるって啖呵を切ったこととの。姉上のことだから、頭を剃るくらいはやりかねないと思って」

 さすが、妹。夜鶴は感嘆する。母親も違い、住むところも違う姉妹ながら、二人は同腹の姉妹のように育ってきた。夜鶴にとっては誰にも代え難い一番の理解者だ。

「夜遅くに訪ねるわけにもいかないから朝になってから来てみたら案の定。外で女官たちに聞いたよ」

「返す言葉もないわ。何もかもお見通しね」

 からっと笑う夜鶴に鶴峰は溜息をつく。そして、黙って頭を剃るのを手伝う。母親からは夜鶴を止めるよう仰せつかってきた。けれど、この姉が、人の制止なんぞ聞くわけがない。鶴峰は初めから手伝うつもりでここへ来た。自分が止めたくらいで思いとどまってくれるようでは、鶴峰が憧れ慕う姉ではない。自分の決めたことは絶対に遣り通す、そんな姉だからこそ、鶴峰は夜鶴を心から敬愛しているのだから。


「姉上の髪、とてもきれないのに、やっぱり少し惜しいな」

 夜鶴の頭皮を傷付けることがないよう気を付け剃り落としながら溜息混じりに鶴峰が言うと、夜鶴は笑った。

「髪の毛なんて放っといたらまた伸びるじゃない」

「それはそうだけど」

 だけどやっぱり、もったいない。全て剃り落とすと、夜鶴は女官を呼んで、髪の毛を片付けさせた。部屋の片付けのために呼び戻された女官たちは、夜鶴の姿を見るなり、ほうっと溜息をついた。坊主頭になった夜鶴は、それでもやはり美しかった。

「鶴峰、馬で来ている?」

「え、ええ、そうだけど」

「じゃ、送ってちょうだい。あいつのところに行きたいから」

 これは見通せていなかったらしい。鶴峰は驚き、少し慌てたが、すぐに諦めるように息をつくと、分かったと返事をした。夜鶴は鶴峰の馬に乗せてもらい、銀輪ごんりんの私空間である建物の入口のところで下ろしてもらった。昼頃迎えに来ますと言って鶴峰は去っていった。夜鶴は一人、銀輪の部屋へ向かっていった。


 特に理由はなかったのだが、とにかく一言、銀輪に言ってやらねばと思った。ただそれだけで来た。

 銀輪の部屋には見慣れた鳳冥ほうめいの後姿と、これまたうんざりするほど見慣れた銀輪の笑みがあった。部屋に入ると、見慣れない子どもがいた。銀輪の部屋には銀輪が入ることを許した者しか入れない。そして銀輪は、そばに置く人間を選ぶ。夜鶴は自由に出入りしているが、鶴峰は確かこの建物に入ったことすらないはずだ。選ぶ基準がどこにあるのかは分からないが、銀輪は彼なりの選り好みをして部屋に入って良い人間を決めている。だから、夜鶴やかくは、この部屋に入る者全てを信用することにしている。

 銀輪の的外れな誉め言葉を無視して、子どもについて尋ねたとき、後ろで大きな声がした。声の主は無論、銀輪の選考を受けて許されている人物。それも、絶対の信頼と、銀輪なりの愛情も向けられている人物。

刃梟はきょう、とりあえず深呼吸」

 龍赳子りゅうきゅうしとも呼ばれる刃梟は、銀輪の異母弟でかつ、正室の第一子にして息子。本来であれば銀輪よりも先に皇帝に即位していてしかるべき人物。世間では悲劇のヒーロー扱いをされることも多いが、彼自身は自分はトップに立つのには向いていないと思っている上に、銀輪に大層懐いているので、その辺り全く気にしていない。今も特に用があるわけでもなく、兄の顔を見るためだけに来たのだろう。

「坊や、私は夜鶴、芙蓉の宮と呼ばれることの方が多いけど」

 刃梟の派手な登場に戸惑っているらしい子どもに夜鶴の方から名乗ると、おずおずと、子どもも名乗った。汰虎たとらというらしい。気の毒に、変なものから気に入られてしまって。挨拶がてら刃梟の紹介もしてやる。じっと黙っていた鳳冥がようやくここで夜鶴の頭のことを尋ねてきて、夜鶴は自分が何のためにここに来たのかを忘れかけていたことに気付いた。

