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もしもあのとき、あたしがちょっと我慢をきかせていられたら、結果は違っていたんだろうか。もちろんそんな考え方に意味はないし、本当のところ正しくもないんだろう。きっかけは所詮きっかけに過ぎなくて、起こるべきことは起こるべくして起こる。でも、理屈ではそうとわかっていたとしても、あたしは考えずにいられない。
一体どうしてあたしはまた性懲りもなく、あんな馬鹿なことを言ってしまったんだ?
*
人気のない、夜の公園だった。あたし達は隣り合って、ベンチに腰掛けている。デートが終わって、これからあたしの家へ戻ろうかというところだった。少なくとも、あたしはそう思っていた。きっと祐斗は泊まっていくだろうと考えて、昨日のうちに念入りな掃除もした。
雲行きが怪しくなったのは、彼の携帯に電話が掛かってきたときだ。あたしと一緒にベンチに座っていた彼は、その電話を取って、立ち上がって話し始めた。きっとバンドのメンバーだろうと思って、あたしはつまらない気持ちになる。普通、彼女とデートしてるときに、電話に出るか? そう考えると、何日か前の祐斗の言葉が蘇ってきた。「俺にだって、俺の都合があるんだ」。そうだ、祐斗にはあたしより大事なものがあるんだ。今こうして隣にいて、あたしは祐斗のことで頭がいっぱいでも、彼のほうは全然違うことを考えているかもしれない。いや、きっと考えている。今度のライブのセットリストはどうしよう、なんてことを。
そうして祐斗が電話を終える頃には、あたしは疑心暗鬼の塊になっていた。明るい声で「いやあ、ごめんごめん」と謝る彼に向かって、あたしは訊ねる。「電話、誰から?」
「
「ふうん」あたしは思いっきり、悪意をこめて言う。「しょうがないよね。あたしより、そっちのほうが大事なんだもんね」
それでようやく、祐斗の顔から楽天的な色が抜けた。「いや、俺はそんなつもりじゃ」
「いいんだよ。祐斗がどんなつもりかなんて、どうだってさ」自分でも嫌になるくらい、嫌みったらしい声が出る。「自然なことだもんね。祐斗があたしのこと、どうでもいいって思うのは」
「桜子、本気で言ってるのか?」彼は少し、怒ったみたいだった。あたしにはそれがどうしてなのか、理解できない。「どうでもいいなんて、思ってない」
「わからない?」あたしは軽く笑ってみせた。「あたしにとっては、思ってるのと一緒なの」
「ああ、わからないよ」祐斗は強い口調で答える。「俺には桜子のことがわからない。ずっと、そう言ってきたはずだ」
確かにそうだ、とあたしは思う。彼は一貫して、あたしのことがわからないと言い続けてきた。でも、「でも、わかりたいって、言ってくれてたよね」不機嫌な態度を取りながらも、すがるような気持ちで、あたしはそう口にしていた。「あれは嘘だったの? やっぱりあたしのことなんて、どうでもいいの?」
「嘘じゃないし、どうでもよくなんかない」今までだったら優しく掛けてくれていたであろうそのセリフを、祐斗は吐き捨てるように言う。「それでもわからないものはわからないし、気にならないものは気にならない」
「だからそれが、あたしのことをどうでもいいって思ってるってことなんだって」いつの間にか立ち上がったあたしは、自分の言っていることの意味もろくに考えないまま、ただ饒舌になっていく。「そりゃ、確かに祐斗が普段何を考えてるかなんて、祐斗の自由だよ。付き合ってるからって、いつでもあたしのことを一番に考えなきゃいけないなんて、法律で定められてるわけでもないし。でも、あたしはそれが悲しいんだよ。わからない? 本当に、わからないの? 祐斗は自然に、何の気負いもなく、それをどうでもいいと思って仕方ないと言えるのかもしれないけど、それでもあたしは悲しいんだよ、すごくすごく悲しい。毎晩、馬鹿みたいに泣きじゃくって、こんなのがずっと続くくらいなら死んだほうがましだって思えてきて、でもやっぱりあなたのことが好きだから、ずっと一緒にいたいんだよ。離れるなんて考えられない。そんなことが起きるなら、それこそあたしは死んじゃいたいけど、あたしが死んでもあなたは生きてて、あなただってそりゃあ少しはショックも受けるだろうけどそのうち、たぶん一ヶ月もすれば立ち直って、別の誰かと幸せな人生を送るんだろうなって思ったら、とてもじゃないけど死ねない。ねえ、あたしの言ってることがわかる? やっぱり、わからないよね。でも、これが全然わかってもらえないんだったら、あたしもう駄目だよ。もうこれ以上耐えられない。こんなに辛い思いばかりして、生きていくのに耐えられない」
