4

 

「桜子、それは自分勝手だよ」

 祐斗の声が遠く聞こえた。電話の調子が悪いのか、あたしの耳がおかしくなったのかはわからない。

「そうかな」自分の声も、どこか知らないところから聞こえてくる気がする。「あたしって、自分勝手かな」

「俺にだって、俺の都合があるんだ」祐斗は珍しく強い口調だった。「そんなにいつも、桜子のことばかり考えているってわけには、いかない」

 ひょっとして聞き間違いなんじゃないか、あたしは一瞬、本気でそう思った。確かに今まで、祐斗にむかって「あたしのことなんかどうだっていいんでしょ」なんて言ってみたことはある。何度もある。だけど、それに対して祐斗はいつでも必死になって、「そんなことないよ」とか「俺は桜子が大事だよ」とか、否定するようなことを言ってくれた。

 それが、今は違う。

「あのさ、俺と桜子は確かに付き合っているよ。俺は桜子のこと、好きだよ」彼の声からは、どこか決然とした響きさえ感じ取れた。「でもそれって、いつでもどこでもお互いのことを考えてなくちゃいけないとか、そういうことじゃないだろ」

「わかんないよ」携帯を耳に当てたまま、あたしは首を左右に振る。「何言ってるのか、全然わかんない」

「どうしてだよ」祐斗は少し、声のトーンを落とした。「俺は、桜子が何を考えているのかが、わからないよ」

「あたし、祐斗が好き」

 何を考えているのかと訊かれて、条件反射みたいにあたしは答える。言葉は続けて、すらすらと出てきた。

「好きだから、いつも祐斗のことを考えてるし、できればいつでも一緒にいたい。祐斗がそうじゃないんだったら、すごく悲しい。ねえ、あたしの考えてることって、おかしい? 普通じゃない? やっぱり、自分勝手かな? でもねあたし、祐斗のことを困らせたいとか、そんな風に思ってるわけじゃないんだよ。ただ自然に、あなたのことが好きなだけなんだよ」

 もう、頭はほとんど働いていなかった。口が勝手に、あたしがもしかしたら考えたいのかもしれないことを、喋っていた。

 受話器の向こうで、祐斗が考え込むのがわかった。何を考えているんだろう、考えようとしたけれど、どうしても上手くいかない。そのうち、彼が声を発した。

「桜子にとっては、それが自然なんだろうね。でも俺は、そうじゃないみたいなんだ。残念なことに」

 聞き間違いならどんなにいいだろう、とあたしは思った。

「桜子、ごめん。こんなこと言っても仕方ないし、聞きたくもないかもしれないけど、本当にごめん」

 いつの間にか、祐斗の声は絞り出すような響きを伴っている。ともすれば、泣き出しそうなくらいだ。どうしてそんな声なんだよ泣きたいのはこっちのほうなのに、と思っていたら、「出番なのに忘れていました」というみたいに涙が流れ始めた。

 最近泣いてばかりだな、とそんなことをあたしは考える。

「祐斗、あたしと別れるの?」

 二日前に晴美と話したからだろうか、その言葉を口にするのに、不思議と躊躇はなかった。嫌だ別れたくない、と叫んだっておかしくないのにと頭では考えながら、あたしはただ泣きじゃくっている。

「そうじゃないよ」と祐斗は言った。「そんなんじゃない」

 そんなんじゃないというのは、あたしと別れたいわけじゃないという意味だ。そうわかって、あたしはまず安心した。安心したら、中くらいだったあたしの泣き加減は、さらに大袈裟なものになってしまった。

「別れたくないよ」結局、泣き叫ぶみたいにしてあたしは言う。「祐斗と別れたくない」

「俺だって、別れたくない」祐斗はそれで、少し笑ったみたいだった。「でも桜子、俺の言ってる意味、わかった?」

 あたしは泣きながらうんうんと頷いた。何も考えてなんかいなかった。ただ祐斗がわかってほしそうだったから、頷いた。そうしていれば、きっとあたし達はいつまでも別れないでいられる。

 そんな風に、思っていたんだろうか。

「それじゃ、もう遅いから」と祐斗。「切るよ」

「うん」あたしは洟をぐずぐずとやりながら、素直に応じる。「おやすみ」

 祐斗のおやすみが聞こえて、通話は終わった。ティッシュで洟をかんで、涙を拭いた。それからあたしは、あらかじめ決めておいたとおり、お風呂に入ることにする。

 洗面所で服を脱ぎながら、あたしはようやくまともな思考を取り戻しつつあった。そして、さっきの祐斗の言葉を、その言わんとしていたところを反芻する。

 ガラス戸を開けてお風呂場の鏡を見ると、目が赤く腫れている。あたしはシャワーの熱湯で、それを塗り潰した。

 祐斗が言っていたのは要するに、「あたしのことなんかどうだっていいんでしょ」に対する、消極的な肯定だった。もちろんどうでもいいとまでは言わないけれど、こちらの思っているほどに望んでいるほどに、あたしのことを欲しているわけじゃない。彼はそのことを、なるべく傷つけないやり方であたしに伝えようとしていたのだ。

