ばらの花

黒楠孝

 

  1

 

 あたしは考える、愛という言葉について。

 英語で自分のことを指すアルファベットと発音が同じなのは、きっと単なる偶然じゃない。何故なら愛というのは、本質的に自分のことだからだ。

 雨のしとつく水曜日、学校帰りのモノレールで、あたしは涙を堪えていた。

 もちろん、本当は喜んでいなくちゃおかしい。二つ上の彼氏が、大企業から内定を貰ったんだから。

 あたしは震える手で、メールの返事を書く。よかったね、おめでとう。可愛い絵文字をたくさん使って、祝福の意を表明する。

 親指で文面を作りながら、頭で考える。あたしはどうしてこんなに、泣きそうなくらい悲しいんだろう?

 彼が大企業の内定を貰ったというのは、素直に喜んでいいことのはずだ。ただ問題があるとすれば、その企業は転勤が多いらしいということ。でも、それが悲しいんじゃない。そうじゃない。転勤は仕方ないことだ。

 だけど、そう、仕方ないけれど、やっぱり悲しいことだ。その悲しみを彼とは、祐斗ゆうととは共有できないんだろうなという確信めいた予測が、あたしはこんなにも悲しいのだ。

 きっと今日、あたしにメールを書くときだって、あいつはいつものような無表情だったに違いない。内定を貰って多少ほくそ笑んではいるかもしれないけど、それだけだ。賭けてもいい、このメールを見てあたしがどう思うかなんて、想像もしていない。いや、もっとどうしようもないことには、素直に喜ぶとさえ考えているかもしれない。

 そして実際に、あたしはその期待に応えようとしている。たくさんの絵文字を含んだ返信によって。

 ふと、途中まで書いた文面を全部消去して、「バカ!」とか「死ね!」とか、そんな一言だけのメールを送っちゃおうかという気になる。でも、やらない。そんなことをやったら、祐斗はきっとまたどうしていいかわからなくて、返信をしなくなるだろう。そうなったら、きっとあたしは悲しくて、祐斗に酷いことを言ってしまう。そうして、喧嘩になるだけだ。あたしは別に祐斗と喧嘩したいわけじゃない。だから、素直に「おめでとう」を言う。悲しくて泣きそうなのをこらえながら。

 なんてことを思いながら送信ボタンを押すと、今度は自己嫌悪がやってくる。何なんだ、あたしは。どうして、こんなに勝手なことばかり考えてるんだろう。勝手なことばかり考えて、勝手に、あたしって可哀想とか思っちゃったりなんかして。良いことなんか一つもない。きっと、他のヤツが同じことをしていたら、頭を引っ叩きたくなるに違いない。彼氏がこんなだと知ったら即刻、別れを告げるだろう。

 そう思うと、次には不安になる。だって、あたしは自分にさえ嫌われたってしょうがないような思考回路をしているのだ。いわんや他人をや、だ。祐斗だってあたしがこんな風に悩んでいるということを、知っているとはいわないまでも、なんとなく感じ取ってはいるはずだ。だったら、あたしはいつ嫌われて見捨てられても不思議じゃない。

 以前、同じゼミの男に恋愛相談を――納会の席で、酔っ払った勢いでつい――したら、こんなことを言われた。

「おまえ馬鹿じゃねえの?」

 あたしはそいつをぶん殴ってやろうかと思った。ただぶん殴るだけじゃ足りない。テーブルの上にあるもの全部そいつに叩きつけて、気を失ったら駅のホームまで引きずって、通り過ぎしようとする特急列車の前に突き飛ばしてやろうかと思った。あたしは確かに馬鹿だけど、おまえは馬鹿なだけじゃなくてあたしがどうして泣いてるのかを考えようともしない人間未満だ。そんなことをたぶん一瞬のうちに思った。でも向こうからしてみれば突然始まった話だし、ちょっと不用意な受け答えをしたくらいで殴られたり殺されたりしてはたまったものではないだろうと思って、やはり一瞬のうちにぐっと抑えた。

 あたしが馬鹿だなんていうのは当たり前のことだ。疑問形で問われようが断定調で言われようが、あたしはそのことに反対したりはしない。そんなことを嬉しそうに指摘されたってどうにもならない。そりゃ、あたしの非はたくさんあるだろう。非しかないかもしれない。そもそもこんな風にうだうだと、誰の役にも立たないことを、どこへも行き着かないような形で悩んでいること自体が無駄でしかない。

