8

 

 あたしは話した。凄まじい勢いで喋った。祐斗との出会い、一緒に過ごした日々、悲しかった、結局最後まで上手くいかなかった、別れてから今まで、ずっと考えていた色々なこと。思いつくことのほとんど全てを、片端から語りつくした。言っていることが何を意味するとか、相良にどう受け取られるとか、そんなことは気にしなかった。あたしはただ吐き出した。そのこと自体があたしにとって持つ意味を考えることもしなかった。祐斗と別れた夜の公園、相良に呼び止められ、二人してベンチに座っているこの状況、その場においてあたしは、いわば何かに衝き動かされていた。その間、相良はあたしの独白を遮らなかった。あまりに静かだったから、話を聞いているのかどうかもよくわからなかったけれど、そのことさえ、もしかしたらどうでもよかった。いや本当はそんなはずはないのだけど、でもそんな風に感じられていた。

 話し終わって一息つくまで、どれくらいかかったかわからない。ただ、ずいぶん喋ったように感じたのは確かだ。

 それからちょっと無言の時間があって、「おまえ馬鹿だよ」と相良が言った。「まあ、わかってると思うけど」

「わかってるよ馬鹿」とあたしは答えた。「嫌ってくらい、わかってる」

 言いながらあたしは、あの夜のあの光景を思い出している。夜、公園のベンチ、座って眺める祐斗のフラッシュバック。もう涙は出ないけれど、それでも胸が潰れそうになる。そりゃ、あたしは馬鹿なんだろう。とらわれてとらわれて、そうやってとらわれること自体に、それでも祐斗との繋がりを求めて、どうしようもなく辛いはずの現状から、抜け出すことさえも嫌って。

「榎井、コンコルドって聞いたことあるか?」相良は突然、そんなことを呟いた。

「何それ?」知らなかったので、あたしは首を傾げる。「コンドルなら知ってるけど」

 あたしの言葉を、相良はいつものように鼻で笑った。

「まあ、似たようなもんかもしれないけどな。飛行機の名前なんだ」と彼は言う。「めちゃくちゃスピードが出るって触れ込みの旅客機でさ」

「で、そのコンドル子がどうしたわけ?」あたしは会話モードを聞き手側に切り替えた。

「コンコルドだ。なんでちょっと可愛らしいネーミングになってんだよ」言い間違いを訂正して、相良は軽く咳払いをした。「つっても、その飛行機自体は割とどうでもいいんだけどな。問題は、コンコルドにまつわる逸話のほうだ」

「ふうん」

「コンコルドはめちゃくちゃ速いんだが、それがどれくらい速いかっていうと、音速を軽く超える。確か、マッハ2くらい出るはずだ」飛行機の話をする彼はちょっとだけ、無邪気な少年のように見える。「今、普通に運航してる旅客機のスピードはマッハ1にも満たないから、二倍以上だな」

「いいじゃん、コンコルド」あたしは軽い相槌を打った。

「でも、コンコルドには問題点がいくつもあった」相良はどこか得意げに言う。「うるさいし、ソニックブームっていう、よくわかんねー衝撃波も出る。要するに、飛ぶと迷惑になるわけだ。それだけじゃない、コスト・パフォーマンスが悪くて割高になるうえに、機内の乗り心地も良くない。これは大衆向けの旅客機としちゃあ、致命的な欠陥だ」

「駄目じゃん、コンコルド」あたしはあっけなく態度を翻す。

「そう。結局、駄目だったんだ。コンコルドは」軽い笑みを浮かべたまま目を閉じて、相良は首をひねる。オーバー・アクションだ。「だが、どうやら駄目だとわかった後も、コンコルドの開発はしばらく続いた。赤字を免れないという試算があったにも関わらず、一度は商業化もされたらしい」

「そんなことって、あるの?」

「普通に考えたら、おかしいよな。営利目的でやってることなのに、赤字を、それも莫大な赤字を出して、わざわざ猛スピードで飛ぶ飛行機を作るなんて」

「男のロマンってやつかしらね」あたしは冷ややかに笑った。

「男のロマンだけじゃ、会社は動かない」相良は頭を振る。「むしろこのケースは、既にかけてしまった金や時間が、開発中止の妨げになったんだと説明されるんだよ」

「これから、もっと赤字が出るのに」

「もっと赤字が出るのに、だ」彼はあたしの言葉を繰り返した。「これをコンコルド効果とか、コンコルドの誤りって呼ぶ。結構、ホットな研究テーマになってるみたいだぜ」

「でも、それって確かに、ありそうな話だよね」とあたしはもっともらしく頷く。「ここまできたら後には引けない、ってことでしょ?」

「そういうことだな」相良もつられて頷いた。「で、この話の面白いところは、コンコルド効果は動物とか、子供には見られないってことだ。俺も本で読んだだけだから、子供ってのがどれくらいの年齢のことなのかは、よくわからないが」