「狐に嫁入りしろって言われたから、だったら尼になるってそってやったの。本当に出家する気はないけどね」

「大胆ですねー」

 銀輪の暢気な声に夜鶴は脱力感を覚える。まあ、こんな反応だろうってことくらいは分かってはいた。刃梟の十分の一でも動揺してくれればまだ可愛いのに。夜鶴はぼやく。本当にあんた嫌いだわ。変わらぬ微笑の銀輪に一瞥くれてやり、くるりと反転、来た道を戻る。


 夜鶴が外に出たところで刃梟は呼び止めた。

「夜鶴、その、何て言うか」

 呼び止めはしたものの、どう言葉をかけたら良いのか分からないでいる刃梟に、夜鶴は優しく笑みを向けた。刃梟は可愛い、そう思う。同時にもう少しくらい野心があっても良いんじゃないかとも思う。彼は決して表立とうとはせず、静かに銀輪の後ろに控えている。どう考えたってあんなぼんくらよりあんたが皇帝になった方が良いのに。何度か本人に向かって言っているが、刃梟は全くそんな気はないらしい。自分は向いていないから、そう言う。けれど、今だって、滄桑院そうそういんが定期的にやってきて一気に片付けてしまう案件以外の、日常の些事に関しては、刃梟が銀輪に代わって決済している。だったら、皇帝になっているのと変わらないんじゃないかと思うが、違うらしい。

「私の部屋で少し話をしないか?」

 ようやく刃梟が言葉を見つけた。というか、とりあえずの突破口というか、いつまでも二人で外に突っ立っていても仕方がないので室内に入ることにした。


 刃梟は部屋に入るとすぐに人払いをした。女官が立ち去り、続いて近衛がいなくなり、刃梟と夜鶴の二人だけになった。普通はこうだ。夜鶴の部屋だってこうだ。けれど、銀輪の部屋には相変わらず、目に見えるところにいるのは鳳冥ほうめいくらい。それだって常にいるわけではない。夜鶴が行くときには比較的いる確率は高いが。そこまで考えて思い出した。

「子どもが一人いたけど」

「ああ、そういえばいたね。それよりも君の……いや、なぜあんなところに子どもが?」

 刃梟はきょうは一度夜鶴の話をしようとして、はたと止まった。銀輪ごんりんの部屋に行ったときは夜鶴の様変わりした姿に驚くのに精一杯であまり気にしていなかったが、そういえば知らない顔がいた。

「そういえば昨日お会いしたときに人が一人増えるかもしれないと仰っていたな。物珍しいのが来るという話だったが、子どものことだったのか」

 ほとんど独り言のように話す刃梟の話を聞きながら、また銀輪の気まぐれかと夜鶴は溜息をついた。変なのに気に入られてあの子ども、確か汰虎といった、気の毒なことこの上ない。『また』と言っても二回目なのだが、前回が記憶に新しいため『また』かと感じる。

「鳳冥の重用も突然で驚かされたけど、今度は子どもとはね」

「私としては少し安心するけど、兄者は何にも執着を見せない人だから。でも、子どもじゃ護衛にはならないな」

 ふうっと溜息をつき、刃梟は立ったままなことに気付いて、夜鶴に椅子を勧め、自分も座った。共に落ち着くと、また深く息をついた。重苦しさがあった。


「父上から今日来るって連絡があったんだ。それを伝えに行ったんだけど」

 しばらくして刃梟が言った。滄桑院そうそういんは皇宮から離れた場所に住んでいる。皇帝を退いた者は院という居を構えてそこに住むようになる。だから院と呼ばれる。

「……定期的な訪問とは違うよね」

「それはいちいち連絡が来ないし、そもそも時期じゃない。用件は、君の髪の件で聞けたようなものだから、今更兄者に伝えに行く必要もなさそうだ」

 再び重い沈黙。今度も重い口を開いたのは刃梟だった。

「いつ、聞いたの?」

 夜鶴の顔を見ずに聞く。夜鶴は額の印を指でなぞった。

「昨日、夕食の席で」

 しばらく沈黙。

「昨日? 夜? で、今朝にそれ?」

 刃梟はきょうは今度は夜鶴やかくの顔を見た。指が夜鶴のない髪を指す。口調もさっきまでと違い、呆れ口調。夜鶴は少し気持ちが落ち着いた。重苦しさのない、いつもの調子だ。夜鶴が、うん、と頷くと、刃梟は盛大な溜息をつく。朝から一体何回溜息をつくのだろう。

