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 好きな人からどう思われてるかって、どうしてこんなに重要なんだろう?

 お風呂で大泣きしたあの夜、電話を切る間際に相良から言われたことを、忘れたわけではない。そして、まるっきり何も思わなかったというわけでもない。

 だけど、相良があたしを(たぶん)好きだということと、祐斗があたしを好きだったということの間には、どうやっても飛び越えることができないだけの隔たりが、やっぱりある。前者は言ってしまえば、結局のところあってもなくても同じものだ。何も思わないわけじゃないが、そこに切実さはない。対して後者については、もしかしたら祐斗は自分のことなんかどうでもいいんじゃないか、という想像上の可能性にすら、あたしは耐え難さを感じていた。この違いは、どこからくるんだろう?

 もちろん、あたしが祐斗のことを好きだというところから、くるのだ。それは当然だ。でも、だったらどうして、好きな相手が自分を好いているということは、こんなにも重要なんだ?

 愛ということについて、あたしは考える。

 恋愛とは性欲の詩的な表現だ、みたいなことを言ったやつが過去にいたらしいけど、それは違うとあたしは思う。そんな言葉では、あたしの祐斗に対する執着を説明できない。もし祐斗と同じような顔同じような身体を持つ男の人がいたとしても、それは祐斗ではない。ひょっとしたら、祐斗の代わりにはなるのかもしれないけれど、その場合あたしが愛しているのは祐斗であって、彼ではない。

 本当に人を好きになって初めて、ぼくは生きるということについて考えるようになる。ちょうど、イアフォンから流れるテノールが、そんなことを歌った。

 あたしはこの歌詞がすごく好きで、何故かといえばまさに自分がそうだったからだ。大学に入る前まで、将来のこととか、ましてや自分の人生全部についてなんて、真面目に考えたことがなかった。祐斗と出会って、付き合うようになって、彼のことがどんどん好きになって。それはもしかしたらどこにでもある、乙女の初恋ってやつだったのかもしれない。だけどあたしはそこで初めて、「ずっと」とか「一生」とか「永遠に」とか、そういう言葉の使い方を知った。彼、祐斗という一人の人間が、あたしを好きで傍にいてくれるということの素晴らしさと儚さを思い、それが続いていくことを心から願った。今だって、願っている。

 でもそれだって、あたしの執着を説明する根拠には、なっていない。好きだから一緒にいたい、一緒にいたいから別れたくない。そういう整理の仕方と変わらない。問題なのは、その執着がどこからくるのか、ということだ。あたしは本当に、理不尽なまでに祐斗を求めている。あれから二週間ほど、一度も連絡をとっていない。彼のほうはそろそろ、あたしのことなんか思い出しもしなくなっているかもしれない。元に戻るなんてもう絶対に不可能で、考えるだけ無駄に違いない。そこまで考えてもなお、あたしは彼を想っている。彼がもう一度あたしのことを好きになって、傍にやってきてくれることを、心の底から望んでいる。

 祐斗があたしをそんなに好きじゃないんじゃないか、と考えるとき、頭にあるのは別れのことだったかもしれない。彼がいつか冷めて、もしくは他に好きな人ができてあたしの元を去っていくのが、心配だったのかもしれない。でも、どうだろう。たとえ祐斗が浮気をしたりあたしのことを振ったりするようなことがないとしても、祐斗がずっとあのままで、あたしの考えてることや感じている苦しさをわかってくれないんだったら、あたしはやっぱり辛かったんじゃないかと思う。そこにはきっと、あたしの一番好きな相手にはあたしのことを一番にわかっていてほしいとか、考えていてほしいという思いがある。

 どちらにしたって、結局これも同じことだ。好きだから、離れたくないから。だから相手が自分をどう思っているかが気になるし、大事な問題になる。それは間違いようもなく正しいけれど、やっぱりあたしの未練、執心に正当性を与えてはくれない。

 あるいは、それでいいのかもしれない。少なくとも、こんなことを考えたって一文の得にもならない。好きに理由はいらないというけど、だったら好きの先にあるあれこれにも、理由はいらないのかもしれない。でも、あたしは考えずにはいられなかった。他にやることがない、やる気が起きないという事情もあったけれど、それ以上に、自分の苦しさに理屈をつけることで、そこからなんとか這い出そうとしていたのだと思う。

 恋愛なんてのは要するに深刻な思い込みだろ、と誰かが言っていたのを聞いたことがある。恋なんて幻想で思い込みで、言ってみりゃ精神疾患みたいなもんだろ、と。いかにもあの金髪が言いそうなことだけれど、どうだっただろうか。

 誰が言ったかはさておき、それもきっと一面では正しいんだろう。運命とか必然とか彼じゃなきゃ駄目なのとか、そんなのって結局のところ思い込みに過ぎなくて、だから無意味なものでしかない、そういう言い方をすれば、確かにその通りなんだろう。

 じゃあ、そんな風に思い込んでしまうのは何故なのかと、あたしは考えてみる。

 あたしの場合、大きなきっかけが一つあったというわけではないように思う。ほとんどの場合はそうなのかもしれないけれど、一緒にいるうちに少しずつ、それから一緒にいないときにもやっぱり少しずつ、彼のことをかけがえのない存在に感じるようになった。ちょうど話したいと思っていたときに電話がきたとか、母方の苗字が同じだったとか、そんな小さな偶然も、きっとそれを後押ししていったはずだ。そういうもろもろの積み重ねが、あたしの思い込みを深刻にし、今こうして失恋のダメージとして、重くのしかかってきている。

