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祐斗と出会ったのは、入学当初にできた友人に連れられて参加した、バンドサークルの新歓だった。彼は飲み会の席で隣に腰掛けて、しかし明らかにバンドに興味のない新入生であるあたしを、ほとんど勧誘の対象としてはいなかった。
「つまんなそうな顔してるね」乾杯が済むなり、彼はそんな風に話し掛けてきた。「正直、あんまり来たくなかっただろ」
「ええ、まあ」あたしは苦笑しながら答える。「友達が、一人じゃ不安だって言うから」
ちなみにその友達は、あたしとは離れた席に座って、男の先輩たちに囲まれていた。彼女はまんざらでもなさそうで、きっとこのサークルに入るんじゃないかなと勝手な想像をする。
「まあ、一年生は参加費タダだけどね」ビールに口をつけながら祐斗は言った。「せっかくここにいるんだから、俺と話をしようよ」
あたしは社交辞令の生返事をしながら、彼の顔を初めてまともに見た。その頃の祐斗は髪の毛を赤っぽい色に染めていて、幾らか気取った風に見えた。けれど上品さがあって、顔立ちは整っているし、何よりあたしの好みだった。それであたしは少しだけ、この人と話をするのも悪くないかなという気になる。
「君、名前は?」と彼は訊ねてきた。「俺は野田、野田祐斗。法学部三年」
「榎井桜子です。学部は法だから、同じですね」あたしはとっておきの微笑を浮かべる。「好きな楽器はピアノかな」
「ピアノのメンバーがいるロックバンドもある」彼は冗談っぽく言った。「ちなみに俺は、モーガン・フリーマンが好きだよ」
「誰ですか、ピアノ奏者?」とあたしは訊く。
「いや、映画俳優」彼はけらけらと笑った。
「何それ」あたしも、敬語を忘れて思わず吹き出す。「全然、関係ないじゃない」
「君のピアノ好き宣言が、唐突だったからさ」祐斗は楽しそうに言った。「俺もいきなり、宣言してみたんだよ」
そんな挨拶でなんとなく、あたし達は打ち解けた風になった。彼は自分のサークルについてはまったく喋らないで、他愛もない世間話ばかりをした。あたしもあたしで、バンドサークルの方にはやっぱり興味がなかったので、彼のそういう振舞いは好ましく感じられた。
飲み会が終わる頃に、祐斗とあたしはごく普通にメールアドレスを交換して、それで別れた。次に会う約束も、サークル入会への誘いもなかった。あたしは祐斗に好感を持ってはいたけれど、それだけだった。この先、大学構内ですれ違うことくらいはあるかもしれないが、それにしたって軽く挨拶をして終わりだろうなと思っていた。
そしてもちろん、現実にはそうではなかった。どうしてそうなったのか、あるいはならなかったのかといえば、理由は幾つもあるだろう。たぶん初めに会ったときから、あたし達はお互いのことがなんとなく気になってはいたのだし、同じ学部だったために、どこかで偶然ばったり会う可能性も高くはあったはずで、そういうことが実際に何度かあった。学年も違えば所属サークルも違う(結局あたしは、いわゆるオールラウンド系のサークルに入った)あたしと祐斗は、そうやって少しずつ、まずはメールを交換し合うようになり、それから時には二人でお昼を食べたりするようになる、といった具合に距離を縮めた。
付き合うようになるまでには、大して時間はかからなかった。話をしていると楽しいし、彼の紹介してくれる映画や音楽は、どれも趣味が良かった。あたし達はとても気が合うように思えた。おまけに彼は優しかった。なんというか、気遣いの仕方が心地良いのだ。これもあるいは、気が合うということなのかもしれない。ともかく、あたしはあっという間に彼に惹かれていったし、彼のほうもきっとそうなんだろうと楽観的に考えることができた。付き合い始める前、それから付き合い始めてしばらく経つまで、あたしは彼と最高に相性がいいと思っていた。そしてその期間というのが、あたしが彼のことを、ちょっと取り返しがつかないくらい好きになってしまうには、十分すぎる時間だったということだ。
