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「……こんばんは」

 喧嘩になるとわかっている電話をどうやって始めればいいのか、というのはなかなか難しい問題で、あたしは迷った挙げ句、妙によそよそしい挨拶をしてしまった。

「どうした?」祐斗は優しそうな、それは優しそうな声で言う。「何かあったか?」

 彼の声を聴いただけで、あたしは一瞬、自分が何に怒っているのかも忘れてしまいそうだった。それだけの威力が、この声にはある。あたしは常々、祐斗がバンドでボーカルをやらないのは何故かと不思議に思っているくらいだ。歌だって上手なのに。なんて、あたしは何を考えているのか。話したいのはこんなことじゃない。

「内定、おめでと」あたしは素っ気なく言うことにした。「すごいね」

「うん……ありがとう」祐斗は少し言葉に詰まる。「でも何か、あるんだろ」

 あたしはただ、それを言ってもらいたかっただけなのかもしれない、とふと思った。

 何か、それが何なのかはわからないけれど、ともかくあたしの中に何かがある。その何かは祐斗に関するもので、あたしを苦しめているものでもある。それくらいのことは彼にもわかるのだという、その事実に慰められるために、あたしはこうして電話をしたのかもしれない。

 なら、もうここで電話を切るべきなのかもしれない。わざわざわかりあえない領域に足を突っ込んで、お互いに傷を負うような真似はすべきじゃないのかもしれない。でも、あたしの頭の中の冷え切った一部分は、それを許してくれそうになかった。

 だから、「うん」とあたしは答える。「あるんだ。……ごめんね」

「いや、いいよ」祐斗は掠れそうな声。「こっちこそ、ごめん」

「何が?」

「色々……桜子さくらこのこと、わかんなくって」

 あたしは何を言っていいのかわからない。「別にいいよ」って言いたい気持ちと「謝って何になるの」って怒鳴りたい気持ちとが混ざり合って、出た言葉は結局「うん」だけだった。

「俺ってどうしてこうなんだろうな」と祐斗。「あのさ、いつも言ってるし、信じてもらえないかもしれないけど、おまえのことを傷つけたり苦しめたりしたいわけじゃないんだよ」

「……うん」あたしはなんとか呟く。「嘘つき」とか「だったらなんで変わらないの」とか、溢れそうな叫びを幾つも押し込めたせいで、消え入るような声しか出せなかった。

 それから少し間があって、祐斗があたしの言葉を待っていることに気づく。あたしがどうして怒ったり落ち込んだり苦しんだりするのかを、聞きたがっているということに気づく。

 ここで祐斗が何かしらの推測を、たとえば「メールが適当すぎたから?」とか、当てずっぽうでも何でもいいから口にしてくれれば、あたしはそれだけでどんなに救われるだろうと思う。その内容がもし的確であれば、将来的にあたしの悩みが解決する展望だって見えるだろう。

 でも祐斗は何も言わない。「メールの返事が適当すぎたから?」と訊くことは自分が適当なメールを送ったと思っていることになる、なんて考えているのかもしれない。あるいは、そうじゃなくて単純に、あたしの悩みを想像するのが面倒なのかもしれない。あたしはそれが気になる。面倒に思われていたら嫌だなと思う。だけどそれを言葉にして訊いたところで彼は「そんなことないよ」と答えるしかないんだから、あたしの知りたいことはわからない。

「あのね」と絞り出すようにあたしは言う。でもそこで辛くなって、「……なんて言ったらいいのかな」と誤魔化す。

 本当は何をどう言えばいいのかなんて明らかなのに、あたしはそれを言えない、言いたくない。祐斗があたしのことを気にしていないという事実をつかまえて、そんなの嫌だよあたしのことを気にしてよと言う、なんてのは、すごく自分勝手なことだ。それがわかるから、言いたくない。それなら初めから黙っていればいいのに、でもあたしは祐斗に少しでも気にしてほしいから、やっぱり言わずにはいられない。あたしがこんなに辛いのに祐斗はそんなことをまったく気にせず生きていられるという状態が、どうしても我慢のならないものみたいに感じられてしまう。だからあたしは言う。どんなに言いたくないことでも、結局は言ってしまう。

「メールで」自分の声が涙で湿っているのを感じた。「……バンドのこと、ばっかり」

 電話の向こうで押し黙る祐斗の顔を、あたしは想像する。彼は困っているだろうか、それとも呆れているだろうか。あたしだったらこんなときは、困って呆れるだろう。いや、あたしならそもそも、祐斗にこんなことは言われない。あたしはそれでまた悲しくなって、まだろくに言い合いもしていないのに泣けてきた。