「それはまた、何て言うか、らしいと言えばらしいけど、思い切ったんだね」

「だって、冗談じゃない。何であんな奴の妻になんぞならなきゃならないの。人生捨てるのと同じじゃない」

 ぶすっと言う夜鶴に刃梟がちろりと横目で視線を寄越す。まずったかな、と夜鶴はそろり、視線をそらした。

「君にとってはただの腐れ縁なんだろうが、私にとっては至上の兄なんだ、言葉に気をつけてもらえるかな」

 そういう刃梟の目付きが剣呑だ。夜鶴はガラにもなく愛想笑いなんぞ浮かべてみせる。どういうわけだか、この人気絶頂な次期皇帝様は、大変大変それはもう度を越して、兄である人気不絶頂な皇帝をお慕い申し上げているんだなあ、本当、どうしてなんだか全ての人にとって謎なんだけど。兄弟の情ってのは、理屈とは無縁なのかもしれないと、夜鶴は結論付ける。

「ごめんなさい。ちょっと言い過ぎた。本当言うと、銀輪ごんりんなんて何があっても嫌って思ってるんじゃなくて」

 謝罪の言葉を言うときだけ刃梟の顔を見たが、夜鶴はすぐに両手で顔を覆ってうつむいた。少し言葉に間を空ける。感情に任せて銀輪を傷付けるような物言いをしてしまったかもしれない。夜鶴は今朝の自分の行動を悔いた。頭を剃ったことではなく、銀輪を否定するような発言をしてしまったことを。

「父上の言うがままになるのが嫌だっただけなのに。銀輪にしてみればとんだとばっちりだよね」

 ふうっと深く息をつく。刃梟にしてみても、兄のことを悪く言われたのがちょっと気に入らなかっただけで、夜鶴の性格はよく分かっているつもりだ。だから、むっとはしたものの、こんなに深く沈む必要までなかったのにと、少々うろたえる。

「謝ってくる。ついでに院が来ることも伝えておく。いつ来るの?」

「夕食を一緒に、という話だから、まあ、そのくらいの時間に」

 突然ガバっと顔を上げた夜鶴に刃梟は答えながら、父の使いが寄越した手紙を広げる。いつものことながら簡潔な文章。『お前も同席したいようならいても構わない』、最後に走り書きで書き足された文章が、父親の中での自分の存在をそのまま表しているのではないかと刃梟は思う。付け足しの存在。

 夜鶴は少しお行儀が悪いかなと思ったが、横から刃梟が広げている手紙を覗き見た。父親が息子に宛てる手紙なんてこんなものだろうか。ずいぶんあっさりしている。

「分かった、じゃ、そう伝えとく」

「うん、頼むよ」

 夜鶴にふわっと微笑むと、刃梟は外まで送った。夜鶴は刃梟と分かれると、銀輪の部屋に直行する。しかし、と、夜鶴は思う、あの男は果たして部屋にいるだろうか。好きではない使者が来たと分かると雲隠れしてしまう男だ。滄桑院そうそういんが来るときには大体どこかへ姿を隠してしまっていることを考えると、もう部屋から立ち去っているかもしれない。案の定、夜鶴が建物に入ると人の気配がしない。

「やっぱり逃げたか」

 いつもの癖で頭に触れて、髪のない自分の頭に驚く。驚いて、驚いた自分がおかしくて笑った。



   三、怖い姉ちゃん登場


 鳳冥ほうめいに伴われて、汰虎たとら銀輪ごんりんの住む建物の前まで来たとき、馬に乗った女性がやって来た。ふわりと馬から降りると、その女性は鳳冥に会釈し、汰虎を見て首を傾げた後、鳳冥に対するのと同じように汰虎にも会釈をした。

 きれいな髪を肩につくかつかないかの長さに切りそろえている。髪の短い女性を見る機会がないので、汰虎にはその姿が不思議に見えた。まあ、今朝方もっと短くしている女性を見たところではあるが。

「姉上を迎えに来たんだ。もし中にいたら呼んでいただけるかな」

 ずいぶんと硬い物言いをする人だな。女性の思いがけない口調に汰虎は面食らう。飾りで故意に隠された額には恐らく焼印があるのだろう。軽装ながらも仕立ての良い服を着ている。鳳冥は女性に分かりましたと答えると、汰虎を促して中へ入った。中に入ると、銀輪のいるはずの場所に、優雅にお茶を飲む夜鶴やかくの姿があった。