「…………」
あたしは、自分の口が半開きになっていることに気がついた。傍から見たら、きっととんでもなく間抜けな顔をしていたに違いない。今は授業中だから、見られるのは先生くらいのものだけど。
一週間ぶりに家を出て学校へ来てみたは良いが、やっぱり駄目だったみたいだ。ちょっとでも気を抜けば、気を抜かなくても何かのきっかけがあれば、あたしは祐斗のことを考えてしまう。それで、他の事は何も手につかなくなってしまう。胸が苦しくなるし、涙が出るときもある。なんて言い方をすれば恋する乙女みたいで可愛らしいけれど、あたしの場合は恋破れた女なのであって、どっちかといえば単にみっともない。でも当然そんな風に自分を客観視しようとしてみたところで、あたしの気分が変わったりはしない。そんなこんなで、あたしはすっかり行き詰まってしまっていた。
はっきり言って、祐斗のことを恨んでいる。
逆恨みという言葉があるということは知っていたけど、これがまさしくそうなのだな、と一昨日になってわかった。彼の立場になって考えてみれば、わざとあたしのことを傷つけようとしたとか、それでなくても不義理な態度をとったというようなことは、ないはずだ。むしろ祐斗は、良い彼氏だったとさえいえるのかもしれない。彼は、自分にできることを自分にできる範囲で、誠実にやろうとしていた。それができなくなってしまったのは、彼が無責任だからでも度を越して弱いからでもなくて、あたしに対してそこまで力を割くことに耐え切れなくなってしまったという、ただそれだけのことだ。それだけの。あたしが祐斗の無関心に耐え切れなかったのと同じように。そしてだからこそ、これはどうしようもないことだ、ということが、理屈ではわかる。あれだけ考えたのだから、わかりすぎるくらいにわかっている。
でも、納得ができない。どこにも悪いヤツがいないのに誰も悪いことをしていないのに、それでもあたしがこんなに辛い悲しい苦しい寒い思いをしているという、その現実にどうしても納得がいかない。誰かのせいにしなくては、とてもじゃないけど正気でいられそうになかった。祐斗はきっとあたしのことを騙すために近づいてきて、ついにその目的を達成したんだとか、そんな馬鹿馬鹿しい考えに本気で縋りつこうとする自分がいる。
「それでは、今日の講義はこの辺にしましょう」と教授が言うのが聞こえた。「皆さん、また来週」
チャイムが鳴るにはまだ五分ほどあったけれど、それで講義はおしまいになったようだ。周囲の学生たちがばらばらと席を立って、大教室を出て行く。あたしもそれに倣って、重い腰を上げた。
地上への階段を上りながら、携帯電話を開く。今日わざわざ家を出てきたのは、自発的な意思ではなくて、晴美からメールで呼び出しを受けたためだった。講義が終わったら一緒に食事をしようよという彼女の誘いを、初めは断ろうとしたけれど、幾度にも渡る熱心なアプローチと、真摯な心遣い(彼女はあたしを学校で見かけないといって心配してくれた)に折れた。それに、こうして誘われてみるまではあまり自覚していなかったけれど、あたしは強い人恋しさを感じてもいたらしい。外に出て歩いたり誰かと話をしたりする元気なんてないよと思っていたはずが、いざ待ち合わせの駅へ向かうときには、久しぶりに胸が躍った。
「エノちゃん、久しぶり」
晴美はあたしを見るなり、笑顔で手を振ってくる。一瞬、躊躇うような表情を見せたのは、きっと「元気だった?」とか、そんなことを訊こうとしてやめたんだろう。顔を見れば、あたしの状態が普通でないのはわかる。
「誘ってくれて、ありがとね」とあたしはお礼を言った。「久しぶりに外に出たよ」
彼女はただ優しげな笑みを浮かべて、小さく頷く。そんな仕草の一つ一つが嬉しくて、あたしはそれだけで泣きそうになる。
