第2章:月歌準備を始めます

 汰虎たとら北帝ほくていの真ん前に立っていた。汰虎の背後には体格の良い武人がいる。

 北帝は微笑みを絶やさない。ある意味無表情だ。表情がないのではなくて、表情の変化がない。実際のところは全くないわけではなく、乏しいだけなのだが。そんな細かい話はともかく、汰虎には仮面をつけた人間を前にしたような感覚があった。


 南の東宮(つまり皇太子)という微妙にややこしい名前のお立場の朱明子しゅめいしこと居鷹いたかに命じられ、北の官吏試験を受けにきた汰虎が、今こうして第一の任務「北帝に近付く」を全うしえた経緯を、時間を遡って説明しよう。


   一、旅立ちの朝


 北へ行けと命じられたものの、いつ行くのか、北のどこへ行くのか、受けなきゃならない官吏試験とやらがいつあるのか、それはどんな問題が出る試験なのか。そういう具体的なことは全く何も教えてもらえないまま、今の汰虎の家となっている、南帝なんてい直営の孤児院・養栄園ようえいえんで、汰虎はいつもの通りの一日を送った。

 南宮なんぐうから夜に戻ってきてそのまま寝て、朝起きて掃除して朝食を取り、勉強して遊んで勉強して昼食。少し休憩があってまた掃除、今度は外の。また勉強して、騒ぎながら夕飯作りの手伝いをして食べて、順番に風呂に入って、読み聞かせみたいなのがあって就寝。

 元々が農村育ちで一日中畑仕事をしていたような子どもたちなので、親を亡くした後の方が良い生活をしているという皮肉な現状。それでも親のいる幸せに勝るものはなく、昼間は元気にしていても、夜になると毎晩のように泣いて年上の子たちを困らせる子も少なくない。そんな子どもたちもすっかり眠りについた一番静かな夜明け前、汰虎は突然起こされた。

 意識が覚醒しきらない内に無理矢理大部屋から引きずり出され、子どもたちが『お説教部屋』と呼んでいる手狭な部屋へと連れてこられた。引っ張ってこられている間に目の覚めた汰虎が驚いて引っ張ってきた手の主の顔を見ると、居鷹だった。


 ある程度は話を聞いているらしい養栄園の職員が、部屋の明かりを用意していた。その職員は居鷹と二、三話した後、出て行った。達者でな。よく見知った顔から言われ、訳の分からないまま、汰虎は手を振って別れの挨拶をした。もしかして今から行くのだろうか。ぼんやり思った汰虎の予想は当たりだった。

「せん別に新しい服を用意してやった。これを着ていけ」

 いきなりのことで気持ちの準備の出来ていない汰虎だったが、ひとまず言われるがまま服を着替える。

 養栄園で渡される服は男女で分けているだけで後は区別なく共有している。そのため、大き過ぎたり小さ過ぎたりすることが多い。だが居鷹から渡された服は、汰虎用にしつらえられたものらしく、汰虎にぴったりと合った。着心地の良い服に、汰虎の気持ちが明るくなる。

 居鷹は汰虎が着替えている間に荷物を広げていた。ろうそくの明かりで見える限りでは、書類と着替え一式と、食べ物だった。それと、短剣が一本。

 汰虎の視線に気付いた居鷹が、ひょいと指二本で短剣をつまみ上げ、汰虎の顔の前でゆらゆらと揺らす。鞘にも柄にも何の装飾もない簡素なものだ。少しばかり古びていて、よく見ると柄にバツ印が二つ刻み込まれている。

「とりあえず護身用だ。古い物だが手入れはしてある、その気になりゃ相手を殺すことだって出来る」

 揺らしていたのを止めて、居鷹はぐっと柄を握り締めた。大人が持つには小振りに見える。

「北帝を殺すことも?」

 汰虎たとらからの問いかけに居鷹いたかが苦笑いする。南でも北でも、子どもの遊びの中に登場する悪者は決まって『ホクテイ』だ。公には北帝なんてものは存在してないことになっているから、それを注意する大人はいない、役人の中にさえ。

 汰虎は物覚えが良いし、人の言うこともよく理解する。そこが居鷹はとても気に入っている。残念ながら汰虎からは好かれてはいないことも自覚しているが、懐かないなら懐かないで、そこがまた可愛かったりする。

 同年齢の他の子と比べると、汰虎は聡明だが、それでもやっぱり普通の子だ。養栄園ようえいえんに来るまでは、不作になれば北帝が悪い、どこかに強盗が出れば北帝が悪い、戦があったら北帝が私欲のために領土を広げようと無茶をしているんだと、とにかく何でも悪いのは北帝のせいだという会話を当たり前のように聞いてきた。

 養栄園ではあまり偏った教育はするなと言ってはあるが、教える側に北帝を憎む気持ちがあれば自然それが出てしまう。その上、養栄園の遊びの中でも必ずホクテイが倒されている。

 汰虎の両親は戦火の中死んだが、直接北帝に殺されたわけではない。だが、北帝は悪人であるという先入観と、北軍のトップにいるのは北帝だという事実から、汰虎は北帝を憎んでいる。それを言ったら北軍と戦っていた南軍のトップはその当時は居鷹だったので、居鷹も憎悪の対象になっていても良いはずなのだが、汰虎は居鷹本人を気に入ってはいないものの、元南帝だという理由で居鷹を憎むようなことはしていない。

 居鷹は汰虎をとても気に入っているが、北帝に関して先入観に頼り事実を見ようとしていないことだけはとても残念に感じている。

「皇帝ってのは厚着してっから、難しいかもしれんが出来なくはないだろうな。チャンスがありゃやってみれば良いさ、俺は止めん」

 汰虎が顔をしかめた。最初から出来ないと決め付けているような物言いが気に入らなかった。居鷹は汰虎の表情を見て、挑発的な笑みを浮かべる。

「そんな顔しなさんな。お前さんがお察しの通り、俺はお前には出来ないと思ってるよ。けど、本当にやれそうなときが来たら、やってくれて良い。縷紅るこうもあれを殺したがっている。正確に言うと、縷紅の母宮が、なんだが、それはともかくだ、俺は縷紅にあれを殺させたくない。だからお前が殺してくれる分には文句は言わんよ」

 ただあっちには怖い姉ちゃんがいるからねぇ。小声でぼやいて居鷹はにやりと笑った。握っていた短剣をすらりと抜いて汰虎に見せてやる。それは、南によくある両刃のものではなく、北に多い片刃のものだった。確かに手入れがしてあるようで、ろうそくの明かりにそれはとてもよく映えた。


「お前に話したことがあったかな? 俺はお前ぐらいの年のときに三ヶ月ばかり北宮ほくきゅうにいたことがあるんだ。平たく言うと人質としてな。これはその頃、滄桑院そうそういんから、自分の身は自分で守れってもらったものなんだ」