 泣くな、とあたしは思った。思うだけじゃなく、実際に口にしたかもしれない。お風呂場の窓が開きっぱなしになっていて声が漏れるから(あたしが住んでいるのはアパートの一階だ)、ではない。あたしは祐斗の言葉を、それが意味する現実を、受け止めて我慢しなくちゃいけないということが、わかったからだ。

 今まであたしは、心のどこかでそのことに気がつきながら、でも認めることができずにいた。祐斗が自分のことを気にしてくれないのは、単に彼が鈍いからだとか、女心がわからないからだというように、彼のせいで起きる問題だということにしてしまっていた。そして祐斗のほうも、その図式を受け入れていた。だからあたしの理不尽な要求に彼は謝るし、それを見たあたしは「今度からは気をつけてくれるのではないか」という儚い期待を抱く。

 でも、それじゃ駄目だ。そんな捉え方考え方は、現実的じゃない。あたしは自然な気持ちとして、祐斗のことをほとんど常に求めていられるけれど、彼のほうはそうでもない。相対的にみて、あたしに関心がないのだ。そのことを、しっかりと見据えてやらなくちゃいけない。

「泣くな」今度ははっきり口にした。「泣いちゃ駄目だよ」

 それでもやっぱり、涙は溢れた。流れっぱなしのシャワーのお湯と一緒になって、あたしの頬を伝っていく。

 すると自分が急にみじめに思えてきて、あたしはさらに泣く、泣きじゃくる。彼氏と電話して「おまえのことはどうでもいい」なんて、言われてないけど言われたようなもので、それが悲しくてシャワーを浴びながら泣いている。そんな自分がみっともなくて鬱陶しくて、でも可哀想で仕方がない。窓は開きっぱなしになっているけれど、何もかもどうでもいいような気持ちになったから声を上げて泣いた。子供が泣くみたいに、助けてよ、って訴えるみたいに喚く。誰かに助けてもらいたい、それがあたしの気持ちだった。本当ならもちろん祐斗が優しい言葉をかけてくれて安心できるのが一番だけれど、そんなことは無理なんだあり得ないんだと、わかっていた。だから、誰でもいい。あたしの辛さをわかってくれて受け止めてくれる誰かに、傍にいてもらいたかった。そうでなければあたしが今ここで持て余しているみじめさは、どこへも行くことができない。自分のみじめさに泣いている自分がさらにみじめになって泣く、というサイクルから抜け出すことができない。

「おい」

 だからあたしは最初、窓の外から聞こえるその声は、空耳か何かなんだろうと思った。誰かに助けてもらいたいという願望が、滑稽な白昼夢をもたらしたんだ、と。

「聞こえてんのか?」

 でも、それは自分の願望であるにしては、あまりに悪趣味な気がした。まさかと思いながらも、あたしは声を上げるのをやめて、でも泣くのはやめないで、窓のほうに意識を向けてみる。

「おい、榎井だろ? 声、すげえ漏れてるぞ」聞き覚えのある濁声は、柄にもなく焦っているように感じられた。「とりあえず、泣くなら窓は閉めとけよ。つーか、部屋でやれ」

「相良?」あたしは泣いたまま、窓の外に問い掛ける。「なんでいるの、あんたぁ」

「たまたま、通りがかっただけだ」と相良は答えた。「俺の家、ここから歩いて三分くらいなんだよ」

 そこであたしは、入浴中に窓の外の男友達と喋っている、というシチュエーションの異様さにようやく気がつく。玄関の鍵は締めてあったっけ、なんてことが気になり出した。

「ちょっと、そこから動かないで」あたしは慌てて叫ぶ。「電話するから、待ってて」

 返事も待たず、あたしはシャワーを止めて浴室を出て、大急ぎで身体を拭いて服を着た。ドライヤーで髪を乾かしながら、ベッドの上の携帯を手に取る。アドレス帳から相良の番号を呼び出すと、二コール目で電話が繋がった。

「おい」答えたのはぶっきらぼうな声。「おまえさ、何やってんだよ」

「いやあ」あたしはなんとなく気まずくて、誤魔化すような返事をする。「なんかこう、泣きたくなる夜ってのがあるんだよね」

 言いながらあたしは、自分がもうとっくに泣きやんでいるということに気づく。一体いつの間に、終わったんだろうか。さっきまではあんなに悲しくて、どうやったら涙が止まるかもわからなかったのに。