 モノレールが停まった。ガープシューッと音がしてドアが開いて、人がばらばらと降りていく。一緒になってあたしも降りた。

 駅のホームを出ると、日が落ちて空は黒くなっている。少し歩いたところにあるスーパーマーケットで、夕食の材料を買った。昨日から、コンビニ頼みの生活を脱して、自炊を再開したのだ。健康のためとかお金の節約とか、そんなことはどうだっていい、というよりまだまだ気にする余裕がないけれど、朝しっかり起きて、学校へ行って講義を受けて、料理を作ってご飯を食べて、お風呂に入って寝るという、人間として当たり前の生活を送ることが、あたしの頭の中を空っぽに近づけて、少しだけ楽にしてくれるということに気がついたからだ。祐斗のことを考えるのは、自分にとって必要なことだとは思うけれど、やっぱり辛くて、ずっと続けていたら心がぽっきりと折れてしまいそうになる。だからあたしには、癒しが必要だった。

 買い物袋を手に提げて、静かな夜道を歩いていく。さすがにもう、肌寒さはない。かといって、まだ蒸し暑さもない。春は、それがやってくる頃には冬と見分けがつかない癖に、やがてあっという間に夏の訪れに溶けていってしまう。でも今はちょうどその狭間、春が春として一人立ちしている時期らしかった。心の春はどこかへ行ってしまったけど、という寒い冗談を思いついてしまい、あたしはちょっと後悔する。

 夜道は暗くて、あたしの他には誰もいない。そう思うと連鎖的に、あの夜のことを思い出す。夜の公園、祐斗とあたし。彼が今にも遠く、手の届かないところへ離れていってしまいそうな予感。しゃがみ込んで悪寒に震え、降ってくる祐斗の声に耐えていた。その光景はもう、ほとんどトラウマと呼んでもいいような過酷さ鮮烈さで、あたしの記憶に刻み込まれている。一生、忘れることなんかできないんじゃないかと思うくらいだ。さらに悪いことにあの公園は、駅から歩いてアパートに帰る道のりの途中に位置している。入って突っ切るのが最短ルートだ。避けて通ることもできなくはないけれど、そんなことをやっている時点で思いっきり公園を意識してしまっているため、あまり意味はない。だからあたしはせめてもの抵抗に、何に対して抵抗しているかはわからないが、早足でその公園を通り抜ける。

 遊具は少なく、小さめのブランコと滑り台、それから砂場があるだけだった。周りにはたくさんの木が生い茂っていて、夜闇にはやや不気味に映える。全体の広さも大したものではなくて、ただ通過するだけなら一分とかからない。

 あたしはもう、早くここを出て家に帰り着くことしか考えていなかったから、ベンチに誰かが座っているということにも気がつかなかった。

「どうしたんだよ、そんなに急いで」

 軽薄そうな笑いを伴った声があたしを呼び止める、それを聞いた身体がびくりと反応した。声の主は男、突然のことにあたしは気が動転して、振り向きもせずにそのまま駆け出してしまった。出口までは大股で十歩もない。大声を出そうかどうしようかと、そんな性急な判断をくだそうとしたそのとき、後ろから焦ったように「榎井」と呼ぶ声が聞こえた。

 あたしはそれで我に返る。声の主は、どう考えても知っている男に違いなかった。足を止め、ゆっくりと振り返りながら「相良?」と問いかけるように呟く。

 相良はベンチから立ち上がって、こちらに向けて中途半端に右手を伸ばしていた。それは咄嗟の反応で、彼からしてみれば特に意味があるものではないだろう。だけど、あたしは不意に思いつく、相良の目からはあたしが、駆け足でどこか遠くに逃げていってしまうみたいに見えたんじゃないだろうか(まあ、実際にそうだったわけだけど)。それを感じて、彼は思わず右手を伸ばした。遅れてあたしの名前を呼んだ。どちらも、あたしが祐斗に対して、できなかったことだ。したからといって、何が変わったとも思えないけれど。

「何、逃げてんだよ」呆れたように笑いながら、相良は言った。「最近見なかったけど、もしかして俺、避けられてんのか?」

「自意識過剰。ばっかじゃないの」あたしはさっきまでの自分の行動が急に恥ずかしくなって、押し隠すように強気な態度をとってしまう。「ただ、あんたの声が変質者みたいに聞こえただけ」

「あ、そう。案外怖がりなんだな」相良はこともなげに笑う。「でもおまえ、実際あんまり外に出てないだろ」

「ここ何日かは、そうでもない」あたしは言いながら、ちょっと口ごもる。「あんたに会わないのは、ただの偶然だよ」

「ふうん」スウェットのポケットに手を突っ込んで、相良はそっぽを向いた。「榎井さ、急いでないなら、ちょっと話してかないか」

「え」たぶん少し走ったせいで、脳みそに酸素が回っていなかったんだろう。あたしは上手く考えられなくて、「いいけど」なんて気の抜けた返事をする。

「まあ、ちょっと座れよ」

 相良はいつの間にかベンチに戻って、手招きをしていた。あたしはわざとらしくやれやれと肩をすくめる仕草をして、彼の隣に腰掛けた。

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