 滄桑院といえば、現北帝の父親で、今の混乱の引き金になった前北帝だ。歴史の講釈の中でしか聞いたことのないような人物から受け取ったものだという短剣を目の前にして、汰虎は不思議な感覚にとらわれた。

「居鷹って、本当に東宮だったんだね」

「お前は俺を何だと思ってたんだ」

 思いっきり驚いた顔で言う汰虎に笑いながら、居鷹は汰虎に短剣を手渡す。父親が渡した剣で息子が殺されたらまるで物語みたいだと居鷹は思った。

 子どもの頃の居鷹が持ちやすいように作られたそれは、汰虎の手にしっかりと納まった。

「長居すんなって言ったのは覚えてるな。お前も三ヶ月くらいで戻ってこい。見聞を広めてくるには調度良い。情報は随時、どんな内容のもんでも良い、知らせろ。その情報の要不要は俺が決める。お前は余計なことを考えず目にしたもん耳にしたもん全部知らせろ」

 それと、と、書類を広げて見せる。

「願書と推薦人の推薦文。これ持って試験会場へ行け。推薦人は外の馬車に待たせてある。一緒に行け。向こうに着いた最初の晩はそいつの家で面倒見てもらって、翌日の早朝から試験だ。三日間、泊り込みで実施される」

「三日間? 終わったら?」

「推薦人が迎えに来る。こいつは北の商売人でよく北宮にも出入りしていて役人どもからの覚えも良い。情報もこいつに手紙で託せば良い。今後世話になる人間だ、北へ向かう道中、せいぜい気に入られるよう媚売っとけ」

 ずいぶんと雑な話だと汰虎たとらは思った。これから初めて会う人間、それも北の人間を、初めましてこんにちはで信用しろというのだから。その上、三日間も行われる試験だなんてどんなものなのか全く想像がつかないのに『がんばれ』の一言で最高点を取れって言うのだから、無茶も良いとこだ。

 汰虎が呆れていることに気付いているのかいないのか、居鷹いたかはてきぱきと広げた荷物を鞄にしまい込む。

「刀は腰んとこに差しとけ。向こう着いてからよりも行く道の方が危ない。いつでも抜けるようにしておけ。それと、試験会場は刃物の持ち込み禁止ってことになってるけど、北は全てにおいて杜撰だから、多分持ち込んでも大丈夫」

「これ、かたなって言うんだ」

「そう、刃物の『刃』から最後の一画抜いたら刀って字になる」

 ひょいひょいひょいと空に指で刀という字を居鷹が書いて見せる。空に書かれた文字が読めるわけではないが、汰虎は居鷹の指を視線で追う。

「じゃ、出発」

 ほいっと詰め終わった鞄を汰虎に投げ渡す。意外に重い。立ち上がりながら受け取った汰虎はバランスを崩しそうになりながらも、何とか持ちこたえて立ち上がる。そんな汰虎を気にかけることなく居鷹は外に出ていく。外に出ると東の空が白み始めていた。


 養栄園ようえいえんを出たところに居鷹が言った通り馬車が停めてあった。御者はいない。居鷹がぶっきらぼうに馬車の戸を叩くと、中から人が顔を出した。ひょろりとした人だな。汰虎は思った。

「御者は馬見とけよ、何一緒に馬車ん中で寝てんだ」

 ひょろりとした男が居鷹の言葉に笑う。この人ではないのか。汰虎はこれから世話になる推薦人とやらの登場を待つ。

 にへっとしまりのない笑みを浮かべて、へこへことひょろりとした男、つまり御者は居鷹の前を通り過ぎて御者台に移る。御者がどいた後の空間にもぞもぞと動くものがある。うーとうなり声がした。居鷹が馬車の中に顔を突っ込む。

「こら、起きろ、出発だ」

「ああ? 偉そうな口きくじゃないか。俺に面倒見てもらってんだがよ、あんたさんは」

 汰虎が商人と聞いて想像していたよりもずいぶんと低い声だった。そして、居鷹が皇族だと知っていての口のきき方だろうか、これが。一瞬、皇族だと知らないんじゃないかと思ったが、すぐにそんなわけがないと気付いた。皇族男性は全員、右頬にそれと示す彫り物がある。女性の焼印は額にあるから隠しようもあるが、頬のは難しい。それに現に今、居鷹は頬を隠していない。

 にゅっと顔を出した男は、ガタイの良い男だった。少しの間、居鷹いたかの頭の高さの辺りに視線をさまよわせた後、すっと汰虎たとらの顔へと視線を下げた。そういえば子どもだったな。独りちるとようやく、馬車から出てきた。

 身長は大体居鷹と同じくらいだったが、筋肉のつき方が違うため、居鷹よりも大きく見えた。商売人がこんなに鍛えておく必要があるだろうか、まるで南宮にいる近衛兵のようだと汰虎は思った。

「言い忘れてた、こいつ元近衛兵なんだよ。北宮の門番やってたんだったっけか?」

「そうよ、野良仕事が性に合わなくて、腕っ節活かして近衛兵になってみたもんの、結局それも合わなくてな。今はそんときのコネ利用して宮殿御用達の布屋さ。狐様が着てんのも、俺が仕入れた布で作ったもんかもしれねーぜ。会ったことねーから知らねーけどよ」

 あまり感じが良いとも言えない笑みで短く身の上話を済ませると、男は太いがっちりした手を汰虎へと差し向けた。

季諾ときつくって言うんだ、これからよろしくしてやるよ、ガキんちょ」

 大いに不安を感じるこれからの相棒の手を恐る恐る汰虎は握る。ぐっと握り返してくる力が、見た目通りに無骨で強い。

「俺は汰虎。よろしく、おじさん」

 年齢は居鷹よりも更に上に見えたので、名前で呼ぶのは憚れた。おじさんと呼ばれた季諾はゲラゲラ笑った。どうやら『おじさん』で構わないらしい。

「んじゃ、預かるぜ。こいつが上手く入れたら、後は杜宇胡とうこと同じ様にすりゃ良いんだったよな」

「ああ、よろしく頼むよ」

 居鷹いたかに確認しながら季諾ときつく汰虎たとらから荷物をふんだくって馬車の中に投げ入れる。このまま自分も投げ入れられるんじゃないかと汰虎は一歩後ろへ下がった。

「ちび、上手くやれよ。で、三ヶ月程度いりゃ社会見学には十分だ、帰ってこい」

 ぽんと居鷹が汰虎の背を押す。汰虎が馬車に乗り込んだ後で季諾も馬車に乗り、そしてバタンと扉を閉めた。居鷹との別れが名残惜しいわけではなかったが、汰虎はもう少しくらい居鷹と喋らせてくれても良いのにと季諾の行為を恨んだ。馬車は無情にも動き出す。