「悪かった」しばらく黙ったあとで、祐斗は押し殺したような声で言った。「そんなつもりじゃなかったんだ」

「そんなつもりって、どんなつもり?」咄嗟に、大きな声が出た。「あたしを傷つけるつもりで言ったなんて、思ってないよ」

「いや、そうじゃなくて」彼は慌てたようになる。「確かにその、あんまり考えなしで送っちゃったのは、そうだ。でも、バンドばっかりで桜子のこと気にしてない、ってわけじゃない」

「じゃあ、どんなわけなの?」

「だから、よく考えないで送っちゃったんだよ。それについては謝る」

「考えないで送ったらバンドのことだけになるっていうのは、バンドのことしか考えてないってことじゃないの?」あたしはもう、自分が何を求めてて何を言おうとしているのか、よくわからなくなってきていた。ただ言葉だけが、まるでどこかで待ちわびていたみたいに、勢いよく飛び出してくる。「そんな、無理してあたしのこと気にしてほしいなんて、思ってないよ」

「無理してるわけじゃない。桜子、おまえ何言ってるんだ」と祐斗。「ちょっとした言葉のあやみたいなもんじゃないか。そんなに拘るようなことじゃないよ」

 あたしはそこで、今度は何も言えなくなった。さっきまで元気に、抑えきれないくらいの強さで暴れていた言葉たちが、急に大人しくなってどこかに隠れてしまったみたいだ。ソンナニコダワルヨウナコトジャナイヨ。祐斗の放ったその声が、隠れてしまった言葉たちの代わりに、あたしの胸の中で渦巻いている。

 ソンナニコダワルヨウナコトジャナイヨ?

 どうして、一体どうしてそんなことが言えるんだろう? だってあたしは、現にこうして拘っている。あたしにとっては紛れもなく、これは拘るようなことなのだ。でも祐斗の言葉は、それを認めない。認めないことで、押し潰して消し飛ばして葬り去ろうとする。あたしの拘りを。それによって、あたしの存在を。祐斗にとって存在していないあたしには、何かを言うだけの力も権利も資格も正当性もない。だから言葉がない。あたしは何も言えない。

「おい、桜子。大丈夫か?」祐斗はまだ何かを言っている。「とにかく俺、悪かったと思ってるから。おまえのこと嫌いになったとか、そんなんじゃ全然ないから」

 だけどあたしには言葉がない。何かを答えることはできない。そんなことをする理由もなければできる道理もなかった。だからもう、この電話で彼と話をすることはできない。あたしはそう思って、受話器を耳から離してしまった。祐斗の声が遠くなる。何か言っているみたい。

 あたしは終話ボタンを押した。一度押して、二度押して、待ち受け画面が出るのを見てから長押しする。これで電源オフ。携帯は死んだ。

 そうやって死んだ携帯をベッドに放り投げて、それから後を追うように自分の身体も放り投げた。身投げ、投身自殺、そんな言葉が思い浮かんで、笑えるような気分になるかと思ったけれど、結局泣けてしまった。いったん泣き出してしまうと、泣くまいとしていたことなんかどうでもよくなってきて、あたしはそのまま、ひとしきり泣いた。

 そして、気がついたら朝になっていた。時計を見ると、時刻は六時四十三分。

 もちろん、一晩中泣いていたわけではなく、泣いているうちに眠ってしまったのだ。でも、気分としては似たようなものだった。要するに、割とさっぱりしている。自分が昨日悩んで苦しんで泣いていたのは何のためだったのかが、理屈としては思い出せるけれど、実感としてはもう、わからない。悲しさや辛さそのものは、寝ている間に過ぎ去ってしまっていた。

 あたしは起き上がって、まずシャワーを浴びた。服を着替えて、昨夜死んだ携帯を蘇生させる。それであの後、祐斗からの着信が二件入っているのを見て、あたしは少しだけ安心する。いつも、そう。あたしはこうやって、何とか落ち着きを取り戻す。

 祐斗にお詫びのメールを送ると、七時二十五分。今日は日曜、昼から友人の内山うちやま晴美と会う約束があるけれど、家を出るにはまだ早すぎる時間だった。目はしっかり覚めていて、二度寝をするという気分でもない。あたしは英語の課題があることを思い出したけれど、それを終わらせておこうなんて殊勝なことは考えず、結局、近所のコンビニまで出歩いてみることにした。なんとなく外の空気が吸いたかったし、昨日は食事もしないで寝てしまったから、お腹が空いてもいた。