そこまで言って、もちろんとっくに喋った内容は頭から抜け落ちていて、でもすごく身体が熱くて、頭の中もぐるぐるで、だからあたしは肩で息をしている。そんなあたしを祐斗は見つめて、なんだかすごく苦しそうな表情をしているように、見えた。
しばらく、無言のまま、二人そこで立ち尽くす。時間は随分と長く感じられた。実際、長かったんだろう。徐々に火照りは収まって、呼吸も整ってきた。それであたしは何度か口を開こうとしたけれど、何を言えばいいのかわからない。それに、今にも祐斗が喋りだしそうな気もしていた。だからあたしは待つ。夜は暗くて、そのことに気がついたあたしは、急に心細いような感じに襲われる。世界中にあたし達二人だけしかいなくて、目の前にかろうじて見えている祐斗は今まさにあたしを置き去りにして行こうとしているんじゃないか、なんて場違いなイメージまで浮かんできた。
たぶん、それは現実逃避だったんじゃないかと思う。死刑執行十秒前、ギロチン台に掛けられた囚人は、案外どうでもいいような空想をしているんじゃないだろうか、なんて。
「やっぱり、もう無理だ。ごめん」やがて祐斗は、意を決したようにそう告げた。「別れよう、桜子」
瞬間、拳銃で撃たれたらこんな感じなのかもしれない、胸がきゅうっと締め付けられたみたいになった。息をするのが難しくなって、すぐには何も言えない。涙が出ると思ったけれど、目は乾いたままだった。代わりに、心拍数が上がって、いったんは冷えた身体が、どんどん熱くなってくる。あたしはただ苦しくて、それでも何か言いたくて言わなきゃいけない気がして、鯉みたいに口をぱくぱくさせることしかできなかった。
「俺にはやっぱり、桜子のこと、あんまりわからないけど」祐斗は俯いて、やっと聞き取れるくらいの低い声で呟いた。「それでも、俺と付き合ってて、桜子が幸せじゃないのはわかる」
「違う」あたしは反射的に叫んだ。「あたしは祐斗と別れたくない」
「でも、耐えられないって言ってる」と祐斗は続ける。「たぶん、それが本心なんだろうって、聞いてて思ったよ。でも、そう聞いたところで、きっと俺は変われない。この先も、おまえのこと、苦しめ続けるだけだよ」
「それでもいいよ」気がつくと、あたしは必死になっている。「祐斗と別れるくらいだったら、全部我慢する」
「駄目だよ、もう駄目だ」祐斗は、その整った顔をくしゃくしゃに歪めた。「俺のほうが耐えられない」
それを見たあたしは不意に、寒い、と思った。寒い、すごく寒い。身体が熱くなった代わり、気温が突然、ものすごく低くなったみたいに感じた。身体ががたがたと震えていることを、遅れて自覚する。
「祐斗がもしずっと変わらなくても、わかりたいって、そう言ってくれるんだったら、あたし大丈夫だよ」声を揺らしながら、途切れさせながら、あたしは喋る。「辛いけど、たまに耐えられなくなるけど、それでも別れるよりはましだから。あたし、我慢する。ううん、我慢したいの。だから、させてよ。お願いだよ」
祐斗は下を向いたまま、ゆっくりと首を左右に振った。
「あのさ、桜子」彼は少し顔を上げて、唇をわななかせる。「俺、自分でもびっくりしてるんだけどさ、今ちょっとせいせいしてるんだよ」
寒くて、あんまりにも寒すぎて、腕で自分を抱きしめるみたいにして、あたしはその場に座り込む。
「桜子のこと好きで、別れたくないって確かに思ってたけど、やっぱり桜子が俺のことで辛くなって怒ったりすると、かなり嫌な気分になった。俺、何か悪いことしたかよって、いつも思ってたよ、言わなかったけど。でも別れたくはないから、ちゃんと話を聞こうと思って、そうしてたつもり。自分なりには、桜子の望んでることに応えようと、努力だってしたつもりだよ。足りなかったんだろうし、わからなかったんだろうけどさ。それでも別れたくないなら、俺はもっと努力をするべきなんだろう、って思うよ。でも、駄目だ。俺のほうはもう、頑張れない。自分でそう認めてみたら、すごく楽になったんだ。だから、ごめん桜子」
あたしは、彼の言葉が途中から、もうほとんど理解できなくなっていた。何を言っているのかなんて、わかりたくなかった。これって現実なのかな、夢じゃないのかな。そう、とびっきりタチの悪い夢。もう少ししたらベッドの上で目が覚めて、いつもの通りすっきりした気分で、ひょっとすると横には祐斗が寝てて、何事もなかったかのように幸せな朝が迎えられる。しゃがみ込んで、寒くて凍えながら、あたしはそんな想像に夢中になった。だってそうだ、こんなことが起きるわけがない。こんな、あたしの存在そのものを丸ごと否定してしまうみたいな出来事が、起こっていいわけがない。
