第4章:月の見る夢
「こっぴどくフラレちゃいました」
汰虎の目の前にいる
一、楽しい楽しいお食事会
昼、銀輪をいつまでも待っていたところで一向に食べ終わりそうにもなかった。北にいる目的が出来て晴れ晴れとした気持ちでいた汰虎はじっと待っていられなくなって、部屋の掃除をしようと思いついた。
「掃除がしたいんだそうです」
銀輪がそう言うと、優女はちょっと目を
ついでだからと、建物内の案内をしてもらい(でも優女が普段どこにいるのかは教えてもらえなかった)、掃除道具を手に部屋に戻ってきたとき、銀輪はようやく昼食を食べ終えたところだった。両手に掃除道具を持った汰虎の顔を見るなり、逃げ損ねたとぼやいたのは、銀輪の本音だったのか冗談だったのか。少なくとも隙をついて逃げようなんて考えはないらしく、優女が新しく持ってきたお茶をすすりながら、せわしなく働く汰虎を遠目に眺めていた。
そこに、ふらっと鳳冥が戻ってきた。
掃除道具を持って働く汰虎を見るなり鳳冥は大笑いした。
「ぼんやり暇を潰すことが出来ねーたあ、貧乏人の悲しい性だねえ」
「うっさい、貧乏人仲間」
汰虎の返しに鳳冥がぐっと詰まった。じっとしていられないのは鳳冥も同じで、親近感から汰虎をからかっていたのを見抜かれて、苦笑いを浮かべた。そんな二人とは対極にある銀輪は、にこやかに仮面笑顔を見せていた。汰虎はもう一度、銀輪の感情の伴った表情を見たいと思ったが、それはなかなか難しかった。笑顔でなくても良いから、銀輪の感情が見たいと、汰虎は思うようになっていた。いつの間にやら掃除班に加わっていた鳳冥とやんややんやと喋りながら、ちらちらと銀輪の表情を見ていたが、仮面は強固な作りをしているらしかった。
「そいやーさ、字が読めないで、どうやって巻物探しに参加してたの?」
ひとしきり、鳳冥が文盲であることをからかった後、汰虎はふと疑問に思って聞いた。官吏試験での汰虎の解答の巻物探しを夜通ししていたという話だったが、文字が分からないでどう探したのだろか。
「そんなもん、お前の願書の字を見ながら同じもん探してたんだよ」
字なんて読めなくてもどうにかなるんだと、
「お前さ、字、教えられる?」
「え?」
「字が読めることと、教えられることって別みたいなんだよ。ホウメイはさ、読めるんだが、教えてもらってもよく分かんねーんだ」
「紡ぐ芽で、
思わずどんな字を書くのか聞いた汰虎に、鳳冥はさらっと答えた。質問しながら汰虎は、字の分からない相手に字を聞いてどうするんだと自分に呆れたのだが、思えば鳳冥は今までずっと、人の名前を紹介するときに字の説明もつけていた。
「字、分からないのに、どうして字の説明が出来るの?」
「ああ、それ。丸覚え」
字を覚えるのと、音だけで漢字の説明を覚えるのと、どちらが大変なんだろう。そういえば、文字のない民族や時代の人は、記憶に頼った口伝で、いろんな物語やら何やらを伝え残しているんだものな、下手に字なんてない方が記憶力は高まるのかもしれない。汰虎はそんなことをぼんやり考えた。が、それはそれとして、だ。
「教えられるかどうかなんて分からないよ、教えたことないもん」
紡芽とやらが、どんな教え方をして、鳳冥がどう分からないのかも分からないが、それ以前に自分だって人に物を教えたことなんてない。好奇心旺盛で、他の子どもたちが関心を持たないようなことにも興味を抱いて、あれこれ見聞きし、考えたり試したりしながら物事を覚えてきた汰虎は、自分がどうやって字を覚えたのかも分からない。そもそも子どもの自分と大人の鳳冥が同じ教えられ方をして、同じ覚え方をするものなんだろうか。
「何だよ、頼りねーなー」
「うっさい」
「試しに教えてみたら良いですよ」
汰虎の二度目のうっさいが出たところで、それまで静かに微笑をたたえて二人を見ていた銀輪が、ひょいっと口を挟んだ。鳳冥がそれもそうだなと納得する。
「銀輪様、お見えだそうです」
じゃあ、教え方を考えとくと