「どうせまた、男と喧嘩でもしたんだろ」からかうように相良は笑った。「不毛な恋愛だな」

「うるさい馬鹿」

「なんだ、図星かよ」彼は軽い調子で言う。「さっさと別れちまえばいいんだ、そんなやつとは」

「あんたね」あたしはそれに呆れた。「普通そういうこと、言う?」

「さあな」言って、相良はどうでもよさそうに「普通かどうかってことに、興味がないもんで」と答える。

「それ、格好いいと思ってるの?」とあたしが失笑すると、「興味がある、って答えるよりは、ましだろ」と彼はシニカルっぽく笑った。

「ま、どうでもいいけどさ」恐らくは苦笑いを浮かべながら、相良は言う。「どうして、電話なんか掛けてきたんだ?」

「え?」想定外の質問に、あたしは戸惑った。「ごめん、あんまり考えてなかった」

 お風呂場にいたままで話をすることに抵抗があっただけだ。

「なんだよ、そりゃ」と相良は笑う。「じゃあそっちは、特に用があるってわけじゃないんだな」

「そりゃ、まあ」あたしは頷いた。「そもそも、あんたが通りがかったのだって、たまたまなんでしょ」

「コンビニへ行こうと思ってたんだ」訊いてもないのに、相良は答えた。「健康のためにな」

「何それ」あたしは思わず吹き出す。「コンビニと健康って、関係あるの?」

「あのな、この世からコンビニがなくなってみろ。俺なんか、たちどころに栄養失調だよ」相良は偉そうに言う。それがおかしくて、あたしはさらに笑った。「威張るようなことじゃないよ、それ」

「俺は、コンビニの代わりに威張ってるんだよ」彼は平然と答えた。「コンビニはもっと威張ってもいいだろ」

「もう、好きにしたら」馬鹿らしくなってあたしは言う。「コンビニ行っていいよ」

「あ、そう」相良は声を低めた。「榎井、もう大丈夫か?」

 その言い方が思ったよりも親身に聞こえて、あたしは驚く。驚くと同時にくすぐったくなって、「あんたに心配されたくはないね」と、つい突っぱねるような物言いになってしまった。

「おまえさ、自分じゃ気づいてないかもしれないけど、すごい泣きようだったぞ」と相良は続ける。「あれで心配すんなってほうが、無茶な相談だよ」

「あたしは、すぐ泣く女なんだって」と嫌味っぽい返事をした。「あたしが泣くのは、仲良しカップルの痴話喧嘩と同じでね、いちいち心配するようなことじゃないの」

「おまえらのやってるのは、仲良しカップルの痴話喧嘩じゃないと思うけどな」彼はまったくひるむ様子を見せなかった。「とにかく、風呂で泣くのは、もうやめとけ」

「今日はたまたまだよ」あたしは拗ねた子供みたいな口調になる。「もういいって。相良、心配しすぎ。金髪のくせに」

「金髪は関係ないだろうが」相良は半笑いで語気を強めた。「生まれたところや皮膚や目の色で、この俺の何がわかるんだよ」

「あ、そう」わざと気抜けした声を出して、あたしは言う。「どうでもいいけどそれ、髪の色は入ってないよ」

「細かいことを気にするな」

「わかったわかった、金髪は偉いよ。そんじゃ、またね」

 眠くなってきたので、適当なことを言って強引に電話を切ろうとすると、「おい榎井」と鋭い声が割り込んできた。

「何? まだなんかあるの?」

 我ながら勝手だとは思うが、あたしは既に会話が面倒になっていた。だから相当、適当な言い方になったはずだ。そんなあたしに対して、相良は言う。

「おまえ、俺と付き合わないの?」

 それは文脈など糞食らえと言わんばかりの、あまりに唐突な提案だった。咄嗟にはその意味が掴めずに、あたしは「は?」と呟くことしかできない。「何言ってんの?」

「おまえ、俺と付き合わないの?」相良は律儀にも、まったく同じ言葉を繰り返した。「上手くいかない彼氏なんかと別れて、付き合ったらいいのに」

 二度も三度も言われればさすがに何を言っているのかはわかるが、それでもその意図は謎のままだった。いや、意図なんて一つしかないというのはわかるんだけど、この男からこのタイミングで、こんなことを言われるという現実がわからない。はっきり言って、意味不明だ。

「あんた、馬鹿じゃないの?」

 あたしはその言葉を、相良に対して投げかけると同時に、神様ってやつにもぶつけたい気持ちだった。

「ああ、馬鹿なんだろうな。きっと」

 受話器の向こうの相良はそんな風に言って、いつものように小さく笑っている。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る