 馬車に窓はあるが全部閉められていた。季諾は馬車が動き出すなり横になった。汰虎もすることもないので、季諾にならって寝転んだ。まだ起きるには早い時間に叩き起こされていたから、横になるとすぐに眠気に襲われる。うとうととまどろむ中、養栄園のみんなにお別れを言ってないことを思い出したが、そのまま眠りについた。

「この状況下で眠れるたあね。俺はお前が気に入りそうだよ、汰虎」

 横になったまま片目を開けて汰虎を見た季諾の言葉は、すっかり眠っている汰虎の耳には入らなかった。



   二、野を越え谷越え山越えきらず


 日差しの明るさで目が覚めた。汰虎たとらが体を起こすと、向かい側に座っている季諾ときつくがあいさつにニヤリと笑った。昼間の明るさの中で見ても、やっぱり気分の良い笑みではない。

 開けられた窓の外には田園風景が広がっていた。同じ農村でも汰虎のいた山間の村とはだいぶ違う風景だ。

「もうすぐ境河さかいがわの岸に着くぜ」

「それを越えたら北都ほくとなの?」

「いや、まだ南都なんとだ」

 この返事に汰虎は驚く。ずっと、大陸を横切るように流れている大河・境河が南北の境になっていると聞いていたのに。

「大雑把に言やあ、確かにそうなんだよ。ただ、場所によるっていうかねえ」

 季諾の話をまとめると以下の通りになる。元々、くさびという国は、北宮ほくきゅうのある辺りを中心とした地域にいた民族が建てた国だ。今の楔全体から見ると北都の真ん中よりも少し北にいったくらいの地域。そこから南下して行きながら国土を広げていって、今の楔になった。

 境河は元々は南北の境という意味ではなく、楔の南側の国境という意味で名付けられた。川幅が広いためにこの河を越えての南下には時間がかかっていたためだ。

 第十七代皇帝が双子の皇帝に南北を分けて支配させた頃の楔は大陸全土を領土としていたとはいえ、完全には支配しきれていなかった。都守ともりの派遣は名義ばかりで、実際はその土地の豪主が務めていた。

「今の南都のある辺りは、皇帝の力の及ぶ南ギリギリの場所だったらしい」

 河を越えた南側は、小国家や部族が、楔の領土になる以前と大して変わらない独立性を保持していた。それを、南宮なんぐうを置くことで、名義だけだった領土を徐々に実質的な勢力範囲にしていった。

 南へ勢力が広がるのに合わせて、北都と南都の境界線も南へ南へと修正していった。修正していく中で南北の皇帝の利益が合わず争うことも多々あった。南帝からしてみれば、南への勢力拡大は自分の手柄だった。

「つまり、南帝が妥協しないことで争ったってこと?」

 汰虎からの問いに季諾が答えようと口を開いたとき、馬車が止まった。

「どうやら着いたようだ」


 御者が馬車の扉を開けた。目が覚めたときに見えていた田園風景は話を聞いている間に家や店の建ち並ぶ街の風景に変わっていた。汰虎は季諾の話の続きを聞きたいと思ったが、話す時間はこれからも嫌と言うほどあると言って、季諾は馬車を降りていった。自分は岸を渡る手続きがあるからと、御者にいくらか金を渡し、汰虎とそこら辺を回ってろと命じて馬車を引いて渡り場へと行ってしまった。汰虎は名前を知らない御者と取り残されてしまった。

「じゃ、ここいらの見学でもしますかい」

 呆然としていたところに御者に話しかけられて汰虎は驚く。慌ててうなづき肯定の意を示す。汰虎の反応に満足して御者が歩き出した。その後ろを歩きながら、汰虎はもうひとつ驚いていた。この人、喋れたんだ。思い返してみれば、ただ単に話す機会がなかっただけなのだが、汰虎は勝手に彼は口がきけないのだとばかり思い込んでいた。

 この街へはよく来るのだろう、慣れた足取りで御者はお目当ての店に辿り着く。団子屋だった。汰虎は店の中に入るものだと思ったのに、御者は汰虎を外の腰掛に座らせ、入口から大声で中の店員に向かってお茶と岸団子というものを二人分注文した。

「せっかくなんだから、その土地でしか食えないもの食べませんとねえ」

 へっへっへと笑って、御者は汰虎たとらの隣に腰を下ろした。汰虎は店に来たことがなかったので、中がどんななのか見たくもあったが、外の腰掛は外の腰掛で楽しかった。広い道を行き交う人々の話し声や、行商に来ている者の服装など、色とりどりで見ていて飽きない。

「へいお待ち。あらやだ、あんた子どもがいたのかい?」

 店の中から、茶と団子を乗せた盆を持った女性が現れた。くりっとした目は太陽の光に負けないくらい輝いていて、明るい声が弾むように響く。汰虎は夜明け前に叩き起こされてから初めて、気持ちがほっと落ち着くのを感じた。

「やめてくれよ、嫁だっていないのに。旦那の預かりもんだよ」

 えらく慌てて御者が説明する。団子屋の店員がふーんと疑うように御者の顔を覗き込むと、御者の顔が赤くなる。分かりやすい人だな。店員が、ま、どーでも良いけど、と、お茶と団子を置いてさっさと店の中へ戻ってしまった。御者は言い訳がましくもごもごと説明していたが、とっくに立ち去っているのに気付き、深く溜息をつく。その様子を見ていて、汰虎はちょっとだけ、この唐突に始まった旅を楽しく感じるようになってきた。

「食いなよ、つぶつぶが美味いですぜ」

 汰虎の視線に気付いた御者が照れくさそうに汰虎に団子を勧める。うん、と大きくうなづいて、汰虎は団子をほおばった。

「おいしい!」

 考えてみたら今日初めて口にする食べ物だった。御者が『つぶつぶ』と言ったのは、木の実を挽いたもので、食感がとても良い。甘さはさほどなかったが、空腹だった汰虎にはほっぺたが落ちそうになるくらい美味しく感じた。それに対してお茶は、ヤカンに直接茶葉を入れて大量に作られたもので、これだったら養栄園ようえいえんでご飯のときに出てたお茶の方が美味しいやと思うような味だった。お茶は注文しないと出てこないが、無料で提供されるものだと言うから、仕方がないのかもしれない。

「何だい、お茶の味にこだわるんですかい」

「別にこだわってるわけじゃないけどさ」

 まずい茶をすすりながら、汰虎はうつぼを思い浮かべていた。居鷹いたかに連れられ南宮に行っても、南宮の敷地内をあちこち案内されていることが多く、靫と長く過ごす時間があったわけではない。けれど、お茶の香りとふわりとした靫の笑顔とが汰虎の中で強く結びついていた。


