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「エノちゃん、可愛いっ!」開口一番、晴美が言ったのはそんなことだった。「すっごく、似合ってるよ」

「ちょっと、声でかすぎ」あたしは苦笑いで彼女をたしなめる。「恥ずかしいでしょうが」

 人の行き交う休日の駅前広場で、あたし達はいつものように待ち合わせていた。彼女と最後に会ったのは夏休み前だから、もう一ヶ月ぶりくらいにはなる。

「私、ずっと目をつけてはいたんだよ」きらきらと瞳を輝かせながら、晴美は言った。「エノちゃん、ショートにしたら絶対可愛いのにって」

 先週の金曜日、あたしは髪を切った。それも、かなり大胆に。

 高校に入った頃から、ずっとセミロングとロングの中間あたりをうろうろしていたのだが、今回は思い切って、ショートとベリーショートの間くらいまで突き抜けてみた。ついでに色も黒に戻して、今のあたしは爽やかなスポーツ少女風だ。一歩間違えば男みたいな髪型といえなくもないけれど、案外気に入っている。

「晴美、ショートってすごいんだよ」あたしは声を弾ませる。「髪の毛がね、ドライヤーなしで乾くの」

「そこまで短くするのはちょっと」今度は晴美が苦笑いをした。「私はショート、似合わないんだよね」

 彼女は自分の髪の毛を触りながら、うらめしげにこちらを見てくる。あたしはニヤリと笑みを浮かべ、「ふふふ、羨ましいだろう」とショートヘアを自慢した。

 この間、相良と会ったときには、いきなり「余分な髪の毛で呪いの人形でも作ったか」などと言われて意味不明だった。それと比べれば、彼女の素直なリアクションはきわめて好感がもてる。

「あのね、エノちゃん」駅の改札を抜け、ホームへ向かう途中で晴美が言った。「一つ、報告があるのです」

「ほほう」王様みたいな口調で、あたしは答える。「よいよい、言ってみなさい」

「私、内山晴美は」彼女は畏まった調子で、やや緊張した面もちだった。「鷹架優くんと、付き合うことになりました」

 彼女はキャーとか言いながら、両手で顔を覆った。その様子はあまりにも可愛らしくて、今すぐ交際相手の鷹架くんに、決闘を申し込もうかと思うほどだ。

「でもね晴美」とあたしは水を差す。「それ、だいぶ前から知ってた」

「うそ!?」晴美は本気で驚いたみたいだ。「え、なんで? どうしてエノちゃんが、知ってるの?」

「非常に残念なことに」あたしは悲痛な表情をつくる。「あたしには晴美の細やかな心遣いなど毛ほども気に留めない、金髪馬鹿の知り合いがいてね」

 彼女が今まで、六月中旬から実に二ヶ月以上もの間、交際の事実を伏せていたのは、ハートブレイキングなあたしの回復を待ってのことだろう。だが、相良の野郎はそんなことをまるで意に介さず、鷹架優から報告を受けたその次の日に、あたしに謎の電話を寄越してきやがったのである(おまえの友達と俺の友達が付き合うようになったらしいぞ。おまえ、俺と付き合わなくていいの?)。

「相良くんかぁ」あたしの説明で晴美も察したらしく、困ったような笑みを浮かべた。「それじゃあえっと、報告遅れて、ごめんね」

「いいって。気にしてないから」あたしはひらひらと手を振る。「それより鷹架くん、どんな感じ?」

「優しいよ、すっごく」晴美は幸せそうな笑顔になった。「それと、面白い」

「面白い?」あたしは眉をひそめる。「あいつ、そんなに面白かったっけ」

「聞いてよ。こないだね、一緒に動物園へ行って、猿を見たの」彼女は勢いよく言った。「猿山っていうのかな、小さい猿がいっぱいいてさ」

「ああ、あるね。猿山」とあたしは頷く。

「でね、しばらく見てたら、優くんいきなり『あれは相良だね』とか言い出して、何のことかと思ったら次々に猿を指差して、知り合いの名前を言っていくの」晴美はとても楽しそうに言う。「それがもう、すっごいんだよ。いちいち本当にそっくりなの。見せてあげたいくらい」

「面白いっていうより変なやつだよ、それ」あたしは冷ややかな視線を浴びせた。

「いやいや、その場にいたら絶対わかるって」と晴美は力説する。「だって、考えてもみてよ。相良くんみたいな猿だよ? やばくない?」

 言われて、あたしは想像力を働かせる。

 二秒で吹き出した。

「絶対いる!」とあたしは叫ぶ。「なんか、こっちをふてぶてしく睨んでる!」

「そうそう、そんな感じ」晴美は笑った。「だからまあ、優くんは面白いよ」

 やってきた電車に乗り込んでからも、他愛もないお喋りは続いた。話題は主に晴美と鷹架くんのお付き合いについて。二人はどうやらとても上手くいっていて、彼女は毎日が楽しくて仕方がないという様子だ。あたしはそこに去年の自分の姿を重ね合わせて、ああこの子にはぜひこのまま幸せでいてもらいたいな、と思う。