でもあたしはいつまで経っても目が覚めないし、寒気はなくなるどころかひどくなる一方だし、誰も助けてはくれないし、やっぱりこれは夢だよと思いたい気持ちがなくならなくて、身動きがとれなかった。こんなとき、あたしは一体どうしたらいいんだろう? いっそ涙が出てくれたら、みっともないくらい暴れて、近所の迷惑なんて考えずに喚き散らして、祐斗にすがりつけたかもしれない。なのに泣けない。あんなに簡単にこぼしていたはずの涙が、溢れて出てこない。どこに行っちゃったんだあたしの涙、ってこんなのは現実逃避だ、あたしが今考えるべきなのは涙のことなんかじゃない。そう思うんだけど、そう思うだけで他には何も考えられない。しゃがんで丸く小さくなって、じっと公園の地面を見つめている。砂粒の一つ一つに目を奪われて、それらが今にも動き出しそうな予感にとらわれる。
その間、祐斗は一言も発しなかった。何の音もしないから、たぶんその場から動いていないんだろうと想像がつく。あたしが何か言うのを待っているんだろうか。何を?「もう帰っていいよ」とでも言えばいいのか? 馬鹿げてる。それとも立ち上がって、何事もなかったかのようににこやかに、「じゃあ家に戻ろうか」なんて言うのがいいんだろうか? その考えは少しだけ魅力的だったけど、とてもじゃないがあたしの表情筋が許してくれそうにない。そんな風に考えていると、「桜子」と祐斗の声が上から聞こえた。
「桜子、大丈夫か?」それはいつも通りの、優しい声音だった。「具合、悪いんじゃないのか?」
そんなことを言われてもあたしは何も言えない。大丈夫って答えるとでも思ったんだろうか。寒くて仕方ないのだ、あたしは。「おかしいよ」まともに動かない脳みその代わりに、口が喋る。「祐斗、こんなのっておかしいよ」
「俺にとっては、これが自然なんだ」祐斗は苦しそうに、でもどこか清々しささえ感じさせる断定調で、言った。「誰がなんと言おうが、もう変わらない」
どくん、どくんと鼓動が跳ねる。身体のあちこちを、熱い血が駆け巡っているのがわかる。あたしの身体は、頭よりもはるかによく、現状を把握しているみたいだ。一つずつ確実に、見事なくらいの着実さで、望みが絶たれていく。いや、実際には最初から望みなんてなかったのかもしれない。そのことを認められないあたしが、ただみっともなくも足掻いているだけなのかもしれない。だけど、それでも、どんなに無駄でもみじめでも、思いついたこと口にできることは、片端から言わなければこの場を動けない。熱くなる身体は、そう主張しているように思えた。
「あたしが鬱陶しくなったんでしょ」あたしは祐斗の顔を見ず、こぼすように言う。「大企業に内定もらって、これから出会いもいっぱいで、そんなときにあたしみたいな彼女がいたら、邪魔なんでしょう」
「そんなんじゃない」祐斗は静かに答えた。「ただ桜子と付き合ってるのが辛くなっただけだ」
「でも、どうせあなたは、他に彼女を作るよ」あたしはごく自覚的に、祐斗の罪悪感をつつこうとしている。そんな自分が信じられなくておぞましくて、でも同時に冷え冷えとした、被虐的な喜びもどこかにはあった。「祐斗は格好いいし、頭もいい。ベースだって上手で、すごく優しい。だから女の子にもてる」
「それはそうかもな」声はこれっぽっちも動じていないように聞こえた。「俺がもてるかどうかは別として、いずれ他に彼女を作るだろうっていうのは、否定しない」
「意味わかってる、祐斗? ねえ、あなた他の女と付き合うために、あたしと別れるんだよ」
「そういう言い方をすれば、そうだね」あたしが言いながら自分でびっくりするような言葉にも、祐斗は平気で応じる。「俺にそんなつもりはなくても、桜子がそう考えるなら、そういうことになる」
「それでいいの? そんなんで、平気なの?」
「よくもないし平気でもない。でも、仕方がない。俺はこれ以上桜子と付き合う気はない。だからそのことで、君に何を言われてもどうしようもない」
祐斗の言葉が途切れると、やってくるのは静けさではなくて、耳の辺りをごうごうと走る血の音だった。身体が精一杯、生きているってことを訴えているみたいだ。あたしの心が死にそうなのを見て、励ましてくれているのかもしれない。
「桜子、泣かないんだな」祐斗はぽつりと呟いた。「俺、もう行くよ」
行かないで、とあたしは叫ばなかった。そんな力は、あたしの心のどこにも、もう残ってはいなかった。公園の地面に手をついて爪を立てて、ただ土を掴む。
「今までごめん。でも、楽しかったよ。ありがとう」
言って、彼が後ろを振り返る音が聞こえた。そのまま一歩、二歩と歩いていく。あたしは声を掛ける勇気も顔を上げる元気も出せないで、ただずっと土を掴んでいた。祐斗の足音は、途切れることなく続いて、やがて聞こえなくなった。
それから少しして、涙がようやく一筋、流れた。地面に突き立てた指先から、真っ赤な血が滲み始めた頃だった。
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