 しばらく通りを眺めながら団子とお茶を味わっていたが、次第に間がもたなくなってきた。どうやらこの御者は話し好きというわけでもないようだったし、汰虎が目に入るものに興味を持ってあれこれ質問しても、あまり物を知っているわけでもないようで、まともに答えてくれることもなかった。ならば街中を歩いていろいろ見て回りたかったのだが、御者は時折中から聞こえてくる先ほどの店員の声に熱心に耳を傾けていて動こうとしない。あるいはこのために話がおざなりになっていたのかもしれない。

 お茶も団子もなくなり、話し相手は話し相手になってくれない。することのなくなった汰虎たとらは空を見上げ、手短に話された季諾ときつくの身の上話を思い返した。季諾の話し方には品を感じないが学のない人間というわけではない。商人なんてやってるくらいだから、そもそも数字も扱えない人間であるはずがないわけだが、そういう生きいくのに必要な知識ってのは、人間身に付けていくものだ。だが、季諾は生きていくのに絶対的に必要だとは言えない歴史に詳しい。こういうのはちゃんと知識のある人に教わらないと知りようがない。どこで教わったのだろう。畑仕事なんてやってたくらいなら、勉強する時間があったとも思えない。近衛兵のときに何か機会があったのだろうか。

 そうだ、境河が南北の境とも限らないっていう話の途中だった。河を渡ってる間にもまた聞かないと。朝起きてからのこの少しの間に、汰虎は季諾に興味を持つようになっていた。信用出来るかどうかはまだ分からないが、話を聞くのは楽しい。

「あ、旦那」

 御者が立ち上がるのにつられて汰虎もぼんやりと思考の海から引っ張り出されるように立ち上がった。見ると、ちょうど荷物を持った季諾が御者の声に気付いてこちらを向いたところだった。

「まさかずっとここにいたわけじゃねーだろな」

 季諾の問いに、へらっと御者が笑う。それを見て、ずっとここにいたことが分かったんだろう、季諾は思いっきり呆れた。

「ったく。悪いな汰虎、せっかくの遠出だからいろいろ見せてやりたかったんだが、ちょうど船が出るとこだっていうんだ。もう渡るぜ」

 季諾は汰虎に言うと、自分よりも少しばかり背の高い御者の頭を、あのたくましい手でぐしゃぐしゃっとかき混ぜ、歩き始めた。結局、馬車から降りてやったことと言ったら、ちょっとした腹ごしらえと通りの見物と、物思いに耽るくらいのことだった。いや、と、汰虎は考え直す。こうやって列挙してみると、いろいろやったような気がしてくるな。


 季諾と御者の後ろについて歩いていくと、船着場に着いた。建物が減って視界が開ける。向こう岸がかすかに見える。汰虎の住んでいた辺りに、そのときはとても大きいと思っていた池があったが、そんなの話にならないくらいに広かった。『大河』と聞いても、近くにあった池以上にたくさん水があるところを見たことがなかった汰虎は全く想像がついていなかった。

 緩やかな河の流れは、山の中を流れていた川の流れとは違う。どこまでも広く、穏やかだった。そこに、これまた見たことないような大きな船。物資運搬用ではなく、人の往来用の船なので、実をいうと驚くほど大きな船というわけでもなかったが、汰虎にはとてつもなく大きく感じた。

 馬車と馬はここら辺で貸し出されているものを使っていたそうで、岸の北側に着いたらまた別の馬車と馬とを借りるという話だった。だから季諾ときつくが荷物を持っていたのか、と、気付く。季諾が荷物を全部持っているじゃないか。汰虎は慌てて自分の鞄を受け取ろうとしたが、季諾はさっさと船に乗れと汰虎を押して船へと入らせた。力のありそうな季諾だから、大した問題じゃないのだろうが、人に荷物を持たせていることにバツの悪さを感じる。それに対して御者の気にしてなさといったら。

「あいつは従者としては全く駄目でよ、他で働けなくなって文無しでうろついてたんだ」

 船に乗り込んで落ち着いたところで季諾が言った。御者は甲板に立って名残惜しそうに離れ始めた南岸を見ていた。

「だが、口は堅いし、何より性格に可愛いところがあってな。見捨てるに忍びなくてうちで雇ってんだ」

 情に厚い人なんだろうか。汰虎は季諾の人物像を描いてみる。

「それで、境河が南北の境でない件についてな」

 汰虎が聞くタイミングを計っていたことに気付いたかのように、季諾は唐突に話し始めた。

「南にしてみりゃ自分らが苦労して勢力を広げたのに、北から領土が召し上げられていくなんて我慢ならねー。北は北で元々南の方が土地が良いから南方の占領に乗り出したんだ、いつまでも北の土地にとどまっていたくねー」

 とはいえ、その当時は、北は北で異民族の侵攻があったし、南も南で、南の小国家が独立の機会を狙っていたしで、双方武力争いになることは避けたかった。

「だから表面上は平和だった。領土問題はずっと議論で争われていた」

 御者はまだ南岸を見ている。見送りに来てもらえているわけでもないのに。

「でもさ、十八代目の双子皇帝のときに境河で南北に分けられたって聞いたよ」

 素朴な疑問を投げかける。これに対する季諾ときつくの回答は簡単なものだった。

「あんま重要じゃねーもん、この時代」

 汰虎は言葉を失くした。表面上平和で、あったことと言えば、周辺国家や民族との小競り合い。それはそれで英雄譚が生まれるきっかけになったが、逆に言えば、それに尽きた。

「だからかっ飛ばして『南北は境河で分けられました』で始まるんだよ」

 南北境界線に関するやりとりは文書で残っていて、かなり細かくその当時の様子を知ることが出来る。だが、重要なのは、最終的に南北の境は境河になったってことと、それで長らくは落ち着いていたっていう事実。

 ゆっくりと西方向に流されながら船は北上していく。

「けど、実際は境河の下流は北側も南側もほとんどが南のもんになってた」

「それじゃ、南帝が河を越えて北都側に侵攻したっていうのは? 元々南都だったんならわざわざ攻めていく必要ないじゃん」

「ところが、一番良いとこだけは北のもんになってたんだ。それを取り戻そうとした。これから通るところがそこさ」

 船が岸に着いた。御者がようやく諦めて季諾のもとへと戻ってきた。今度は自主的に荷物を持つ。

「南北の境が定まった後は本当に平和だったんだ。ま、その当時を知ってる人間なんていやしねーから、推測だけどよ」

 その平和さが却って南北の亀裂を生んだ。いつしか南帝の北参ほくさんと呼ばれる皇帝への参内も途絶え、同一の国家であるという認識が薄くなっていった。

「着きましたぜ」

 御者が季諾と汰虎の会話なんてまるっきり聞こえてないみたいに無粋に割って入る。季諾は慣れているらしく、気にする風でもなく立ち上がり、汰虎にも降りるよう促した。

 船を降り、馬車を借りると、また田園風景の中の旅が始まる。しばらくは団子屋の前にいる間に疑問に思ったことなどを季諾ときつくに聞いていた。段々とその話も尽きてきたところで季諾が話を元に戻した。