芙蓉ふようみや馬上姫まがみひめが迎えにみえてましたよ」

 特に驚く様子もなく、鳳冥が夜鶴に伝える。外に来ていた女性は馬上姫というようだ。夜鶴は、残りわずかなお茶を飲みきって、そ、ありがと、と立ち上がった。

「私からも伝言。滄桑院そうそういんが本日、お夕食を共にするためにおいでになるそうよ」

「あー、こちらのご用件で」

 鳳冥が自分の頭を指しながら言うと、夜鶴は苦笑した。

「そういうこと。じゃ、私は帰るから、後はよろしく」

 ぴらぴらと手を振りながら夜鶴は出て行った。鳳冥に聞くと、外で待っていた馬上姫というのは、わたくしの名前を鶴峰つるねという、夜鶴の妹という話だった。

「仲の良いご姉妹で、共に美しく、そして、共にじゃじゃ馬なんだな」

 肩をすくめて鳳冥が言った。銀輪の周りには身分相応の行動をとる人はいないんだねと汰虎が言うと、鳳冥が豪快に笑った。

「銀輪自身が身分相応のことをしねーしな。さて、親父さんに会いたがらねードラ息子を探しに行かにゃー」

 そう言って、入ったばかりの建物の外に出る。銀輪はしょっちゅう、使者やら何やらの謁見から逃げていると聞いて、汰虎は心底呆れた。お前はあんま中のことが分かってないからなーと、独り言のように鳳冥は言うと、汰虎に建物のすぐ裏の庭を探すよう指示した。建物の北側に庭を造るなんて変わってる。汰虎が言うと、庭といっても大半は木が鬱蒼と茂っているだけの場所だと鳳冥が答えた。

「銀輪が気に入ってよくいるもんだから、せめて雨だけでもしのげるようにって屋根付きの休憩所みたいなのが造ってあるのと、あと何かちょこっとあったかな。そんなもんの場所だよ」

「……それ、『庭』?」

「俺はそう呼んでる。だだっ広いし、視界が悪いから根気良く探してくれや。ついでにこれも、お前の仕事の内だから。隠れん坊要員が増えてくれて助かるわー」

 にっしっしっと笑って、鳳冥ほうめいは別の場所を探しに行くと言って立ち去った。試験の日、季諾ときつくが言っていた『隠れん坊』ってこのことだったのか。全く探す気もなく、汰虎たとらはとりあえず鳳冥の言う『庭』に行ってみると、警備上よろしくないだろうこれはっていう光景があった。


 建物の裏に入る前から木がそこそこに植えられている。いくらか歩いていくと、多少視界は開けた。建物の窓から光が入るようにするために、そこだけは低い木がまばらにあるだけになっていた。そんな、すぐ見つかる場所にはいてくれなかった。あまり気は乗らなかったが、汰虎は木立の中へと入る。思ったほど暗くはなかったが、南都から北都へ来る途中の山を連想させる不気味さがある。南よりも寒いから、余計にそんな感じがするのかもしれない。

 ざくざく枯葉を踏みながら歩く。音を立てるのもはばかれる雰囲気があったが、音を立てていないと落ち着かなくもあった。妙に不安をあおられる木々の中に、突然、鮮やかな緑色の屋根のある、八角形の簡素な休憩所のようなものが現れた。屋根と柱と、半分の高さまでの壁。二面だけ、壁がついていない場所があるのは出入り用なのだろう。中は少しだけ床が高くしてある。壁のある面は椅子状になっていて、真ん中には丸いテーブルがとりつけられている。外側も内側もきちんと掃除されているのが周りの風景に合っていない。周りには、多少庭っぽくしようとした跡なのか、元々そこにあるものなのか、大きな石が点在している。

 ぐるりと見回しても人のいる様子はない。もう少しばかり歩くと、明るくなって、今度はぽっかりと木のない空間が現れた。見上げると、調度真昼の太陽が丸く区切られた空間の真ん中に見えた。

 真ん中に立ってぐるりと見渡す。何のための空間なのだろう。故意にあけられた空間だと思われるのだが、そこには何もなく、草が生い茂っているだけ。その草も、全く人の手が入っておらず、伸びたい放題だ。人が横になっていても気付けそうにないな。そう思いながら汰虎が踏み出したら、むにっと柔らかいものに足が触れた。一度おろしていた足を上げ、何かに触ったその場所を見ると、見覚えのある布地があり、それが、動いた。