あたしはまだ誰にも、祐斗と別れた、という話をしていなかった。この一週間、ほとんど表に出ていないのだから当たり前といえば当たり前だけど、それ以上にあたしは、このことを誰かに話すのが怖かったのだ。話してしまえば、あたしと祐斗が別れたことはいわば周知の事実になって、取り返しのつかないものになってしまうような気がした。現実的にはもちろん、もうあたし達の関係は取り返しがつかないと思う。いや、たぶんこんなのって、取り返しがつくとかつかないとか、そういう問題でさえないんだろう。でも、そんなことはどうだっていい。そうじゃなくて、あたしと祐斗が上手くいかなかったという事実が、あちこちに広まって染み渡っていくのが、あたしには何故だか、ものすごく耐え難いことに思えるのだ。
でも今日、晴美の顔を見て、話そうとあたしは決めた。たぶんずっと、話したいと思ってはいたはずだ。
「あのさ、変なこと言ってもいい?」
あたし達は、駅の近くにある居酒屋兼レストラン、みたいなお店にやってきていた。二人掛けのテーブルで注文を済ませて、ちょっと気詰まりな沈黙があったあとで、あたしが口を開いた。
「変なことっていうか、今日、さっきまで考えてたこと」
「なに?」晴美はゆっくりと首を傾げる。
「映画とか、小説のことなんだけどね」とあたしは話を始めた。「ああいうのって必ず、どこかに終わりがあるじゃん」
「うん、そうだね」晴美はちょっとおかしそうに笑った。「終わらなかったら困るよ」
「でさ、まあみんな死んじゃうようなお話だったら別だけど、大抵の場合、ストーリーが終わっても、登場人物は生きてるよね」おしぼりで手を拭きながら、あたしは言う。「あれってずるいと思わない?」
「ずるい?」正面の彼女は不思議そうな顔をした。
「ずるいよ。だってさ、お話って綺麗に終わるでしょ」
「うーん、まあ、そういうのが多いかも」晴美は水を一口飲む。「綺麗に終わらない話って、なんかもやもやするしね」
「たとえば、この先何があってもやっていけると思った、みたいなことを言うやつがいるじゃない」あたしもつられて一口飲んだ。「小説の地の文とかでね、それも、終わりのほうで」
「いるの?」困ったみたいに笑って、晴美は言う。「ちょっと、よくわからないけど」
「いるんだよ。でもそういうのって、実際たまに思うこと、あるよね。これさえあればずっと幸せとか、もうこれ以上あたしは迷わない、とかさ」
「それはちょっとあるかも」
「でもね絶対、そんなの勘違いなんだって」あたしは熱弁する。「自分が何かを乗り越えて成長したと思ったって、どうせまた辛いことはやってくるし、それでやってきた辛いことは、やっぱりものすごく辛いんだよ」
「まあ、それはそうだよね」晴美は相槌っぽく頷いた。
「その、希望のところで終わるお話が多いのが、ずるいと思うわけ。あたしは」運ばれてきたカクテルをくいっとやりながら、あたしは言った。「だってあれじゃあ、その希望が永遠に続くんじゃないかって、思っちゃうじゃない。現実って、そんなに都合よくできてるわけじゃないのに」
そこで、晴美が答えに詰まるのがわかった。
彼女はたぶん、あたしに何があったのかを察している。今日こうして誘ってくれたのだって、そんなあたしを励まそうとか、いつでも力になるよって言おうとか、そういう優しい意図があってのことに違いない。でも、彼女はどうやって話を切り出せばいいのかわからなくて、タイミングを見計らっているのだ。今ここで「何か辛いことがあったの?」と訊いていいものかと、迷っている。
だからあたしは、答えることにした。
「よくわかったね」と深く頷く。「すごく辛いことがあって、今も気を抜いたら泣きそう」
彼女は一瞬ぽかんとした顔をして、でもすぐに照れたような笑顔になった。「ばればれだったね」と言いながら、それは今のシチュエーションにはそぐわないかもしれないけれど、とても魅力的な表情に見えた。
その表情を見つめながら、あたしは口を開く。
「もう、一週間くらい前なんだけど」自然、視線が落ちた。「祐斗と別れた」