「まあ、子供は言わないよ。『後には引けない』なんて」

 あたしが言うと、相良は「言えてるな」と笑った。

「でも、このコンコルド効果って、失敗談つーか、教訓めいた話として語られることが多いんだよな」

「そりゃ、そうなんじゃない? 赤字が出るんだし」とあたしは応じる。

「普通に考えれば、そうだな」彼は大きく一度頷く。「けど、俺はこれによく似た美談を知ってるんだよ。といっても、こっちは御伽噺みたいなもんだけど」

 言ってから相良はこっちを見たけれど、あたしには思い当たりがなかったので、首を傾げて先を促した。

「少年と、ばらの花と、それからキツネが出てくる話なんだが」と相良は言う。「ばらの花は何故か喋るばらで、少年はそのばらに恋をするんだ。ばらと話をして、水をやったり、囲いを作って風から守ってやったり。でも結局、彼はばらと離れ離れになってしまう」

 聞きながら、あたしはその少年に自分を重ね合わせる。単なる寓話だとわかっていても、胸が痛んだ。

「少年は故郷を離れて、様々な場所を旅して回る。で、あるときばらの花がたくさん咲いている庭を見つけるんだ」御伽噺のストーリーを語る相良の声は、どことなく現実離れして響いた。「そこで彼はショックを受ける。そりゃそうさ、自分にとってあんなに特別だったばらの花が、本当はちっとも特別じゃなかったんだ。で、そんなときにキツネと出会うのさ」

「当然、喋るキツネなんでしょうね」

「人間なんかより、よっぽどましなことをな」皮肉っぽく笑って、相良は続ける。「少年は落ち込んでいて、キツネに慰めてほしかったんだろうな。ぼくと遊んでよ、とこう言うわけだ。だが、それをキツネは断る。『君とはまだ友達になっていないから駄目だ』ってな」

「ちょっと嫌なやつだね、そのキツネ」とあたしは笑う。

「ちゃんと最後まで聞けよ。キツネは続けて言うんだ、『ぼくと友達になってくれ』」相良はゆっくりと、話を続けていく。「そのキツネと友達になるには、幾つかのきちんとした手順を踏む必要がある。初めはそおっと近づくだとか、決まった時間に彼の元を訪れるだとか、彼は『絆を結ぶことだ』と言うが、まあそんなようなことだ。少年はそれに従ってキツネと友達になって、そしてやっぱり別れる。少年は旅の途中だったから」

「人生は別れの連続だね」と軽くあたしが言うと、

「出会いの連続でもある」と軽く相良は答えた。「とにかく、そこでキツネは言うわけだ。『お別れが悲しくて、涙が出そうだよ』。それに対して少年が言う。『いずれ別れるとわかっていて、友達になってと言ったのは、君じゃないか。なのに悲しいだなんて、それじゃあぼくと出会って、良いことなんかなかったじゃないか』ってな。で、キツネはこう言うのさ。『いいから、ばらの花を見に行ってこいよ』」

「ちょっと、何よそれ」あたしはつい笑ってしまった。「答えになってないじゃない」

「ところどころ、端折ってるから仕方ないんだ。静かに聞いてろって」両手でなだめるような仕草と共に、相良は言う。「少年はばらの庭園に足を運ぶ。そして、そこで気がつくんだよ。このばらは確かにばらだけど、自分の恋したばらとは違う!」

 あたしはその場面を思い浮かべた。たくさんのばらの花を前にして、驚く少年。相良の言うことが、あたしにはよくわかった。愛は性欲の単なる詩的表現ではない。

「戻ってきた少年に、キツネは告げる。『出会ったときはぼくと君とは赤の他人で、互いにいてもいなくても同じだった。でも今は違う、別れが悲しくて涙が出る。ぼくと君は友達で、絆を結んだあとだからだ。君とばらの話も、それと同じことさ。君のばらの花をかけがえのないものにしたのは、君がばらのために使った時間だったんだ』」

 そこで、相良が言葉を切った。

「確かに、いい話だね」少し考えてから、あたしは頷く。「コンコルド効果だって、しょうがないって気になるかも」

「おまえ、この話、知らないの?」相良はからかうような口調になった。「すげえ有名な御伽噺なんだけど」

「知らないけど。悪い?」あたしは居直ることにする。

「罰金五万円だ」相良はどうでもよさそうに笑う。「このあと、『本当に大事なものは目に見えない』っていう、あの有名な命題が出てくるのに」

 その言葉は聞いたことがあるような気もしたけれど、やっぱり出典まではわからなかった。でも、そんなことは割とどうでもいい。問題は、相良がいきなりこの話を始めたってことだ。コンコルド効果を説いて採算のとれないプロジェクトへの注力を戒めたと思ったら、今度は御伽噺を引いてきて一つのものを大事にするのは良いことだと教える。