皇帝の居住空間となっている建物には渡り廊下一本で繋がっている離れがある。私的な客を迎えるための場所だ。そこは、先ほど優女に案内してもらって、汰虎も通路だけは見ていた。先ほどはそこに離れがあると聞いただけだったが、今度はその場所に入っていく。
汰虎は立ち上がった銀輪を見送るつもりでいた。ところが、掃除道具をその場にほいっと投げ置いた
しばらくして、銀輪の入っていった部屋から話し声が聞こえ始めた。汰虎が壁の向こうに神経をやっていたら、鳳冥が部屋の隅から机と椅子を運んできた。
「ほら、座れよ。夕飯は美味いもんにありつけるぞ」
心底嬉しそうに鳳冥が言う。ここ、護衛の詰所じゃないのかなと思ったが、あえて突っ込まず、汰虎は勧められるがまま、鳳冥の向かい側の椅子に座った。優女が食事を運んでくる。何でも銀輪たちに出されている食事と同じ物だそうで、確かに見たことないような豪華な料理だった。
「こっちに客が来るときは優女が作るから、おこぼれに預かれるんだよ」
嬉々とした様子で鳳冥が箸を握る。料理は美味しそうなんだが、普通だったら汰虎も大喜びでありつくところなのだが、今は隣の部屋にいる皇帝親子が気になって箸をつける気になれない。声から判断出来る人数は三人。一人は銀輪で、もう一人若い声がする。何となく聞いたことがある。
「今喋ってるのは
「つまり、
口に大きめの芋を入れたところだった鳳冥が、汰虎の質問に頷いて返事した。汰虎の腰に差してある刀を
「親子水入らずの食事だっつーのに、楽しそうじゃねーよな」
鳳冥が何の感慨もなくぼやく。水入らずと言っても、隣の部屋にこうして人が詰めているのだけれど。汰虎がじっと聞いていると、他愛ない世間話の後、銀輪の正室についての話題になった。
「
「耳が早いですね。残念でしたね、父上、ご破綻のようですよ」
滄桑院と刃梟はあくまで穏やかに会話をしているが、親子の会話と思えないような腹の探り合いをしているような雰囲気がある。
「そうとも限らんだろう。
いくらか間があって、それから、冒頭の銀輪の発言に繋がる。こっぴどくフラレたと暢気に言う銀輪の声に何の感情も感じない。食わないのかと
「芙蓉の宮以上にお前の正室に相応しい人間はいないだろう」
「そうですね、尼さんが狐に嫁入りしたら楽しいでしょうね」
銀輪の口調はあくまでにこやかだ。声だけでしか情報が得られないのが汰虎にはもどかしい。
「正室はいつかは入れなければならないことは分かっているだろう。
ぴたり、と、空気が止まるのを汰虎は感じた。鳳冥があれまと呟いた。
「父上、あまり食が進まないようですね。そろそろお開きにしますか?」
声の調子は変わらないが、銀輪の、それまでのらりくらりとしていたのとは、明らかに言葉の中身が違った。ささやかながらも悪意が見られる。
「せいすいごうってのは誰なの?」
隣の親子の会話への関心が薄れた汰虎が小声で鳳冥に聞く。あちらの声が聞こえるってことは、こちらの声も聞こえるってことだろうと。そういえば、鳳冥も喋るとき、それまでより声のボリュームを落としていた。
「ああ、側室、銀輪の」
「側室……いたんだ」
「十九だぜ? 側室くらいはいるだろ。ただ、子どもがいねーんだ」
仲は良いみたいなんだけどなと言い終えるなり、鳳冥はスープをしっかり染み込ませた、あの、硬いパンを口に放り込んだ。十九ってことは銀輪は
「側室に入って何年だっけ。結構若い内に室に入ったんだが、一向にご懐妊の話がなくてな。そんで役立たず呼ばわり。それが、銀輪は気に入らねーみたい」
そもそも子どもが出来ねーのって側室のせいとも限らねしなあと
「いやさ、真面目な話、子どもが出来ねーと決まって女が責められるけど、必ずしも女のせいとも限らねーじゃんね。男に原因があることだって考えられらあ」
もぐもぐと、口にいろんなものを詰め込みながら喋っているとは思えないようなまともな発言。汰虎は今し方下げたばかりの鳳冥の株を元の高さに戻しておいた。
「銀輪に何かあるってこと?」
「ん、だからヤリ方を知らねーと、と!」
得意気に知らない説を再び持ち出した鳳冥の手に熱湯がかかりそうになった。急須に湯を足しに来ていた
「兄者!」
「後はお二人でごゆっくりどうぞ。私はもうお腹いっぱいです」