「ここいらは綺麗だろ。今でも楔の中で一・二を争う豊かな土壌が広がっている」

「うん、俺の知ってる田んぼとは雰囲気が違う」

 馬車に揺られながら、汰虎は故郷の風景を思い出す。死んでいった遊び仲間、どこに行ったか分からない、ちょっとだけ気になってた隣村の少女。今はただ焼け跡の残る場所でしかない。

「北は全部終わったつもりでいたが、南にしてみりゃ適当に誤魔化されて一番良いとこ持ってかれたってずっと思ってたんだろな」

 肥沃な一帯を奪い返した後、更に北上し、北都の中央より少し南にある山脈のふもとまで攻め込んだ。それに対し北側も徹底抗戦を仕掛け、長く戦乱が続いた。

「ま、後の頓着は多分、お前さんが聞いてる通りだと思うぜ」

「一番肥沃な土地を南都のものとして、南帝は北参を再開させることになって一件落着?」

「そ。ま、どっちも口約束だったんだけどな」

「けどそれでよく南側は納得したね。結局実際には取られたまんまってことじゃん」


 カタン、と馬車が揺れた。それまでとは揺れ方が変わった。これから先、山道に入る、と、季諾が言った。少しばかり治安が悪くなる。汰虎の手が腰に差してある刀に伸びた。

「どうも残ってる資料を見る限りじゃ、初めの内こそ南優勢だったもんの、戦いが長引くに連れ北の方が強くなっていったみたいだな。北は全体的に土地が痩せているから、長期戦になればなるほど食糧確保の面で南の方が有利だと思ってたみたいなんだが、想定外の事態が起きた」

 大人しく制定されていたはずの元小国家の王族が隙を見て決起した。それで南帝は北上どころではなくなったところに持ってきての、皇族・貴族のとりなしがあった。南にしてみれば北との戦いを終わらせられるなら願ってもみないことだった。

「それで懲りて南帝はずっと大人しくしていた」

「ところが今度は北帝が……ってわけか」

「そゆこと。で、ここいらで北に入るから、それ禁句な」

 人差し指を口元に当て、季諾は声に出さず、“ホクテイ”と言った。

「ん、待って、南に与えられた肥沃な土地って、ホ……滄桑院そうそういんが召し上げたんじゃなかったっけ」

 いつもの癖で北帝と言いかけて、汰虎は慌てて滄桑院と言い直す。余計な面倒事は避けるに限る。

「や、何やかんやでそこは結局南のもん。北軍は戦局が悪くなると早々に手を引いたって話だぜ?」

「でも北軍、境河の南側まで来てるよ? 一番良いとこ外して何で?」

 汰虎がいたのは境河上流域の山の多い地域の南側だ。そんな不便なところへ河を越えてまで来ているっていうのに、一番欲しいだろうところは放置だなんて。まさか、それは北軍のフリをした山賊だなんて言い出すんじゃないだろうな。汰虎たとら季諾ときつくの話の信憑性をにわかに疑う。

「あんま平野は狙わないんだ、山の方ばっか。一つには自分の国全体の農作物の生産を考慮してだろうな、自分で自分の国を荒らすなんてバカらしい。もう一つは、どうも境河の上流を押さえたいみたいなんだ。北都は水が豊かとは言い難いから、水源が欲しいんだろ」

 あ、そういうこと。言われてみると納得出来る。ガタガタと揺れる馬車。馬車で行けるくらいだから高い山ではないのだろう、多分。だが傾斜が出てきたので不安になる。汰虎は山間の地域で育ったが、田畑の広がる開かれた山だった。馬車の窓から見える風景を見ると、この山はあまり人の手が入っていないようで、刀にある汰虎の左手が、無意識に強く握りこむ。

 季諾の話だと、この山は南側が傾斜は大きいが、北側は穏やかなのだそうだ。ただ、この、南側が気を張らなければならないらしい。

「一応安全そうなルートを選んでるんだけどよ」

 世の中に絶対は存在しないから。南北の話も済んでいたこともあって、次第に季諾は無口になっていった。目はずっと窓の外に注意深く向けられている。


 この緊迫した空気の中、お喋りをやめたがために、汰虎は急激な空腹感を感じた。時間はよく分からないが団子一個でもたせるには長い時間を過ごしていると思う。汰虎は居鷹いたかから渡された鞄の中に食べ物が入れてあったことを思い出した。鞄を自分のもとへと寄せて、中を探る。と、すぐにお目当ての物が見つかった。季諾は汰虎の行動を不思議そうに見守っていたが、汰虎の目的が分かると、くつくつ笑い出した。笹の葉に巻かれたちまきを嬉しそうに手にしている汰虎を見て、笑わずにはいられなかった。

朱明しゅめいの坊ちゃんからのせん別かい?」

「うん。お腹空いてて。食べても良い?」

「好きにしな。俺も何か食うかな」

 言うと、季諾も自分の荷物を探り始めた。水筒を取り出して汰虎にも茶を分けてやり、硬そうな平たいパンをほおばる。腹を満たしながら、汰虎は、季諾の『朱明の坊ちゃん』という呼び方を反芻していた。特に話題に出てくることがなかったから良かったが、危うく汰虎は同じミスを繰り返すところだった。

 わたくしの名前は知らない人の前ではうかつに口にしてはいけない名前なのに、何も知らなかった汰虎はうつぼの前で居鷹と縷紅るこうの名前を出してしまった。最初は何を言ったのか分からない様子でいた靫が、汰虎の口にした名前が二人の私の名前だと気付いたときのうろたえよう。そのときばかりは、縷紅も弱ったなとぽろっと口に出していた。

 居鷹が、まあ良いさとその場をまとめ、私の名前は知ってる人間の間でしか使っちゃいけないんだと説明した。もう知ったもんは構やしないってことで、靫の前で私の名前で呼ぶことが許されたが、靫は今でも二人を公の名前でしか呼ばない。事故で知った名前を使おうとは思わないらしい。

「坊ちゃんなんて変な感じ」

 汰虎は、季諾が今ここで居鷹を公の名前で呼んでいなければ、またうっかりと『居鷹』と口にしてしまっていただろう。自分には使い分ける名前なんてないから、教えられてもどうも感覚がついていっていない。

「俺から見たらお子様も良いとこさ、俺の半分も生きてないんだからな」

 まだ時折外の様子に気を配りながらも、季諾ときつくが笑う。汰虎は自分の父親の年齢を知らないが、居鷹の倍も生きていないと思うので、季諾は父親よりも更に年上の人間ってことになる。