「あんたさ、それで何が言いたいわけ?」考えてみてもよく分からなかったので、あたしは訊ねた。「どっちも、話としては面白かったけど」

「何が言いたいってわけじゃない」と相良は否定した。「俺が興味を持つのは、どっちにしても人間は、コンコルドによれば人間の大人は、それが非合理な場合であっても、手間を掛けたものを大事にしたがるってことだ。これは一体どうしてなんだろうな。榎井はどう思う?」

 あたしは驚いて、目を丸くする。それは、さっきまで考えていたこととまったく同じだった。つまり、あたしの執着はどこから来るのか。

「どうでもいいけど、変な話だよな」と相良は付け加える。「さっきのキツネ、子供向けの御伽噺に出てくるんだぜ。そいつの言ってることが、子供よりもむしろ大人のほうを的確にとらえてるなんて」

「相良、あんたはわかるの?」あたしは、恐らくは切迫した口調で、言った。「あたしは、考えてもわからなかった。どうして、自分がこんなにこだわってしまうのか。わかったところでどうなるものでもないかもしれないけど、でもわかるんだったら、教えてほしい」

「教えてください、だろ?」相良がふざけた口調で言うのに、あたしは「いいから教えてよ」と余裕なく答えた。

「……これはあくまでも俺の考えであって、別に学会とかで支持されてるってわけじゃないからな」とよくわからない前置きをして、相良は言う。「子供がコンコルドの誤りを犯さないってのは、有限を知らないからだと俺は思う」

「どういうこと?」

「自己の有限、他者の有限」諳んじるように、相良は述べた。「つまり、自分が見たり聞いたり触ったりできるものなんて本当に限られてるし、他人にしたってそれは同じで自分にばかり構ってはくれない。それだけじゃなく自分の存在そのものだって、いずれ死んで無くなっちまうんだってことさ。子供はそれを知らない。言葉の上で知ってたとしても、実感として知らない。逆に言ったら、それを知らないヤツはまだまだ子供だってことになるのかもな」

「それとコンコルドと、どう関係があるの?」あたしは自分で考えるのがまだるっこしくなって、続きを求めた。

「もし人生が無限だったら、って考えてみるんだよ」彼は空を見上げる。「いいか、人生が無限だったら、執着なんて生じやしない。どころか、あらゆる意味での切実さが、消え失せちまうだろうよ。だって何かを失ったって、またそのうち同じようなものが手に入るだろうって、考えられるんだからな。こんなのはもちろん想像でしかないが、俺はそう思う。だから何かに対する執着、後には引けないって感情は、リソースの有限性に起因してるんだ。恋愛や友情だって同じさ。掛けた手間隙が大切さを決めるってのも、与えられてる時間が有限だからだ。有限だからこそ、やっちまったことは取り返しがつかない。取り返しがつかないから、惜しい。もしその場で失敗して、たとえばばらとの関係は修復不可能になったとしても、時間が無限だったら、またどこか別の場所で、別の相手とやり直せる。かけがえがないってのは、代わりが利かないってことだ。そして代わりが利かないのは、生きてる時間が限られてるからだ。つまり、代わりを見つける時間がない。もしくは、時間があるかわからない」

 あたしは相良の言うことを、何度か頭の中で繰り返そうとした。だけどその途中で「それって」と声が出る。「そんなのって、ひどくない?」

「何が?」相良は平然としていた。

「なんか」あたしは上手く言えない。「なんかわからないけど、ひどい気がする」

 あたしの祐斗への想いもあたしが不老不死じゃないってことにその理由があって、それって要するに自分が生きてるうちに今以上の相手を見つける自信がないとか、見捨てられたら死ぬまでずっとこのままなんじゃないかとか、要は全部、自分の都合でしかない。相良が言うのは、つまりそういうことだ。あたしは、自分の恋愛が相手のことを思いやれるような種類のものだったとは思わないけれど、でも、すべての恋愛がそうだなんて思いたくはなかった。あたしの恋愛は、失敗していたのだ。失敗例は失敗例であって、それなら成功している例も、どこかにはあるはずだ。

