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待ち合わせの十分前に駅前に着いたのに、晴美は先にやってきていた。噴水の傍のベンチに腰掛けて文庫本を読む彼女は、あたしの接近を察する気配もない。少し長くなってきた細い髪の毛は、弱い陽射しに透き通るようだった。
そのまま歩み寄って「おはよう」なり何なり、声を掛けてもよかったのだけれど、あたしは敢えてそうしないで、彼女がこちらに気がつくのを待ってみることにした。特にこれといった理由はなくて、単なる気まぐれに近い。ただ彼女が本を読むのを、なんとなく邪魔したくなかった。
休日の午前中、駅前の広場は行き交う人でごった返している。あたしは過ぎ行く彼ら彼女らの間で、案山子みたいに突っ立っている。たくさんの人があたしの前を後ろを横切って行く。みんながどこかを目指している。あたしはそういうみんなを見て、人って多いな、なんて思っている。
こういうたくさんの人たち、そのそれぞれに暮らしがあって悩みがあって大事なものがある、なんてことを考えようとすると、あたしはいつでも途方に暮れたような気分になる。辛くて辛くてどうしようもなくて、文字通りの泣き寝入りをしてしまった夜の、次の日だったらなおさらだ。誰にでもそんな経験があるってことを、言葉で理解するのは簡単だけど、本当の意味で実感するのは不可能なんじゃないか、とさえ思う。だって道行く彼らは笑っている。笑ってはいないにしても、あたしから見れば幸せそうな顔をしている。外から見れば、あたしもあんな風に笑えているんだろうか。
「ちょっとエノちゃん、どうしたの?」
声がする、と思ったら目の前に晴美が来ていた。あたしは思わず「うわっ」と声を上げてのけぞる。
「び、びっくりしたぁ」
「それはこっちのセリフだよ」彼女はあたしを見て、呆れたように言った。「すぐ傍まで来てるのに、気がつかないんだもん」
「ごめんごめん」あたしは照れ隠しに笑う。「ちょっと、ぼんやりしてて」
「見たらわかるよ」晴美も楽しそうに笑った。「エノちゃん、自分がどんな顔してたか、知らないでしょ」
「あんまり、知りたくないな」
あたしは言って、晴美と二人、声を上げて笑う。今のあたしは、きっと幸せそうに見えるに違いない。
それからあたし達は当初の予定通り、ちょっと遠くの駅まで電車に乗った。休日の電車が、あたしはなんとなく好きだ。勝手な思い込みかもしれないけど、雰囲気が心地よい。きっと乗っている人たちの気分が緩んでいるからだ、なんて無責任に妄想してみたりする。窓から差し込む春先の日差しも優しくて、とても気分が良かった。晴美も同じようなことを思っていたらしく、「電車は休みに乗るに限るね」なんて言っている。
目当ての駅に到着すると、その先にはこれといってあてがない。だから自然、あたし達が一緒に出掛けるときは大抵いつもそうするように、駅の周りをぶらつきながら買い物をすることになった。
「最近、本を読むようになったんだよね」
お店の建ち並ぶメインストリートを歩きながら、晴美が言った。
「本って、たとえば?」とあたしは訊いてみる。「小説とか?」
「小説もだけど、新書が多いかなあ」晴美は顎に指をやった。「電車の中とか待ち合わせの最中とか、時間を有効に使えてる気がしていいんだ」
「そんな理由で?」あたしはつい吹き出してしまう。「もっと他に、何かないの?」
「いや、まあ、あるんだけどね」
彼女が照れたように微笑むのを見て、あたしの恋愛センサーが敏感に反応した。
「ふふん」あたしは得意げに笑う。「さてはきみ、惚れた男が本好きなのだね」
「エノちゃんは鋭い」晴美は特に隠し立てするでもなく、幸せそうな笑みを浮かべた。「本好きというか、勉強家らしくて」
「どんな人?」他人の恋愛に目がないあたしは(恐らくは瞳を輝かせながら)、すぐに訊ねる。「勉強家ってことは、真面目くん?」
晴美はどちらかといえば大人しい子で、見た目も大人しめだったので、その推測には説得力があるように感じられた。