「おじさんっていくつなの?」

「四十六さ。朱明の坊ちゃんは確か十九だろ? うちの上二人の娘たちより年下さ」

 娘がいたのか。そういえば家族の話を聞いていない。


「下りに入ったな。ふもと着いたら馬借り替えて夜通し行く。馬替えるついでに腹ごしらえと少しばかりの観光をしていこう。朱明の坊ちゃんから、ついでにいろいろ見せてやれって仰せつかってんだ」

 出していたお茶を飲みきって、季諾はごろりと横になった。喋り疲れたと、一言ぼやくとそのまま、すーすーと寝息を立て始めた。

 気ままな人だなあ。汰虎は季諾の寝顔をしばらく眺めていたが、それもつまらないので窓の外に視線をやった。目に入るのは木ばかりだ。ぼんやりと流れていく木を見ながら、右手で腰に差してる刀の柄をそっとなでる。まだ北へ辿り着いたという感覚はなかったが、北帝へ近付いているのは確かなはず。

 脳裏には、焼け落ちていく家々が浮かんでいた。



   三、さあ動き出しましょうか


 山の北側はなだらかな下り道が続いた。ふもとの町へ辿り着く頃にはすっかり日が沈んでいたが、季諾ときつくが言っていた通り、夕飯を食べ馬を借り替えるとそのまま出発した。朝になり汰虎たとらが目を覚ますと景勝地に着いていた。そこで朝食を取り、のんびり風景を楽しみながら北上し、街中で昼食。ぶらぶらと店を見て回って夕食を買って出発。馬車に揺られながら季諾の家の話を聞いた。

 北都の中では豊かな村の、そのまた地主の家に生まれた季諾は、食べるものに困らない生活を送っていた。経済的にも余裕があったので学校へも行かせてもらえ、決して真面目な生徒ではなかったが、そこで文字と算術を覚えた。何不自由なく生活をしていたが農村での生活が性に合わなかった。親の反対を押し切り、つてもないのに都市部へ行き、仕事を探しさまよった。

 他の農村出身者はなかなか仕事を得られなかったが、季諾はいくらか数字が分かったし、何よりも文字の読み書きが出来た。おかげで繁忙期の店の緊急の人手としてそれぞれに短期間雇ってもらえた。後々、この頃の経験を元に自分の店を持つことになるのだが、その当時はなかなか同じ店で長く雇ってもらえないことに不満を持っていた。そんな折、皇宮で近衛兵を募集するという話を聞いた。

「近衛兵の試験は簡単だ。皇族・貴族が見物してる中、素手で戦って勝てば良い」

 高貴な方々は物好きなもんさ。汰虎にはすっとぼけて言ってみせたが、季諾は試験として一時的にであったにせよ、自分が見世物にさせられていたことが未だに劣等感として残っている。近衛兵として宮殿で働いていた間もずっと、見世物はしょせん見世物でしかないのだという思いを強く持っていた。結局、ここも長続きせず、だからと言ってまた忙しいときだけ都合良く使われるだけの生活にも戻りたくなかった。恥を忍んで家に帰ることを考えた。

「けどよ、どうせ恥をかくなら、徹底的に駄目になってからにしようと思ってよ」

 いろんな店で働いていたつてを頼って商売を始めた。これが意外にも上手く行ってしまった。家に帰るつもりだったのが、今や逆に家から親を呼び寄せて一緒に住んでいる。

 話を聞きながら馬車の中で夕食を食べ、また夜通し進むのかと思ったら、その夜は宿に泊まった。遅い時間に着いたので風呂をもらって寝ただけで、早朝すぐに発った。朝食に、季諾ときつくが最初の日に食べていた硬いパンをもらって馬車の中で食べた。またのんびりと観光して、馬を替え、夕方、初めて店の中で夕飯を食べていたときに、もうすぐ着くと教えられた。

「たぶん、家に着いても昨日の宿と同じだ、風呂入って寝て起きて、行ってきます」

 だから、家族の紹介は逐一しないと言われ、汰虎たとらは何だか寂しい気がした。観光している間に、汰虎と年の変わらない息子がいると聞いていて興味があったのに。


「いらっしゃい、長旅疲れたでしょ?」

 前の晩に宿に着いたのと同じくらいの時間に季諾の家に着いた。季諾の妻が優しく迎えてくれた。季諾は行商しているので店を構えていない。周りの家と似たような造りの家だった。汰虎は季諾に急かされるままに風呂に入り、寝た。季諾の妻以外の家族とは会うことなく、翌朝、夜明け前に叩き起こされた。旅の出発の朝を思い出す。今度は説教部屋はなく、更に馬車もない。汰虎の鞄には新たに三日分の食事が詰め込まれ重くなっていた。それを持った季諾が汰虎の少し前を歩く。

 試験は宮殿の中で行われる。馬車で乗り付けるわけにもいかないので、歩いて行くしかないらしい。しばらく馬車に揺られてばかりいた汰虎には少々辛い。しかも眠い。朝食にまたあの硬いパンを食べながら歩く。


「あ、入口んとこでな、必ず何で試験を受けるんだって聞かれるんだよ」

 睡魔と闘いながら食べるには硬過ぎるパンをもそもそ食べていた汰虎に季諾が話しかける。

「聞かれたら、龍赳子りゅうきゅうしの助けになりたいからとでも答えておけ」

「りゅうきゅうし?」

「そうか、南ではあんま知られてないんだったな」

 眠い頭をフル回転させて、汰虎はその名前を思い出そうとしたが、元々知らないようでさっぱり見当もつかなかった。今の北帝・龍欺子りゅうぎしと名前が似ているから兄弟なのかもしれないと思い当たったが、北帝の兄弟なんか知らないので、結局だから誰なんだってとこが解決しなかった。それよりも、北帝にも兄弟がいるという考え自体が自分の中になかったことに気付いて驚いた。

「龍欺帝の弟御で、春宮はるのみやだ」

「はるのみや……」

「南の言い方では東宮か。まあ、要するに次に皇帝になる予定の人」

 まだ眠そうにもそもそパンを食べている汰虎に季諾が紙に『龍赳子』と書いて見せてやる。

「龍赳子は正室の御子なんで、北の人間は早くこの人に皇帝になってもらいたいって思ってんだよ。お会いしたことはないが、なかなか人徳のある方らしい。慈善活動なんかも積極的でな。そういうわけで人気なんだよ。だから、この人を持ち上げておけば無難で面倒がない。下手なこと言って皇帝派だと思われると、官吏となった後、面倒だぞ」

 皇帝派という耳慣れない言葉に汰虎が首を傾げる。少しずつだったが目が覚めてきた。冬から春になりかけの時期の朝はまだ肌寒いが、風が穏やかで暖かい。

「皇宮内部は大概、皇帝派か東宮派に分かれてる。そういえばこういうときだけ春宮でなしに東宮って言うな。それはともかくとして、そういう状況だってことだけはとりあえず知っとけ」