「人生は限られていて人がいつか死ぬってことを、必要以上に嘆き悲しんだり、素晴らしいことだと称えたりするのを、たまに見るけど」相良はふと思いついたように、言った。「別にそれ自体は、ひどいことでもなけりゃ素晴らしいことでもないよな。不老不死は虚しいとか言ってみたって、実際に不老不死になってみりゃ、そんな感傷さえ無意味になっちまうさ。ただまあ現実には、人間はいつか死ぬ。これはたぶん未来永劫、不変の事実だろ。そうである以上、俺たちは何かに執着せずにはいられないし、コンコルドの誤りだって犯すだろうよ。そのことを前提にして、何もかも考えていくしかないんだ」

「あたしの言うことの答えになってるわけ? それって」あたしはクエスチョンマークを浮かべる。「言ってることは、まあわからなくもないけど」

「つまりさ」相良は少し笑ったように見えた。「みんな、条件は同じなんだよ。不老不死の人間なんか、いやしない。だから、自分が今まで掛けた手間を守ると同時に、他人が今まで掛けた手間も、守ってやるんだ。守ってやれる、というべきかもな。『絆を結んだ相手に対しては、責任がある』って、キツネも言ってたよ。そして、そんなことができるのも、やっぱり互いに相手のことが大事だからで、相手のことが大事なのは、人生が限られてて、掛けた時間が戻ってこないからだ」

「でも、それじゃあ守れなかった絆は、どうなるの?」あたしはすぐに言う。「そう、さっきあんたのキツネは誤魔化してたけど、別れは悲しくて、本当に悲しくて、こんな思いをするくらいなら、初めから出会わなければよかった。そういう少年に、キツネはどう答えたの?」

 相良はちょっと、顔をしかめた。「あぁそれはな」と、嫌そうに言う。

「俺はあまり好きじゃないから、端折ったんだよ」彼は頭を掻く。「キツネは別れ際、少年にこう言うんだ。『ぼくはこれから、金色の小麦を見るたびに君の金髪を思い出して、嬉しくなる。だから君との出会いは無駄なんかじゃなかった』。でもそんなの、嫌な別れ方をしちまったら、どうしようもないよな」

 あたしは落胆する。夜の公園を通るたびに、あたしは祐斗との別れを思い出して、辛くなっているのだ。

「別れそれ自体に、意味なんかないだろ」相良はきっぱりと言った。「大事な相手と離れるのは、どんな理屈をつけたって、どうしようもなく辛いさ。でも、やっぱりこれもコンコルドの応用だ。あれだけ大事だったものが、無意味だなんて思いたくない。だから、失ったものが大きければ大きいほど、そこから何かを得ようという気持ちも大きくなる。次は絶対に同じ失敗をしない、とかな。そうやって、結果としては悪くなかったとか、あれがあったからここまで来られたんだって具合に、自分の中で折り合いをつけようとするんだろうよ。そういう意味で、別れは無駄なんかじゃない。というよりも、それを無駄にしたくないという意思が、別れに意味を持たせるんだ」

 身体が震えて、肌が粟立つのがわかった。相良の声はいつになく鋭く、力強かった。

 あたしは考える、コンコルドについて。少年とばらの花について。有限性と執着心と、それからやっぱり有限性について。祐斗と二人で過ごした時間と、これから一人で過ごす時間について。

「ところで榎井」相良は急に、軽い調子になって言う。「おまえ、俺と付き合わないの?」

 彼の表情がおどけていたから、あたしは笑うことができた。

「あんた、もしかして格好いいとか思ってる?」

「おまえだって、思ってたくせに」相良は特に気にした様子もない。

「あーぁあ」あたしはわざと大きな声を出して、ベンチから立ち上がる。「馬鹿と喋ったせいで、疲れちゃった」

「そりゃ、悪かったな」へらへらと笑いながら相良は言う。「でも、これで俺の髪の毛が金色な理由が、わかっただろ」

「は?」

「これからおまえは、金色の小麦畑を見るたびに、俺のことを思い出すよな」

「馬鹿じゃないの」あたしは遠慮なしに笑った。「言っとくけど小麦畑なんて、あたしの田舎でも見たことないよ」

「食料輸入国化、反対」相良は乱暴に言う。「日本はもっと、小麦の自給率を上げるべきだ」

 馬鹿だなこいつと笑う一方で、あたしは考えている。相良はこうやって、あたしに労力を掛けて、絆を結ぼうとしているんだろう。そう考えた途端、なんだか胸が暖かくなって、涙が込み上げてきてしまうから、焦った。

 そのことを気取られないように、あたしは相良に軽く言葉を掛けて、公園を後にする。ひょっとして、これってコイツの思うつぼなんじゃないかと、ちょっとだけ不安になりながら。

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