「あれって銀輪、怒ってたんかねー」
「俺に聞かれても。今日会ったとこだし、分からないよ。そっちのが付き合い長いじゃん」
「つっても二年だしなー」
もう銀輪の姿は見えないと言うのに、通路を見ながら鳳冥と汰虎はぼそぼそ喋る。さすがに鳳冥の箸も止まっている。
「二年って長いよ」
「そりゃお子様時間では長いだろうけど」
ずっと黙っていた銀輪の突然の退出。顔こそいつもの仮面笑顔だったが、そして汰虎は銀輪の何を知っているわけでもなかったが、銀輪らしくない行動に思えた。それを裏付けるように、汰虎よりは銀輪を知っているはずの鳳冥も驚いている。
優女が料理を下げて戻ってきた。どうやらお隣はお開きになったようだ。
「少将殿、余った物を包みましょうか」
「お、ありがたいね。頼むよ。汰虎、お前ももらっとけば?」
「つーか、汰虎ってどうすんの、夜」
食べながら鳳冥が優女に聞く。優女の手が少しの間止まった。多分、優女も全く考えてなかったんだろう。
「今夜は少将殿のところで預かっていただけますか」
「あいよ。ほんじゃ、帰るかね」
全部たいらげた鳳冥が満足そうに立ち上がる。みやげに優女の包んでくれた残り物を持って、
まだまだ日は短く、外はすっかり暗くなっていた。鳳冥は料理を落としてしまわないよう、ゆっくり馬を走らせていたので、朝よりも周りの風景に目がやれた。空には満月を少し過ぎた月が、
二、傷負い花
それが、十歳になって間もないあの日、うっかり足を滑らせてしまったことで暗転した。
梅桃の家には代々守られてきた大きな木がある。梅桃はその木が好きでよく登っていた。その日もやはり、いつも通りに、まずぎゅっと幹を抱きしめ、木の水を吸い上げる音に耳を澄ませ、生きていることの喜びで胸をいっぱいにしてから登った。お気に入りの枝に腰をかけ、大地を見下ろす。木の上からだと何もかもが違って見えるのが楽しい。
いつもなら、心行くまで木の上から見る風景を堪能し終わったらすぐに下りていた。だけど、その日は妙に冒険心がうずいた。枝の先の方へ行ってみたくなった。座っていた場所から立ち上がり、そろりと一歩、先の方へと歩く。とても太い枝だから、小柄な梅桃が一歩進んでみたところでびくともしない。気を良くした梅桃は一歩二歩と歩いた。足の裏にごつごつとした木の肌を感じる。鳥の声が聞こえて、顔を上げた。ほんのちょっと、足元から目を離したそのとき、足が重力に引っ張られた。
あ、と思った梅桃は、あ、と思う以外のことは何も出来ずに、落ちた。落ちる途中、小枝が顔や手足を引っかいた。無抵抗に落ちていく梅桃の右頬と下唇に激痛が走った。直後、体が地面に叩きつけられた。一瞬の静寂の後、庭中に梅桃の泣き声がこだました。梅桃を探し回っていた乳母がその声を聞きつけ駆けつけると、右頬を縦にえぐる傷を負った梅桃がいた。思わず目を背けてしまうほどに右頬の傷は深かった。すぐに応急手当がされ、医者を呼んで治療してもらったが、右頬と、下唇の切り傷が消えることはないだろうと言われた。
その日から、
梅桃はそこそこに器量が良い。だから、良い家との縁があるのではと期待していたのが、顔に大きな傷を負ってしまっては、その望みも失せた。さすがに梅桃に向かって言うようなことはなかったが、悪い話っていうのは、どういうわけか本人の耳に入ってしまうもので。梅桃は親に見捨てられたと思うようになってゆき、それがまた梅桃の表情を一層暗くした。
十二歳になった頃には太陽すらをも恨むようになっていた。光あるもの全てが疎ましくなっていた。
けれど転機は再びやって来る。これは幸せな出来事なのかは全く分からなかったが。
梅桃の父親はお目見え以下だったので
九歳で即位した龍欺帝は、当時からあまり評判が良くなかった。まず、身元がはっきりしない。彼は突然現れた。やっぱり評判の悪かった父・滄桑院が己の盾にするために、幼い龍欺子を強引に即位させたのは誰の目にも明白であったし、まず、本当に滄桑院の息子であるかどうかすらも怪しい。いくら皇帝とはいえ、そんな曰くしかないような人間のところへ行くことが喜ばしいことなのだろうか。