 のったりと起き上がったそれは、銀輪ごんりんだった。寝ていたらしく、少々ぼんやりした表情でしばらく汰虎の顔を眺めた後、たった半日もしない間に見飽きた微笑を浮かべた。

「もうお昼ご飯は食べました?」

 人の食事の心配なんてどうでも良いから自分がちゃんと食べろよ。思わず突っ込みそうになる。

「まだ。あんたの失踪のせいで食べ損ねてる」

 言った途端、お腹が鳴った。奇妙な庭の探検に気を取られ、空腹感をすっかり忘れていたらしい。お腹をさすって、汰虎は銀輪に戻ろうよと声をかけた。しばらく微笑のまま銀輪は動かなかった。お腹空いた。もう一度声をかける。少しばかり、決めあぐねている様子だった。汰虎はもう一度、お腹が空いたから戻りたいと訴えてみた。やっぱり動かない。

滄桑院そうそういんが来るの、夕方らしいよ」

 えい、最後の一押し。汰虎たとらはこれで動かなかったら、一人で戻ろうと決めた。いた場所だけ鳳冥ほうめいに伝えれば十分だろう。

 銀輪が動いた。が、姿勢を変えただけだった。膝を抱え、その上に顎を乗せる。

「お腹、空いてるんですか?」

 唐突な質問に、汰虎はとっさに反応出来ず、少しの間固まり、それから、うんと答えた。銀輪は、そうですかと言うなり、それきりまた黙ってしまった。


 どうしよう、戻ろうか、それとも説得を続けるか。一度は一人で戻ってしまえば良いやと思っていたのに、いざとなると、どうも置いていくのに抵抗を覚える。困った。汰虎はここでタイミング良く鳳冥が現れることを期待したが、それは叶わず、また、予想外に優女やさめが登場するなんてこともなかった。

「お腹、空かないの?」

「……空いた、かな。空いたかもしれません」

「戻ろうよ」

 汰虎はちょっとだけ泣きたい気分だった。本当にどうしたら良いのか分からない。事切れた親にすがりつきながら泣いたことを思い出す。普段は思い出さないようにしているのに、どうしたら良いのか、途方に暮れると不意に記憶が甦る。気持ちが暗くなるのに合わせて影が落ちた。光を遮るものを見上げると、銀輪だった。立ち上がった銀輪は、汰虎が思っていたよりも、ずっと背が高かった。


 大体、南の人間はあまり背が高くない。北へ来て、背の高い人が多いなと思っていたが、その背の高い人たちよりも、銀輪は更に背が高い。あんなに食べないでこんなに背が高いんじゃ、立っているだけでも億劫なんじゃなかろうかと汰虎は思った。ありがたいことに、銀輪の背の高さに対する驚きで、思い出したくない過去の映像はどこかに吹き飛んでいた。

「お昼ご飯、何でしょうね」

 銀輪ごんりんが微笑む。やっぱり仮面みたいだと思ったが、朝ほど落ち着かなさを感じなくなっていた。慣れたのかもしれない。戻る道で、汰虎は朝のパンは食べきったのか銀輪に聞いた。銀輪は食べたと答えた後、口うるさいのを増やしてしまったと笑った。口うるさくされないようにすれば良いのだと文句を言って、汰虎は、あれを聞いてみても構わないだろうかと、ふと興味を持った。

「銀輪には、母親がいないっていうのは本当なの?」

 あまりにも身長差があるため、それまでは顔を見ずに話していたが、このときだけは自分よりもずっと高いところにある銀輪の顔を見上げた。

 汰虎は、北帝に母親がいるかいないかなんてことを気にしていなかった。家族のあるなしなんてことに気をかけたこともないし、北帝というものがどういう人間なのかということを考えたことがなかった。北帝が現実の人間であるという認識が薄かったからかもしれない。それが、銀輪という一人の、ちょっと困った手のかかる人間として目の前に現れたことで、汰虎の中に好奇心が湧いてきた。

 銀輪は相変わらずの笑みのまま、気を悪くした風でもなく、汰虎の顔を見、それから前を向いた。汰虎も前を見る。

「いないのかどうかは知りません。ただ分からないのは本当です。父上ならご存知なんでしょうが。それと、産んだ当人もご存知でしょうね」

 ご存命であれば、名乗り出てくれるかもしれません、人であれば。軽い口調でそう付け足したのは、世間様で自分が化け物呼ばわりされていることを知っているからだろう。

滄桑院そうそういんに聞いたことはないの?」

 もうすぐ『庭』を出てしまう。そうすると何だか聞き辛い。汰虎は足を止めた。銀輪もそれに合わせる。汰虎が銀輪の顔を見上げると、銀輪は木の葉の間に見える細切れの空を見上げていた。