 四月上旬、いつの間にか、冬の気配はすっかり消え去ってしまったみたいだ。朝は思ったよりもずっと暖かくて、気持ちがよかった。あたしは柔らかい日差しを浴びながら、ゆっくりと歩く。

 一人暮らしのアパートからコンビニまでは、ほんの三分くらい。考え事をするにも短すぎるような、そんな短い間に、しかもこんな朝早くに、知り合いに声を掛けられるなんて思ってもみなかった。

「あれ、榎井えのいじゃん。何やってんだ? 朝っぱらから」

 そいつはあたしの後ろからのそのそとやってきて、かったるそうに首をひねった。

「相良?」あたしは驚いて声を上げる。「あんたこそ何やってんの、こんなところで」

 相良はスカジャン(スカジャン!)を羽織っていて、下は紫色のスウェットという出で立ち。寝癖でぼさぼさになった金髪のせいもあって、田舎のヤンキーと間違われても文句は言えないというか、ヤンキーだと思われなかったら文句が言えそうな佇まいだ。

 あたしと相良はゼミを通じて、去年のはじめに知り合った。そういう縁がなければ、どうやってもお近づきにはならなかったし、なりたいとも思わなかったであろう相手だ。何しろとてつもなく柄が悪い。見た目もそうだし、話し方や歩き方もまるで田舎の高校生みたいだ。でもそのくせ喋る内容は意外とクレバーだったりして、ギャップが素敵、なんて言ってる友達もいたりいなかったりする。冗談でしょ、と思うけど。

 だけど不思議に、彼とは気が合った。話がしやすいというか、割と気軽になんでも話せてしまうのだ。相良は見た目通りにあまり遠慮とか気遣いの得意なタイプではなくて、だから話していて頭にくることもある。というか、恋愛相談をして泣かされた男というのも彼のことだ。あのときはあたしもキレた。でも、それで相良と話すのが嫌になるとかってわけじゃない。彼との間にはそういう、ある種の気軽さがあった。

「散歩だよ、散歩」言いながら、相良は大きな欠伸をした。「健康のためにな」

「あんたほど、健康って言葉が似合わない男もいないな」とあたしはからかう。「酒、女、ドラッグ……とかのほうが、似合ってるよ」

「酒と女はいいけど、最後のは駄目だ」彼は気障っぽく笑った。「パンクロッカーじゃねえんだからさ」

「確かに」とあたしは頷く。「煙草とパチンコ、のほうがよかったかもね」

 相良はあたしの言葉を鼻で笑う。それから少し黙り込んだかと思うと、ちょっと躊躇うような表情になって、言った。

「……悪かったな、こないだは」

「は?」あたしは目を丸くする。「何よ、いきなり」

「ゼミの納会んときだよ。ちょっと言い過ぎたから、謝る」

「……ひょっとして、あたしが泣いたときのこと?」

 あたしが訊くと、相良は不貞腐れたみたいにした。

「それ以外に何があるんだよ」

 そういえばこいつってこういうヤツだったよな、とあたしは思う。粗野で無神経に見えるし、それは実際に間違いではないんだけれど、同時に律儀で、誰かを傷つけたり悲しませたりすることを良しとはしていないのだ。でもあたしは彼のそんなところが変にくすぐったくて、素直には応じられなかった。

「すぐ泣く女は嫌いだって、言ってなかった?」意地悪っぽく笑いながら言ってみる。「どうせあたしの考えることなんかわからないだし、あんたはそれでいいんだよ」

「俺はよくないんだ」皮肉っぽい笑みを浮かべて相良は答えた。「すぐ泣く女は確かに好きじゃないが、女を泣かす男も悪い」

「あんたが一体、何を気取ってるつもりなのかがわからない」とあたしが笑うと、「おまえはそれでいいんだよ」と相良も笑った。

 会話が途切れた。

 吐く息が白い、とあたしは気がつく。それから、やっぱりまだ少し寒い、とも思う。

「とにかくさ」あたしは立ち話を終わらせるつもりで言った。「あたしはもう、気にしてないから。だからあんたも気にすることないよ」

 相良はいまいち納得いかなそうな顔をしていたが、あたしが「そんじゃ、コンビニ行くから」と言って強引に切り上げようとすると、「だから、すぐ泣く女は嫌いなんだ」と口の端を歪めた。

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