 最後の一口を押し込んでいた汰虎たとらは頷いて返事した。なかなか面倒そうだ。居鷹いたかの言っていた不穏な動きというのは、こういう内部の派閥争いによるものなのだろうか。それにしても同じ東宮だというのに、南の居鷹と北の龍赳子ではイメージが全く違うなと汰虎は最後の一口を飲み込みながら考えて、何だか笑えた。

「内部事情にずいぶん詳しいんだね。近衛だったのって何年前の話なの?」

「十年前だよ。何かと顔がきくんでね」

 にやりと季諾が笑った。季諾にだいぶ好感を抱くようになった汰虎だったが、やっぱりこの笑い方は好きになれない。何かを思い出す。いや、誰かだ。そうだ、居鷹だ。思い出して汰虎はげんなりした。無理矢理浮かんだ居鷹の映像を打ち消して、控えめな、静かな縷紅るこうの微笑を思い浮かべる。これで良し。汰虎は一人満足する。


「そこから入るぞ」

「裏口?」

「一般人が表の大門から入れるかいな」

 ま、それもそうか。それにしても物騒だとしか思えない裏門だった。木が茂っていて視界が悪い。これでは警備をするにも不便だ。その上、試験者用に開かれた門には衛兵らしき人物の姿もない。いくらなんでも無防備すぎる。

「昔はちゃんと門番がいたんだけどな」

 汰虎の考えていたことが分かってるようなタイミングで季諾ときつくが言う。皇宮の警備を減らして南との争いに兵力を費やしているらしい。

「門にはいねーが建物の中にはちゃんと近衛兵がいるぜ」

「建物にいたって、敷地内に好きに入ってこられてちゃ駄目でしょ」

 呆れた状況だ。俺に言われてもなあ、ぼやく季諾の前方に人の群れが見える。どうも汰虎たとらたちは遅い到着だったらしい。長々と列に並び、ようやく試験会場の入口に辿り着いた。季諾が言っていた通り、試験を受ける理由を聞かれ、汰虎は季諾から言われていた通りに答えた。その後、季諾が願書と推薦文を渡しながら、推薦理由を述べ、受付の人間が願書のチェックをした。

「ずいぶん背が低いと思ったら、九歳か」

「年は若いが十分使えますよ」

「若いというか、幼いな」

 その後も受付の人間はぶつぶつ言っていたが、一通りケチをつけて気が済んだようで、汰虎に中へ入るように促した。推薦人は中へは入れないということだったので、汰虎が季諾から鞄を受け取ろうとしたときだった、一人の近衛兵が近付いてきた。入口のところでの荷物検査がないのに安心していたのに、鞄の中を見られるのだろうかと汰虎はどきりとした。中には居鷹からもらった刀が入っている。

「よう、おっちゃん、ずいぶん小さなのを連れてきたんだな」

 その男は、季諾に明るく話しかけた。近衛兵だった頃の同僚だろうか。それにしては若そうだが。

杜宇胡とうこは元気にしてるかい?」

「毎日真面目に働いてるぜ、おっちゃんが来てること伝えようか」

「いや、良い。商売から帰ってきたところで疲れてるし」

 杜宇胡、確か既に居鷹から北へ遣わされている人物の名前。汰虎は少し緊張の糸を解いた。もしかしたらこの人は事情を知っているのかもしれないし、知らないにしても、季諾の知り合いなら、季諾がどうにか誤魔化すはずだと期待した。そんな汰虎の心配やら期待やらをよそに、その男は珍しそうに汰虎の頭のてっぺんから足の先まで見ると、興味が失せたように季諾に軽く挨拶をして立ち去っていった。


「あいつ、たったの二年で左近衛少将にまで出世してんだよ、元は農村の出で」

「へえ、さっきの人が」

 季諾は汰虎に説明したのだが、反応したのは受付の人間だった。有名な人物ではあるようだが、あまり顔は知られていないのか、受付が下っ端過ぎて顔を見る機会がなかったのか。

「こんなとこをうろうろしてるってことは、また隠れん坊でもしてるのかね」

 季諾が呟いた。汰虎は少将なんて位についてる人が何で隠れん坊だよと、意味が分からなくて説明を求めて季諾の顔を見上げたが、三日後に迎えに来ると言って、とっとと立ち去ってしまった。不親切だ。恨めしくぼやいて、汰虎は中へ入っていく。受付の人間が笑った気がした。


 三日間に渡る登用試験は退屈の一言に尽きた。食事は各自で準備してきたものを好きなときに食す。催してきたら試験官同行で会場の外にある厠へ行く。就寝時刻と起床時刻は決められていて、就寝前にその日の解答用紙(巻物になっている)を回収される。それ以外は、ずっと机に向かって書き物をしていなければならない。そして、その試験の中身だが、誰それの思想を説明せよだの、何とかの論を元にどれそれを論述せよだの、そんなのが一日に一問出され、その日一日をかけて巻物にだらだら作文する。三日で三本の卒業論文を缶詰で書くようなものだと言えば分かりが良いだろうか。

 受験者の人数を見て汰虎たとらは早々にまともに試験に向き合うことを諦めた。願書は恐らく受付でのチェックに使われるだけだ。試験の結果発表までに一ヶ月から二ヶ月かかると開始前に説明があったが、これだけの人数の論述問題の採点がたった一ヶ月や二ヶ月で終わるわけがない。全ての解答に目が通されるとは思えない。それに、試験官の態度がとにかく粗い。下手したら巻物の抽選で合否が決まるのではないか、そう思わされる状況だった。

 しかし、だからと言って何もしないで過ごすにはあまりに長い時間。汰虎は今まで読んだ書物を書き出していくことにした。

 汰虎は記憶力に自信がある。思想書一冊、三回読めば一言一句違わず覚えられる。居鷹いたかに目をかけられるきっかけになったのも、暗唱テストをしている様子を見かけられてだった。

 三日間の試験期間で、汰虎は三冊の本の写しを記憶力だけで完成させた。おかげで退屈な三日間を多少は有意義な時間に変えられた。

 三日後、迎えに来た季諾ときつくがその話を聞いてたいそう呆れ、また、感心しつくしたが、汰虎としては運に任せるしかない自分の未来を少々悲観していた。抽選にもれたらそれで終わりだ。


 試験が終わって季諾の家に戻ると、夕飯の仕度がされており、そこでようやく、季諾の家族に紹介された。結果が出るまでの一ヶ月か二ヶ月かの間、お世話になる家族だ。季諾の家族は、季諾の両親と妻、下の娘二人と末の息子が一人。上の娘二人は嫁に出ていて家にはいない。年が近いと聞いていて汰虎が会うのを楽しみにしていた末の息子は七歳だった。四女が十歳だというから、四女の方が年が近いくらいで、汰虎は少しがっかりした。季諾から見れば九歳も七歳も同じなのだろうが、本人らからすれば、大きな違いだ。