「エノちゃんも知ってるはずだよ」と彼女はすぐに答える。「去年、相良くんとゼミが一緒だったんだって」
共通の知り合いの名前が出て、あたしはすぐにピンときた。相良と晴美は同じサークルに所属している。そして昨年度のゼミには、二人と同じサークルのメンバーがもう一人いたのだ。
「
「あー、真面目くんって感じじゃないな」あたしは首を傾げて軽く笑う。「でも確かに、彼は格好良い」
鷹架
「でも、あの人ってよくわからないよね」あたしは率直に、思うところを述べた。「つかみ所がない、っていうか」
「うん、そうだね」てっきり嫌な顔をするのではないかと思ったが、晴美は楽しそうに笑った。「でも、勉強は真面目にやっているみたい」
「そうそう」記憶が芋づる式に引き出されてきて、あたしも笑いながら頷く。「うちのゼミに、変なヤツがいてさ」
すると、「鈴木くん!」と晴美がびしっと指を差して言うので驚いた。そういえばあいつはそんな名前だったな、と適当な記憶を手繰る。
「そう、その鈴木に誘われて、よくわかんないサークルに入ってね。相良もよくつるんでた。あたしから見たら、あの三人が一緒にいるのが、まず不思議に見えて仕方なかったんだけど」
言いながら、あたしはそのおかしな三人組について思い出している。相良はどこから見てもヤンキーだし、鈴木はいじめられっ子の小学生みたいだった。そして間に挟まる鷹架くんはというと、お洒落で純粋な、良いとこの坊ちゃんにしか見えない。その三人が仲良さげに話をしているのだから、彼らの関係についてはあたしも気になってはいた。
「でもなんか、いいよね」晴美はにっこりとする。「そういうのって、いいよね」
「え? うん」あたしはよくわからなくて適当に答えた。「そうだね。いいね」
それから彼女は、鷹架くんのいいところ、たとえば顔が格好良いとか背が高いとかちゃらちゃらしていないとか紳士的で優しいとか、をほとんど訊いてもいないのに教えてくれた。その内容の多くは、それくらいちょっと見ればわかる、と思うような話だったけれど、晴美の幸せそうな顔を見ていたら、とてもそんなことを言う気にはなれなかった。
「そうかあ、うん。いいと思うよ」あたしは満足して、大きく頷いた。「晴美と鷹架くん、お似合いだと思う」
「そうかな」晴美は恥ずかしげに、でも嬉しそうに頬を染めた。「上手くいくかな」
「きっと、大丈夫だよ」特に何を思うでもなく、気軽に答える。「晴美、いい子だし。可愛いし」
よく考えての発言ではないけど、本音を言ったつもりだった。晴美は、女のあたしから見ても可愛らしい、可愛らしすぎるくらいに可愛らしい女の子だった。彼女くらい素直で優しくていい子だったら、彼氏にも好かれるんだろうな、と思う。
そこで、自分とは違って、なんて思ってしまうあたしは、きっと可愛くない女だ。
「ん、どうしたの? エノちゃん」晴美が顔を覗き込んでくる。「大丈夫?」
「あ、うん」自分でも、返事が上の空になるのがわかった。「大丈夫だよ」
「なんか、ぼうっとしてるけど」晴美は不安げに言う。「どっかで休もうか?」
あたしはその気遣いが嬉しい反面、少しだけ鬱陶しくもあって、「平気だって」と手を振った。「そんなことより、バッグを見に行こうよ」
晴美はそんなあたしの様子を感じ取ったようで、「うんそうだね」と小さく頷く。
それからしばらく、あたし達はくだらないお喋りに花を咲かせては、色々なお店を訪問し、買い物をしたりしなかったりした。もちろんこの場合、「したり」と「しなかったり」の比率は、後者に大きく偏っている。あたしが買ったのは結局、半額セールをやっていたスカートだけだし、晴美にしても似たようなものだった。
「ねえエノちゃん、お腹空かない?」
彼女が言うのにつられて腕時計を見ると、時刻は午後二時を回っていた。それほど空腹を感じているわけでもなかったけれど、あたしは「もう二時だね」と頷く。