満月の夜だった。幼い夫婦は初夜を迎えるため、今日初めて会った相手と共に寝室に入った。日中、祝いの儀式はしたが、ろくに相手の顔も見ていない。薄暗い寝室で、初めてお互いの顔を見た。龍欺帝はとても痩せた少年だった。全体的に色素が少なく、肌の白さは二年間こもりがちでほとんど日焼けしていない梅桃と競えるほどだった。これで、目がくりっとしていてまつげが長く、もう少し肉付きが良ければ美少年と言えたはずだ。けれど、残念ながら龍欺帝は美少年タイプの顔立ちではなかった。
初夜というものが何をしなければならないものなのかは、乳母から聞いて知ってはいたが、いざ相手を目の前にすると、恐ろしかった。緊張で体が固くなる。しばらく二人はそうして、ベッドの上で正座して向き合っていた。どれくらいそうしていただろうか。長かったようにも思えるし、短かったようにも思える。
ずっと強張った表情をしていた
「どうしたら良いのでしょうね」
笑顔ではあったが、声が少しばかり震えていた。強張った表情が機嫌悪そうに見えていたのだが、ここで初めて梅桃は、龍欺帝も緊張していたのだと気付いた。自分と同じように緊張していたのだと思うと、急に親しみが湧いた。虹彩の色が薄く、瞳孔部分だけがはっきり見える龍欺帝の目は少しばかり恐くて、それが
「龍欺子、私は
どうしたら良いのかは梅桃にも分からなかったので、自己紹介をしてみた。深くお辞儀をして、顔を上げると、龍欺帝もお辞儀をした。
「私は
月をイメージして付けられた名前を、龍欺帝はとても気に入っているのだという。龍欺帝の即位式は満月に照らされた中で行われたという話ではなかったっけと、梅桃は乳母から聞いた話を思い出す。そして今夜も満月。意図してのことなのか、偶然なのか。
「私は梅桃です。梅に桃と書きます。春に咲く花の名前です」
まさか皇帝から
おとぎ話のお姫様たちは、結婚して幸せに暮らしましたで終わるけれども、自分の現実にはこの後とても生々しい行為が待っている。思い出して、一度はほぐれていた気持ちが、また緊張で固くなる。
そんな梅桃の不安や緊張をよそに、銀輪はゆすらゆすらと、暗唱でもしているように口の中で梅桃の名前を繰り返し呟いていた。梅桃はちょこっと首を傾げる。銀輪がにっこり微笑む。
「ゆすら、ゆすらと呼んでも構いませんか?」
少しの間、それから、梅桃の笑い声。久し振りに、笑った。梅桃は、自分でもびっくりするくらい自然に笑い声が出せていた。人って案外笑い方を忘れないものなんだと思った。
今は座っているから分かりにくいけれど、昼間銀輪が立っているところを見て、何て背の高い人だろうと思った。背の高さから梅桃の目には銀輪が年齢以上に大人びて見えていた。だから、声変わり前の少し高い声に驚いたのが、今度は、首を傾げ、下から窺うように梅桃の顔を覗き込む仕草の子どもっぽさが可愛く見えた。年上の、それも皇帝なんて地位にいる男の人が、可愛くて、それが面白くて、梅桃はころころ笑った。
笑う梅桃を見る
「では、私は銀輪様とお呼びします」
人と違う呼び方が出来るのは特別な感じがしてとても幸せだ。梅桃の胸は躍るのに、銀輪が少し思案する様子を見せた。途端に梅桃の気持ちも沈み込む。調子に乗り過ぎただろうか。
「様はない方が良いです」
銀輪が遠慮がちに言った。沈んでいた梅桃の心が一気に明るくなる。銀輪は梅桃が思っている以上に梅桃を近くに思ってくれている。しかし、呼び捨てにするのはさすがに抵抗がある。だからと言って、銀ちゃんなんて言うのも馴れ馴れしい気がするし。梅桃はしばらく考え、一つの答えに辿り着いた。それは、結局、銀輪の願いを無視するものだったが。
「では、
自分としては素晴らしい妥協案に思えた。その喜びから予想外に明るい声が出た。まるで怪我する前の自分に戻ったような感覚があった。梅桃の頬が興奮で赤らむ。目の輝きが、自分自身で見えるような錯覚すらした。銀輪が梅桃の手を握った。梅桃の胸が高鳴る。
「足がしびれました」