「ここに来てしばらくして、母親がいるのが普通だと知って、一度だけ聞いてみたことがあります」

 汰虎の位置からだと銀輪の表情を見ることは出来ない。声の調子は変わっていなように聞こえる。銀輪が汰虎に振り向いた。表情はやっぱりあの仮面笑顔だった。

「私は、母上には似ていないそうです」

 それが、滄桑院からの答えだったのだろうか。肝心なところをぼやかされた感じで気持ち悪いが、銀輪はもうこの話を続ける気はないらしく、歩き始めてしまった。汰虎も歩き出す。『庭』を出てしまった。昼の日差しの中だと、銀輪は一層か細く見えた。


 部屋に戻って少しした頃、鳳冥ほうめいが戻ってき、それに合わせるように優女やさめがお茶と昼食を持ってきた。

「ちまきだー!」

 久々の米料理に汰虎が歓喜の声を上げると、優女が笑った。ちなみにこのちまきは中華ちまきの方を思い浮かべていただきたい。

「珍しい。南のちまきか」

 鳳冥も心なしか嬉しそうだ。

「北と南でちまき違うの?」

「おう、北のは味なしの餅で、甘いもんつけて食うんだよ」

 汰虎にはちょっと想像がつかない。

「まだ北の食べ物に舌が慣れていないようでしたから、南出身の料理人に聞いて作ってみました」

「優女が作ったの?」

 ふんわり微笑む優女にびっくりして汰虎が聞き返す。うつぼはお茶こそ淹れたが、食事を作ることはなかった。出来上がった物を運んでくるだけだ。部屋付きの女官というのはそういう仕事のはずだ。優女はにっこり微笑んで(多分肯定の返事)、ごゆっくりお召し上がりくださいと言って、立ち去っていった。代わりに鳳冥ほうめいが銀輪は優女が作ったものではないと食べないのだと説明した。朝のパンは皇宮の厨房でまとめて作られているものだったのでなかなか食べようとしなかったらしい。

 じゃあ、優女が作ったものならぱくぱく食べるのかといえば、やっぱりそんなこともなく、当然のように一番小振りそうなものを選び、ちびちびと、食べ終わる頃にはすっかり冷え切っているのではないかと思うようなペースで食べる。確かに、朝のパンほど食べるのに苦労している様子はないが、進んで食べている風でもない。どちらかというと、優女が作ったものだから食べないわけにはいかないから無理矢理食べてるという感じだ。

 汰虎はひとつを熱い内にいただく。久々の米はとても美味しく感じた。鳳冥は、汰虎が一個を食べている間に二個平らげた。両極端だ。間を取れば調度良いのに。汰虎は思わずにいられなかった。

「じゃ、俺は行くから」

 最後にぐっとお茶を飲み干すと、鳳冥は立ち上がってそう言った。汰虎は、えっと驚く。俺には俺の仕事があるんだよと、鳳冥が苦笑を浮かべた。

 鳳冥がいるからどうなるっていう話でもないが、銀輪と二人ぼっちにされるのは何だか心細い。汰虎は聞き分けよく頷いて出て行く鳳冥を見送ったが、内心は引き留めたくて仕方がなかった。

 銀輪はというと、朝よりはいくらかペースが速く半分くらいは食べ終わっていたが、まだまだ時間がかかりそうだ。食べ終わったところで何かすることがあるのだろうか。汰虎が図書整理に取り掛かっていた時間、銀輪は恐らく庭で寝ていただけだ。


「午後からはどこか行くの? ここにいるの?」

 ひとまず予定を聞いてみる。黙っていても沈黙が辛いだけだし。ていうか今気付いた、季諾ときつくから、皇帝派に思われると面倒だと言われてたのに、汰虎が今いるところって、がっつり皇帝派ポジションじゃないか。気付いてがっくりうなだれる。半日で一年ぐらいの月日が過ぎたように感じる。

「汰虎さんは何がしたいですか?」

「図書整理」

 即答していた。ここに鳳冥ほうめいがいれば驚くなり呆れるなり、何かそれなりの反応をしてくれたに違いないが、実際には銀輪ごんりんしかいないので、午前中は楽しかったですかと普通の世間話が進む。有意義だったと答えながら、これはつまり特に何もすることがないってことなのだろうかと、汰虎はちょっと考えたくない推測をする。

「あなたは何が知りたいのですか?」

 箸を休めて銀輪が聞いた。汰虎は意図が分からず無言で銀輪の顔を見つめる。官吏登用試験を受けに来た人間をいきなり部屋付きに抜擢して、それで、何が知りたいってどういう意味だ?