「あそこに、ちょうど良さそうなお店があるよ」と晴美が指差す先には、個人経営の小さなカフェがあった。「ちょっと、ゆっくりしていかない?」
小ぢんまりとしたそのお店に吸い寄せられるようにして、あたし達は入り口のドアを開けた。そうして目に入ってきたのは、外観から受ける印象を裏切らない、落ち着いた店内だった。濃い目の茶色を基調として、食器のホワイトや観葉植物のグリーンがところどころに彩を添える。背の低い女の店員さんがやってきて、小首を傾げながら「二名様でよろしいですか」と訊いてくるから、あたしが「はい」と簡単に答えると、奥の席に通された。
「良いお店だね」椅子に腰掛けながら、晴美が言う。「落ち着く感じ」
「うん……良いね、ここ」あたしは言って、周囲を見渡した。時間が中途半端だからか、お客さんもほとんど入っていない。「あー、なんか疲れたなぁ」
両腕を真っ直ぐにして伸びをすると、背中の辺りに溜まっていた疲労がほぐれた気がした。昨夜、リラックスして眠れなかったのが悪いのだ、と咄嗟に思う。そうすると勝手に昨夜の電話のやりとりが思い出されて、不意に嗚咽が込み上げてきた。あたしは欠伸のふりでそれをやり過ごそうとしたけれど、溜まった涙が目尻から零れてしまう。
「ちょっと、エノちゃん」晴美はぎょっとして言った。「どうしたの、大丈夫? どっか痛いの?」
「ごめん、大丈夫だよ」あたしはそう言おうとしたけれど、うまく言えた自信はない。「どこも痛くない」
心が痛い、なんて陳腐な表現を思いついても、笑えはしなかった。
「大丈夫には見えないよ」晴美は少し冷静になって、でも心配そうに言う。「何かあったの?」
このまま泣き出してしまったら晴美は余計に心配するし、お店にいる他の人たちにも迷惑だし、何よりあたしが嫌な気持ちになる。だけど、川の流れを堰き止めるのが大変であるのと同じように、一度あふれ出した涙はそう簡単に止まるものではない。あたしは俯いて、ぐすんぐすんと洟を啜り始めた。
「ごめんね」ごべんで、に近い発音であたしは言う。「ちょっと、嫌なこと思い出しちゃって」
言いながら、祐斗との会話、すれ違いを思い起こしている。内定貰ったよ。これでバンドに専念できる。彼の言葉のいちいちに、あたしは過敏に反応し、難癖をつける。それで勝手に悲しくなって泣いたりして、さらに今、それを思い出してまた泣いている。どうしようもない女だなあたしは、とそう思うことで、流れる涙はまたその勢いを増した。
「エノちゃん」いつの間にか、晴美はあたしの傍らに立って、肩に手を置いている。「エノちゃん、私なにもできないかもしれないけど、話くらいだったら聞くよ」
「うん」あたしはしゃくりあげながら答えた。「ありがとう」
そうは言ったものの、精神的にも肉体的にも、とてもじゃないが喋れるような状態になかったあたしは、そのまま十分ほど泣き続けることしかできなかった。時計を見たわけじゃないから正確な時間はわからないけれど、たぶん十分くらいだろう。そうだと思いたい。晴美はその間、文句ひとつ言わず傍についていてくれた。
流れる涙がひと段落して、鞄からポケットティッシュを取り出す。すると晴美が横から手を伸ばしてきて、薄いティッシュを二枚、つかんだ。何をするのかと訝しんでいると、その手があたしの顔に向かってくるから驚いた。
「ちょっと、晴美?」言いながら、あたしは彼女のされるがままに、汚れた顔を拭いてもらっている。「何やってんの」
「お顔を拭いてるんだよ」晴美はからかうような声を出した。「エノちゃん。顔、洗ってきたほうがいいよ」
あたしはそれに素直に応じて、洗面所を借りることにした。「じゃあ、拭いてもらう必要ないじゃん」と晴美の手を押しのけて、立ち上がる。
個室に入って鏡を見ると、ひどい顔が映った。あれだけ泣けば当たり前だ。化粧が涙で溶けて、大災害が起きている。「すぐ泣く女は嫌いだ」という相良の言葉が、なぜか思い出された。あたしはすぐ泣く女だし、突然泣く女だ。晴美もきっとびっくりしただろうな、などと暢気に思った。もう、泣きたい気分は過ぎ去っていた。水で顔を洗ってから、ちょっと躊躇ったけれどハンカチで拭く。