恥ずかしそうに銀輪が言った。正座していて、梅桃も足にしびれを感じる。二人は照れ笑いをし、どちらからともなく横になった。油が切れて灯りも消えていた。真っ暗な中、手を握って、肩を寄せ合いお互いの顔を見つめる。とても幸せだった。その晩、梅桃はたくさんしゃべった。静かに微笑をたたえて聞く銀輪を見ていると、いろんな話をしたい気持ちになった。怪我をする前の自分の生活がどれだけ明るく喜びに溢れていたか。木から見る風景がどんなに素晴らしかったか。春の風の香り、夏の草原の柔らかさ、秋に散る葉の美しさ、冬の凍った空に浮かぶ星のきらめき。
「この二年間は?」
微笑む
「梅桃はきれいですよ」
「うそです」
「うそじゃありませんよ」
銀輪が笑う。梅桃の左手を取って、自分の右頬に触れさせた。梅桃の指先が、銀輪の右頬にある皇族男性の印である彫り物に触れる。普通は十五か十六で成人するまで入れないそれを、銀輪は皇帝に即位するために九歳で入れた。
「私にも梅桃と同じものがあるでしょ? 私は醜いですか?」
やっぱり意地悪だと梅桃は思った。傷と印とを同じにするだなんて。
「梅桃はきれいですよ」
柔らかく微笑む銀輪。梅桃は衝動に駆られて、銀輪の胸にしがみついた。銀輪の手が梅桃の腰に回った。二人はぴったりくっついて、それからは一言も口をきかず、ただひたすら、お互いの鼓動や呼吸に耳を済ませていた。とても満たされた気持ちの中で、梅桃はいつしか眠りについた。遅めの朝を迎え、目が覚めて一番に銀輪の笑顔が見えて、幸せだった。本当に本当に幸せだった。この幸せが永遠に続けば良いのになんてことは思わなかった。当然のようにこれからもずっと続く幸せなんだと思っていたから。
ああ、なのに、なぜ私は今、他の男の腕の中にいるのだろう。
絶頂を迎え、落ち着くと、男も
梅桃は無言で男を見送ると、その場に倒れ込むように横になった。手引きをしたのは梅桃の乳母で、側室に入った梅桃の世話係として一緒に後宮にやって来た
梅桃は拒むべきだったのだろう。銀輪は人が言うような化け物ではなく、ただちょっと、本来あるべき機能がなかっただけの話だと。けれど、満たされない欲求には抗えなかった。
木花も男も、銀輪に知られていないと思っているが、梅桃は気付かれていると思っている。知った上で梅桃を許してくれているのだと。それに甘えている自分を許せない気持ちと、だからといって男との関係を断ち切れないでいる現状とに苛まされながら、この半年くらいを過ごしている。
男との関係は一年に少し届かないくらい前からで、銀輪が寝室に入らなくなったのが半年ちょっと前。寝室に入らず、別の部屋で一晩過ごすことを、梅桃は初めの内は気にしていなかった。いつもよりも少し冷えを感じた夜、ベッドに入ろうと梅桃が言ったとき、銀輪が珍しく梅桃の意見に難色を示し、自分の意思を優先させた。そこで初めて梅桃は、銀輪に気付かれたのだと思い至った。その夜、冷えた梅桃の手をさすりながら銀輪が小さくごめんなさいと言った。その謝罪が何に対するものなのか、梅桃には分かった。だからこそ、梅桃は銀輪の謝罪に何も言えなかった。
「本日、院が上のところにお見えになるそうでございますよ」
昼過ぎにようやく起きた
こういう情報を一体どこから仕入れてくるのか梅桃には不思議で仕方がない。木花も梅桃同様、後宮から出られないはずなのに。一度聞いてみたことがあるが、女は情報に長けていないと生きていけないのでございますよと言うばかりで肝心なところは教えてくれなかった。外から男を引き入れることが出来るくらいだから、どこかに警備の穴でもあるのだろうと梅桃は思うことにした。
「それではきっと上は今夜こちらに見えますね」
滄桑院と会った日は必ずと言って良いほど、
「それが、正室を迎え入れるためのご相談のためなんだそうでございます」
人目を憚るように耳元で囁かれた木花の言葉に、梅桃は目の前が真っ暗になったような気がした。梅桃を側室に迎えてから五年、銀輪は正室はおろか、側室を増やすことすらなかった。
「何でもお相手は院のお手引きで芙蓉の宮なんだそうでございますよ。院は上が役立たずだなことをご存知ないんでございますんでしょうか」