 末の息子は五真いづまなといった。五番目の子どもだからという理由で五という字が入っているのが気に入らないと愚痴っていた。季諾はそれをつまらないと笑い飛ばす。二人の娘もバカだ何だと笑ってて、汰虎は一回の食事だけで、五真の家族の中でのポジションが何となく分かったような気がした。

 年齢の他にもうひとつ、汰虎ががっかりしたのは、五真は全く物を知らないことだった。季諾の息子だからと知らず知らずの内に期待していたらしい。汰虎が季諾と話していると、的外れな質問で水を差す。本人も話題そのものには興味はなさそうなのに、汰虎に対抗するように話に割って入る。ともかく、自分は五真に気に入られていないということだけを汰虎は痛烈に感じた。気に入られてないのは分かったから、話の邪魔をしないで欲しかった。

「悪いな、普段はああじゃないんだがよ」

 翌朝、朝食前にご近所と共有の中庭に顔を洗いに行ったとき、季諾が汰虎に言った。汰虎は初め何のことかと思ったが、すぐに五真のことだと気付いた。

「まあ、年も年だしな、普段はそもそも話に興味を持つことすらないんだが、どうもお前さんにライバル意識でも抱いたみたいだな」

 これをきっかけに勉強に身を入れてくれりゃめっけもんなんだが。自分で言いながら、季諾は期待出来ねーなと笑った。汰虎は昨日、夕飯のときになって初めて口をきいた人間から嫌われる理由もライバル意識を持たれる覚えもない。五真に対して汰虎は腹を立てていたから、季諾に対して何も返事をしなかった。季諾はそれに苦笑して、子どもらしいことは良いことだと呟いた。

 五真いづまな汰虎たとらは一切口をきかずに朝食の席にいた。大人四人は困ったねーと言いながらも、どこかほのぼのとしてたが、娘二人は呆気に取られていた。五真は普段口は悪いが、姉四人にガヤガヤ言われながら育ったせいか(長女は五真が生まれた数年後に嫁に出たが)、とにかく抵抗しない大人しい弟だから。

 そんな、妙な空気の中進んでいた朝食に乱入者が現れた。


「おっちゃん、起きてるかーい?」

「どうやら一ヶ月もいらなかったようだな」

 季諾ときつくは外からの声に、今開けると返事し、立ち上がった。他の誰にも季諾の言った意味が分からなかった。扉が開かれ、季諾に伴われて一人の人物が姿を現した。試験会場の入口で季諾に話しかけていた左近衛少将だった。

「ちびさんや、うちのご主人様がお前をえらく気に入ってね。いや、図書部もお前を欲しがってんだけどさ」

「汰虎をかい? 昨日の今日でもう採点が済んだのか」

 少将の言葉に季諾が驚く。実をいうと結果が出るまでの間に、汰虎に商売を教えてやるつもりでいた。

「無整理に積まれた巻物の山からお目当ての解答用紙を探し出すのは苦労したぜ?」

 うんざり顔で少将が答えた。少将はあの日、季諾の分かれた後、彼の言うご主人様(話を聞くにどうやら北帝のようだった)に、ずいぶんと小さいのが官吏の試験を受けに来ていたと話したらしい。そしたらご主人様が興味深いねと言い出し、解答を見たいと初日に言っていたらしいのだが、それは試験官には伝っておらず、昨日はそれはそれはもう、大変な思いをして探し出したらしい。

「そしたら問題とは全く関係ない本の写しがしてあるし、しかもそれが図書部に見せたら驚く出来上がりだっていうんで、そばに置きたいって話になった」

 昨晩徹夜で巻物捜索をしていた少将はあくびを懸命に押し殺しながら、事のなりゆきを説明した。暇つぶしの自主的な暗記テストが功を奏するとは汰虎にも予想外だった。

「写しったって、お前の荷物に本なんて入れてなかったろ」

「だから、問題と関係なく覚えてたやつを書いたんだよ」

 記憶だけで、図書部も驚く出来でか。季諾と少将が同時に驚いた。五真いづまなは朝食をかっこむと、家の奥に引っ込んでしまった。

「そらー大したもんだ。俺のお出迎えは骨折り損にならずに済みそうだわ。んじゃ、荷物まとめてくれ、行くぞ」

「今から?」

「そいつはまた急だな。まあ、汰虎の荷物なんて、あってないようなもんだから、すぐに支度は出来るぜ」

 いくらなんでも急すぎると汰虎たとらは慌てたが、季諾ときつくはお構いなしに荷物をまとめ、少将に渡してしまった。刀だけは汰虎に手渡した。少将はそれを見ていたが、特に何を言うことはなかった。

 そんじゃ、と、家の外に出る。季諾に誘導されて汰虎も家の外に行くと、馬が一頭出入口に繋がれていた。五真以外の家族がみんな、状況を飲み込めないままに見送りに出てきた。少将が鞄を腰に結わえ付けて、馬を繋いでいたのを解き、ひょいと乗った。馬の上から汰虎に手を伸ばす。季諾が意図を汲み、汰虎の脇の下に手を入れ持ち上げ、馬の上に座らせた。汰虎の前に馬の頭、後ろには少将。

「じゃ、悪いがもらってくわ」

「おう、可愛がってやってくれよ」

 少将は季諾の家族に簡単に朝食の邪魔をした非を詫び、別れの挨拶をして、馬を走らせた。そしてあっという間にあの裏口。馬に乗ったまんま通っていって、奥の建物へと向かう。建物の入口近くでようやく馬から降りた。入口には人が一人いて、その人が少将の乗っていた馬を引き取っていった。

「皇帝の居住区、ここ」

「あ、うん」

 少将に先導されて中へ入る。建物の外観に記憶があった。中の様子も、記憶とは少し雰囲気が違うが、何だか知っているような気がする。そうだ、と汰虎は気付く、南宮の造りとほとんど同じなんだ。居鷹いたかは初めから汰虎を北へ遣るつもりで、その準備として、北宮の様子を教える代わりに南宮内を案内していたのだと、汰虎はようやくここで知った。


 縷紅るこうの部屋があるはずの場所に、汰虎は通される。目の前には窓から差し込む朝の光に照らされた、右頬に皇族の印が入った男が座っていた。仮面のような微笑のまま、男が口を開く。

「おはようございます、朝ご飯はお済みですか?」

 汰虎は養栄園を出てから一週間で、北帝の御前に辿り着いてしまった。これはさすがに想定外過ぎる。汰虎は頭の中で愚痴をこぼした。

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