化粧を直そうかどうしようかと迷って、晴美を待たせていることを思い出す。だからそのままトイレから出て、席へ戻ることにした。晴美はメニューを開いていて、それを見てあたしは、そういえばまだ注文もしていなかったのだ、と気がついた。
「すごい迷惑な客になっちゃったね」あたしは照れ笑いを浮かべた。「いやー、ごめんごめん」
「もう大丈夫なの?」メニューから顔を上げて、晴美は訊いてくる。「嫌なこと思い出した、って言ってたけど」
「泣いたらすっきりしたみたい」あたしは眉を下げて、困った顔を作った。「なんか、お腹空いちゃったな」
注文をする際にやってきた店員さんは嫌な顔ひとつせず、オーダーをとってくれた。さらには「ごゆっくりどうぞ」とお辞儀までされてしまって、なんだか申し訳ないような気にもなる。
「実はね」あれだけ泣いておいて何も言わないのも変だろうと思って、口を開いた。「昨日、彼氏と喧嘩しちゃってさ」
「また?」言ってから、晴美は慌てて口を押さえる仕草をした。「……ご、ごめん。今のなし」
「そう、また」あたしはそれを見て、苦笑いを浮かべる。「もう、嫌になっちゃうよね」
晴美とはよく、祐斗の話をした。というよりはあたしが一方的に愚痴を聞かせまくっているだけなのだが、そういう立場の人間からすれば、確かに「また」だろう。
「あのさ、こういう言い方、良くないかもしれないけど」彼女は申し訳なさそうな表情を作って言った。「近頃、喧嘩ばっかりしてるよね」
「そう、喧嘩ばかり」あたしはアメリカ人みたいに肩をすくめてみせる。「もう、やってらんないよね」
「それって、別れるってこと?」
晴美のとった態度は何気ないものだった。ただ純粋に、あたしの言葉の意味を問うための行為。形のいい眉を少しひそめて、気遣うような視線を向けてきている。だけどそんな彼女の様子に、あたしの心は理不尽なまでの戸惑いを覚えた。
「別れる?」知らない単語を聞き返すみたいな返事が、口から漏れる。「……別れる?」
自分でも、すぐに変だと思った。胸がすごくざわざわする。晴美のほうもあたしの異常に気づいたのか、慌ててフォローに回った。
「なんでもないよ」こちらを安心させるためだろう、優しげな作り笑いを浮かべている。「上手くいかないことって、色々あるよね」
「ごめん、気を遣わせて」あたしは何がなんだかよくわからなくて、そんなことを口走った。「大丈夫だから」
端から見たら、とても大丈夫とは思えなかっただろう。さっきから、自分でも何を考えて何を喋っているのかが、上手くつかめない。晴美の発した「別れる」という言葉が、頭の中で暴れまわっているみたいだ。
そうだ、あたし達は上手くいってないカップルなんだと、そのときになって初めて認識したように思う。
あたしは祐斗が好きだ。「どこが好きなの?」と訊かれたら即座に「全部!」と答えられるくらいに好きだ。もちろん不満な点はたくさんあって、直せるものなら直してもらいたいけど、それによってあたしの「全部」が嘘になるわけじゃない。
だからあたし達はいくらぶつかり合っても離れることはないし、喧嘩ができるってことはそれだけあたし達の距離が近いってことなんだと思っていた。
でも、それはあたしが単にそう思っているだけであって、客観的に見ればあたし達は、別れても不思議じゃないような状態にあるのかもしれない。実際、晴美はごく自然に、別れるという発想をしたように見えた。ああ、やっぱり別れるのか。そんな風に続いてもおかしくない、言い方だった。
「あたし、別れないよ」普通に喋ったつもりなのに、声が揺れていた。「祐斗のこと、好きだから」
「そうだよね」晴美は何度も頷く。「変なこと言っちゃって、ごめんね」
あたしは祐斗のことが好きだから、別れない。それさえも、自分勝手な考えでしかないんだろうか。
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