それとも、役立たずだというのは上の嘘なんでございましょうか。
視界が揺らぎ、呼吸が苦しくなる。自分が手にすべき幸せを横から芙蓉の宮が奪い取っていく姿が見え、その原因を作ったのは紛れもなく自分なのだという後悔が襲ってきた。床に手をつき苦しそうに胸を押さえる梅桃を、木花が強く抱きしめる。
「大丈夫でございますよ。きっと院がご存知ないだけです。ええ、きっとそうです」
「そうかしら」
「ええ、そうでございますとも。でなければ、皇帝に正室がいないのも体裁が悪いんで、正室をひとまず入れておいて、他の男を子作り用にあてがう気なんでございますよ」
『他の男を子作り用にあてがう』、この言葉に梅桃はどきりとする。木花は何も気付く様子もなく、自説にいかにも説得力があるように思ったらしく、きっとそうに違いないと繰り返している。
『他の男をあてがう』
正にこれは、今の自分の状況ではないか。
思ったよりも銀輪は早くやって来た。日が沈みきる前にやって来た銀輪は、梅桃を前にするなり、しっかりと抱きしめた。銀輪が来たらすぐにでも抱きつこうと思っていた梅桃は、抱きつくよりも先に相手から抱きしめられて、びっくりして固まってしまった。
「上、どうさなさったんですか?」
木花だってまだそばにいるのに、銀輪がこんな風に抱きしめてくるなんて、初めてのことだった。木花が慌てて人払いをして自分も出て行った。二人きりになった後もしばらくそのまま、銀輪は梅桃を抱きしめていた。
「
二人きりになったので、梅桃は呼び方を変えて、もう一度銀輪に尋ねた。銀輪がようやくゆっくりと、梅桃から体を離した。銀輪の顔に笑みはなかった。呆気に取られている梅桃の額に、銀輪がそっと口付けた。梅桃の頬がぽっと赤くなる。それを見て銀輪の表情がいつもの笑みに戻った。銀輪の笑みを見て、梅桃もほっと落ち着いた。
「きっと夕焼けがきれいですよ」
銀輪は言うと、梅桃の手を引いて、庭側に移動した。外を見ると空が赤から藍へのグラデーションを描いていた。その中でひときわ輝く少し欠けた月が梅桃の目を引きつける。
「太陽の光を飲みきれなくなって、ああやって光を吐き出していって、月はしぼんでいくんですよ」
同じように月を見上げていたらしい
「月はね、太陽に憧れて、昼間太陽が出ている内に、いっぱいいっぱい、太陽の光を飲み込んでいるんです。でも、太陽の光は強過ぎて、いっぱいいっぱい飲み込んでまん丸にふくれてもまだまだ飲みきれなくて、それで、飲み込めなくなって吐き出していくんです」
月の満ち欠けはよほど人の心を捕らえるらしく、幾つかの物語を梅桃も聞いていたが、太陽の光を飲み込んでいるという話は初めて聞いた。
「それで全部吐き出しちゃうと、やっぱり太陽の光が羨ましくなってまた飲み始めるんです。月はずっとずっとそれを繰り返してるんです、ずーっとずっと」
銀輪が言いながらまた月を見上げた。梅桃は、赤い光が薄れていって藍色に溶け込んでいく銀輪の横顔をじっと見ていた。
「途中でやめれば良いのに、それが出来ないほどに太陽に焦がれているんですね」
梅桃が言うと、銀輪は頷いた。目はやっぱり月を見つめている。銀輪も、月と同じように何かに焦がれているのだろうか。銀輪にとっての太陽は一体何なのだろう。梅桃は銀輪と同じように月を見上げた。こうこうと輝く月が、ひどく悲しく見えた。一生懸命溜め込んだ光を、どんな想いで手放しているのだろう。
「私と梅桃の間に子どもが出来たら良かったのにね」
すっかり日も沈み、月の光だけが照らす中で、銀輪が独り言のように呟いた。目線を月に向けたまま、梅桃はぐっと涙をこらえた。
「その子が男の子だったら、梅桃を正室にすることだって出来ただろうに」
諦めながら手放して、だけどやっぱり諦め切れなくてまた飲み込んで。それを繰り返しているのは月ばかりではないんだ。梅桃は月が絶望と共に吐き出した光にそっと手を伸ばした。触れ得ないそれは、生まれ得ない子どもと同じに思えた。
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