「私の母親のことを聞いたのは、ただの好奇心ですか?」

 にっこりと変わらない微笑のまま、銀輪が重ねて質問する。母親のことを聞いたのは、間違いなく好奇心だった。噂話の真相が知りたくなっただけ。けれど、情報の要不要は居鷹いたかが判断するから、見聞きしたことは全て報告しろと言われている以上、報告内容に含まれることになる。そのために聞いたわけじゃない、けど、何かを聞いてこいとも言われていない。今重要なのは、汰虎は北で得た情報を全て居鷹に報告する任を受けているということ。

「好奇心だよ。父親が分からないとか、早くに亡くなっていて母親は今はいないとかなら分かるけど、母親が誰か分からないなんて、ありえそうにないことだもん。だから、本当は知ってるんじゃないかって思って聞いただけだよ」

 妙に、言い訳がましい言い方だったろうか。汰虎が答えている間、銀輪は休めていた箸を再開させていた。聞いているのかいないのかよく分からない。ひょっとしたら深い意味のない質問だったのかもしれないと汰虎は思い直した。汰虎に後ろめたさがあるために、探りを入れられたような気分になったのかもしれない。

白山葉はくざんようの山腹にある村を焼き払えと命じたのは私です」

 食べながら銀輪が言った。卓の上に一枚の紙を出す。汰虎が開いて中を見みてみると、出兵の命令書だった。いくつか白山葉にあった村の名前があり、汰虎のいた村の名前もあった。

「皆殺しを命じたはずなのに生き残りがいたなんて」

 食べながら、笑みを浮かべたまま。その命令書には、皇帝の印が押されていた。汰虎は体がかっと熱くなるのを感じた。

「困ったものです。他に生き残りは? あなただけですか? 間違いなく全員に死んでいただかなくては」

 にっこり、汰虎の顔を見た。汰虎の目の前に、銀輪はいない。燃え落ちる村と炎、炎の奥にハンコひとつで人の命をどうにでも出来てしまう北帝。何かが切れるような、そんな感じがした。汰虎は椅子に立ち上がり、片足を卓の上に乗せ、腰にあった刀を引き抜いていた。殺そうという意思があったのかどうかは、汰虎本人にも分からなかった。避けようともせず、微笑んだままの銀輪の顔が見えて、汰虎は止まった。瞬間的に平静が戻ってきた。平静さが戻って初めて、自分の首に糸のようなものが触れていることに気付いた。銀輪に斬りかかろうとしたそのままの姿で汰虎は身動きが取れなくなった。下手に動くと、首に当たっている糸で切れそうだった。


「やめてください。挑発したのは私です」

 銀輪ごんりんが言うと、糸が離れた。汰虎たとらは気が抜けてぺたんと座り込む。

「銀輪様、自ら身を危険に晒すようなことはなさらないでください。そのようなことにお使いになるのだと分かっていたら、その命令書を探し出してはきませんでした」

 姿を現したのは優女やさめだった。手には小さな何かを持っていた。さっきの糸はあれから出したのだろうか。汰虎は左手で自分の首を触る。『首が、すっぱーん』、鳳冥ほうめいが軽い口調で言った言葉を思い出す。本当に、笑い事でなく、すっぱーんと飛んでしまうんじゃなかろうか。背筋がぞくりと冷たくなる。