 男はあたしに「おまえのそれは恋愛ですらないよ」とかなんとか、そんなことも言った気がする。そのときはさすがにあたしもキレた。「うるせーよ!」と。おまえにとって恋愛が何なのかなんて知らないけど、あたしのこれは恋愛なんだよ。あたしが決めたからそうなんだよ。これが恋愛でないのなら、何なんだよ。どうしてあたしは苦しいんだよ。あたしが間違っているから? 何かありもしない幻想を抱いているからか? そうやって偉そうにご高説垂れることが、あたしを幸せにするのか? 今から考えてみれば、あたしが言いたかったのはきっとそんなところだろう。でもそのときのあたしの脳みそはアルコールで溶けかかっていたし、怒りで沸騰しかけてもいたので、まともな言葉は出てこなかった。代わりに涙と鼻水が大量に出た。男はそれで慌てふためいて、あたしは泣きながらざまーみろと思っていた。そこから先のことは、もうよく覚えていない。

 けれどあいつの「それは恋愛ですらない」という言葉については、考えてみれば、その意味するところはわからなくもない。あたしの思考があまりにも自分勝手だということを、彼は言いたかったのだろう。恋愛は二人でするものだという見地からいえば、あたしのそれは恋愛ではない。それは確かにそうだ、あたしは祐斗の都合なんか、これっぽっちも考えていない。ただ彼が自分の気に入らない態度をとったり、あたしのことを軽んじているように見えたりするのが嫌なだけだ。でも、それがどうして嫌なのかといったら、彼のことが好きだからだ。愛という言葉はあんまり馴染みがないけれど、これが愛じゃなければ、何だというんだろう。あたしは祐斗のためならほとんど何でもするし、彼がいなくなるくらいなら死んだほうがましだ、とさえ思う。そういうあたしの態度が自分勝手だというなら、それはその通りと認めるしかない。ならばあたしにとって恋愛とは、自分勝手なものなのだ。

 このままじゃ駄目だということは、あたしにもわかる。たとえば祐斗が転勤するということに対する悲しみを彼と共有したいというあたしの望みは、今のままだと明らかに叶う見込みがない。かといって、そんなことはどうでもいいと綺麗に割り切ることなんてできやしない。どうしたって望み続けざるを得ない。だから期待は裏切られ続け、あたしは傷つき続ける。だけど、そこから抜け出せないし、抜け出したいとも思えない。この先にあるのが泣きたいくらい辛いことばかりでも、祐斗があたしの元から去っていくことと比べればよっぽどましだ。彼以外の誰かと幸せに暮らしているところなんて想像もつかないし、彼があたし以外の誰かと楽しそうにしているところなんて考えたくもない。

 あたしはモノレールを降りてしばらく、傘も差さずに歩いている自分に気がついた。本降りではなかったけれど、髪の毛はじっとりと湿っている。大きなため息を吐いて折りたたみ傘を取り出すと、鞄の中で携帯が光っているのが見えた。

 傘を開いてから、携帯のメールをチェックする。差出人は祐斗。件名は「Re: おめでとう!!」。少しだけ躊躇して、でも結局、あたしはすぐにそのメールを開いた。

『サンキュー。これでバンドのほうに専念できるよ。』

 二十三文字、とあたしは思う。そして暗澹たる気持ちに襲われた。

 理由はおそらく、たくさんある。就活中の思い出にまで言及して、考えられる限りの祝福を行ったあたしのメールに対する返事がたったの二十三文字か、というのも当然そうだし、しかもそのうち半分以上はあたしとは関係のないバンドのこと、というのもなかなかのダメージだ。さらにその内容は、就活で忙しいからという理由であまり会えなかったここ何ヶ月かの状況は、言い訳が就活からバンドに変わるだけで解決はしないという未来を示唆してもいた。

 それでもやっぱり一番痛いのは、祐斗のほうはあたしがこうして悩むようなことをまるっきり考えてはいないし(だから悪気もない)、あたしが言ったところでほとんど理解もしない(だから解決しない)、というところだろう。

 そうやってひとしきりマイナスの要素を並べ立てた上で、あたしは改めて液晶画面の現実と向かい合った。このメールに対してよかったねおめでとうと返せるほど、あたしの頭はよくもおめでたくもない。

 しばらく考えて、あたしは簡潔に、『夜に電話してもいい?』とだけ書いたメールを送信する。あたしのこういう態度が臨戦態勢だということは祐斗にもわかっているので、返事は『…いいよ』とすぐにきた。

 それを確かめながら、あたしは暗い気分の一方で、心のどこかが妙に冷えたような、一種の清々しさのような感情を覚えてもいた。そいつがあたしに酷いことを言わせたり、口論をエスカレートさせたりするんだとわかってはいたけれど、だからといってコントロールが効くものでもないということは、それ以上に身に染みている。

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