あんまり暗い言い方にならないように気をつけたつもりだけど、無理だったかもしれない。「振られた」と言わなかったのが、せめてもの意地だ。
「うん……」どんな返事をすればいいかわからなかったんだろう、晴美は笑みを消して、俯いた。「そっか」
「一週間、ずっと泣いてたよ」あたしはわざと、軽く笑った。「いくら泣いても、飽きないもんだね。泣いてすっきりする、なんてのもなかった。ただ、疲れて寝ちゃうだけで」
「うん」晴美は辛そうに声を出す。
「不思議だよね。もう無理だって、どうやったって元通りになんかならないって、わかってるんだよ。なのにどうして、こんなに悲しくて、辛いんだろうね。泣いても泣いても気分が晴れないし、考えても考えても祐斗のこと、諦められなくって、頭から離れないんだよ」早くもアルコールが回ってきたんだろうか、あたしの舌はかなりの勢いで滑らかになっていく。「ねえ、どうしてだと思う? あたしもう、祐斗のことが嫌い。だってあたしに、こんなに辛い思いをさせてるんだよ。こんな思いをするくらいなら会わなきゃ良かったし、そもそも生まれてなんかこなきゃ良かったって、本気で思うよ。嫌いにならなきゃ、やってらんない。なのに、そのはずなのに、あたし考えてるんだよ。今でも毎晩考えてる。ほんとに不思議だよね、何でだと思う? もし祐斗が考え直してくれるんだったら他には何もいらないし何だってするって、本気で思う。そんなことばっかり考えてるよ。ありえないってわかってるけど、でも携帯が震えたら祐斗かなって思うし、当たり前だけど違ってて、そのたびにすごい落ち込むんだよ。馬鹿だよねあたし、自分でもわかってるよ馬鹿だって。でも、馬鹿だから何なわけ? あたしが馬鹿だってわかったら、そのことであたしが救われるの? 全然、そんなことない。もうね、どうしようもないよ」
言ってる途中で、あたしは泣き出した。すると一緒になって晴美も泣き出した。
「エノちゃん、エノちゃん」あたしのことを呼んで彼女は泣く。「エノちゃん……」
「ごめん」ぼろぼろと涙をこぼしながらあたしは言う。「晴美のこと、泣かすつもりじゃなかったんだけど」
晴美はそれを聞いて、ふるふると頭を振った。
「私の方こそ、ごめんね」と彼女は言う。「なんにもできなくて、ごめんね」
あたしは泣きながら、少しだけ笑った。
「晴美、あたしのこと心配してくれてるんでしょう」と励ますように言う。「それで十分だよ。それだけで、割と救われるよ」
「うん」それでも彼女は泣くのをやめなかった。「ありがとう」
「なんか、晴美のほうが落ち込んでるみたいだよ」あたしはおかしくて、さらに笑った。「ほら、元気だして」
晴美はそれでぎこちなく笑う。片手で目を擦って、俯き加減のままで。
「エノちゃん、彼氏さんが好きなんだね。きっとすごく、好きなんだろうね」涙混じりの明るい声を、彼女は発した。「嫌いになったりしたら、勿体ないよ」
「……ほんとはさ、嫌いになんか、なれるわけないんだよ」あたしはすんなりと答える。「そんなに融通の利く女だったら、もっと上手にやれてるはずだもん」
晴美は、たぶんアルコールのせいだろう、顔を赤くして何度も頷いた。「私、今日は朝まで付き合うよ」なんて似合わないことまで言い始めている。
「馬鹿だよねえ」あたしはなんとなく、しみじみとした口調でそんなことを言った。「あたし達ってどうしてこんなに、馬鹿なんだろうね」
勝手に晴美も仲間にしてしまったけれど、彼女は不平を言う様子もない。頬を赤くして、目を潤ませた切なげな表情で、こちらをじっと見つめている。あたしが男だったら惚れてるな、とそんな妄想が始まりそうになる気配でも察したのだろうか、彼女は突然口を開いた。
「坊やだからさー!」
晴美は自棄っぽく、どこかで聞いたようなセリフを叫んで、涙も乾かないままキャハハと笑った。まだ、一杯目のグラスが空になったばかりだった。
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