「すみません、驚いたでしょう。糸繰いとくりっていうそうです。糸で何でも切っちゃうんですよ」

 変わらない微笑で何でもないことのように言う。一歩間違えば目の前で人の首が飛ぶところだったのに。

「皆殺し命令は本物? あんたが命令したの?」

 少しばかり剣呑に、汰虎は銀輪に問う。優女が『探し出した』と言っていた以上、汰虎を挑発するために偽造したものではないはずだ。

「本物です。命じたのは父上です。こういう命令が下されたことを知っていて、止めなかったのは私です」

 にっこり、微笑んだまま。汰虎は奥歯をぎっと噛んだ。この人にとっては何でもないことなのか。

 銀輪様、たしなめるように優女が言った。

「銀輪様はそのような命令が出ていたことを知りませんでした。後で知りました。それは、銀輪様が皇帝である以上、何の言い訳にもなりませんが」

 優女は言って、少しばかり目を伏せる。汰虎の目からはぼろぼろ涙がこぼれていた。今まで泣いてはいけないとこらえていたものが一気にあふれ出してる感じだった。こんな紙切れ一枚で、みんなは殺されたんだ、こんな紙切れ一枚で。握りつぶそうとしたのを、銀輪が取り返す。これは必要なんです。そう言って、優女に渡した。

 続いて汰虎の右手に握られたままの刀に手を伸ばす。伸びてきた手の袖が少し引っ張られて、手首があらわになった。成人男性のものとは思えないほど細くて、身がすくんだ。刀を持っていかれる。あ、まずい。とっさに思ったが、もう刀は銀輪の手の中にあった。

「懐かしいですね」

 刀を隅々まで見ながら銀輪が言う。やはり知っていたのか、汰虎は南に追い返されるか、捕まってしまうのか、自分の先を案じた。銀輪が刀を汰虎に返す。

「昔、その刀を突きつけられました。誰からかは、言わなくてもあなたはご存知でしょう」

 返された刀を鞘にしまい、銀輪の顔を見はしたが、汰虎はそれに返事はしなかった。刀の主は知っているが、その主が過去にそんなことをしたかどうかまでは知らない。


 銀輪はやっぱり微笑を浮かべている。この人は、いつから怪しいと思っていたのだろう。最初から分かっていたなら、放っておけば良かっただけのはずだ。ということは、汰虎がここに来たときに、刀のバツ印が見えていたのか、そんなもの見なくても刀を見ただけで持ち主が分かったのだろうか。

「どうして俺をここに来させたの。どうして半日放っておいたの」

「ただ、興味が湧いたんです。なぜあんな皆殺し命令が出たのか。当事者であれば、何かを知っているのかもしれないと思った。だからわざわざ官吏試験を受けに来たのではないかと」

 銀輪はそこまで言うと、汰虎の方へ少し乗り出していた体を背もたれにもたれさせた。お茶が切れてしまいました。銀輪が言うと、優女はあの命令書を手にしたまま、その場から離れた。

「あの命令書を引っ張り出したのも好奇心です。願書に書かれた地名は本当なのかどうか。あなたの先ほどの態度を見る限り、本当だったようですね」

 首だけ汰虎の方へ向け、にっこり微笑み、そして目を閉じた。優女がお湯を持って戻ってきた。茶っ葉が直に入れてある椀に湯を足す。銀輪を心配そうに見、静かに去っていった。目をつむっている銀輪の顔色があまり良くないように見える。

「あなたがここにいたいのならいてください」

 目をつむったまま言う銀輪の言葉の意図が汰虎には分からなかった。銀輪はそのまま、眠ってしまったように見えた。汰虎はじっとその顔を見つめる。いたいのならいれば良いって言うんなら、断る理由もない。

「銀輪、俺もあの命令が出た理由を知りたい。だからここにいるよ」

 汰虎が言うと、銀輪の口元がわずかに笑みの形を作った。ゆっくりと、目を開く。髪や肌もだが、瞳も、色素が薄い。

「それは助かります。鳳冥殿は字が読めないので、文献探しには向かないんですよ」

 にっこり笑い、また、何事もなかったように箸を動かし始めた。顔色はいくらか良くなっているようだが、動きはさっきよりのろい。

「少将なのに字が読めないの?」

「事務仕事は部下がしてくれるから問題ないそうです」

 少しずつ顔色が戻っていく。疲れていただけなのかな。

「問題、大ありだと思うんだけどなー」

 汰虎がぼやくと、銀輪は楽しそうに笑った。初めて、感情の伴った笑顔を見た。大笑いしたわけではないが、それまでの笑みと大差があるわけでもないが。

「汰虎さんが字を教えてあげてください。本人、学ぼうとする気はあるそうなので」

「てことは、俺のここでの仕事は、子守と家庭教師?」

「良いですね、それ」

 子守される人間が楽しそうに笑う。汰虎が、隠れん坊要員でもあるらしいよと付け加えたら、銀輪は、今夜は見逃して欲しいなーと笑った。

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