 なんて、そんな言い方をしたら、まるであたしが人生を悲観して、自分の幸せを放棄したみたいじゃないか。

 そんなことはない、あたしはすごく元気だし、幸せになることを諦めたわけでもない。まださすがに次の彼氏はいない(そして相良の馬鹿さ加減は相変わらずだ)けど、失恋のショックからは八割方、立ち直ったと言っていい。落ち込み方が激しくて、立ち直りの勢いも激しかったから、その分ハイになっているかもしれない。

「あのさ、晴美覚えてるかな」会話の切れ目を見計らって、あたしは言った。「希望のところで終わる小説やら映画はずるい、って話」

「そういえば、そんなこと言ってたね」と晴美は頷く。「現実はそんなに都合よくない、って」

「あたし思うんだけど、周期みたいなものなんだよね。上り調子と下り調子、みたいな」考えていたことが、あたしの口から溢れ出してくる。「何かを突破したあとはしばらく怖いものなしで、でも結局、そのうち怖いものがやってきてさ。そう考えたら、ずっと安心とか、本当のハッピーエンドみたいなのって、やっぱりどこにもないんだよ」

「ちょっと、不吉なこと言わないでよ」困ったみたいに笑う晴美も可愛かった。「彼氏できたばかりの私に向かって」

「ああごめん、そういうつもりじゃないんだけどね。でも、なんていうか」あたしはちょっと早口になる。「そうやって、上ったり下ったりするからこそ、何かを突破したときのアドレナリン全開な感じがあるんだと思うし、それがどうせ失われるものなんだとしても、価値は変わらないっていうか」

「アドレナリン全開」笑いながら、晴美は繰り返した。「私、なったことないかも」

「むしろ、ずっとハイなままだったらそれが普通になって全然特別じゃないし、だから今こうして元気なあたしがいるのは、こないだまでの落ち込んでたあたしがあってこそ、でもあるんだよね」聞き手のことなんかほとんど無視するみたいにして、あたしは喋っている。「そう思ったら、なんか、希望に満ちたラストもありなのかなって」

 晴美はぽかんとした顔。言ってることの半分も、伝わっていない顔だ。あたしは我に返って、口を動かすのをやめた。やっぱり、だいぶハイになっている。

 もし今ここで物語が終わるのだとしたら、とあたしは思う。それなら物語は、ほんの少しの感傷と、ブリリアントでしたたかな希望(!)とをもって、いちおうの幕を閉じることになるんだろう。あたしは今、それを許して、認める。

 でも、これはまず間違いないはずのことだけれど、あたしはこれから先もたくさんの辛いことと出会う。死にたくなったり消えたくなったり何もかもどうでもよくなったりすることが、あるはずだ。それで、もしかしたらそのたびに、ハッピーエンドなんて消えちまえ論者に逆戻りするのかもしれない。今のあたしの前向きな考えや語りは、あくまで溢れ出す脳内物質に支えられてのものであって、永久不変なんかじゃない。バネみたいな勢いで失恋から立ち直り、髪を切って見た目も気分も爽やかなあたしの言うことでしかない。

 だけど、それでもだ。それでも、今のあたしのハイテンションには、絶対に普遍的な価値がある。だって、大事な彼氏をどうしようもなく失って、そのことを決して無駄にはしたくなくて、限りある人生の中でそれを体現したいと、本気で、本気も本気の三乗で決意した、このあたしのハイテンションなのだ。これが希望でなくて何であろう、語るに値することでなくて、一体何を語れというんだろう。あたしはこれで生きていくのだ。取り返しのつかないものを、自分の中に必死で取り込んで。

 それは言ってみれば、過去に縛られるような生き方なのかもしれない。でも、生きるってそういうことじゃないか。過去をまるごと綺麗さっぱり切り捨てるなんて、それこそ以前の自分は、生きていなかったのと同じになってしまう。それならコンコルド効果は、それがどんなに馬鹿みたいに見えたって、生きていくには不可欠なものなのだ。

「あのね。エノちゃんが元気になって、私嬉しいよ」と晴美が微笑む。「エノちゃんは、いつも私に元気をくれるから」

「それは奇遇だね」とあたしは頷いた。「あたしもずっと、晴美に元気をもらってるんだよ」

 晴美は「ふふっ」と素敵に笑った。「エノちゃん、私たちずっと、友達でいようね」

 彼女の後ろ側、電車の窓から差し込む光が眩しくて、あたしはちょっと目を細める。

「うん」そのまま微笑みの表情に移行して、言った。「じゃああたし、責任とるから、晴美もそうしてね」


<Au sujet de "Le Petit Prince"> est La FIN.

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