第6話 くろがねの少年少女

 時間が進んでいる。時間がまるで大きな音を立てて進んでいるように東は感じた。この瞬間が来てしまったような。

 意を決したように、かすみが中に入ってきた。


「あいた!」


 しかし、それなりに動揺していたのか、中のテーブルに足をぶつけてしまった。


「いったいなぁ……ふん!」


 小さなテーブルを箱の外に出してしまった。東はこんな態度のかすみを始めて見た気がした。

 とにかく、椅子に向かい合って座る。


「翠に、この箱が何のためか聞いた?」


 突然なんだろう。この状況で不思議な質問だった。かすみの顔は下を向いていて、表情が伺い知れない。


「……前に聞いた限りだと、俺達くらいの年の人間もここに客に取り込むためって言ってたかな?」

「うん。それが理由の半分」

「え?他の半分は?」


 かすみの視線は下を向いたまま動かなかった。


「あのね、この箱の中で翠がアドバイスする事ってすごく簡単なんだよ。相談する相手の話をただ聞くだけってのが半分以上かな。後は相談相手の見た目に併せて、どこの美容院の誰々の予約を取って髪型を相談しろとか、どこの薬局に化粧のセールスしに来る誰々のところ行って来いとか、どこの服屋行って服の相談しろとか……ね。せっかく世代交代が進んできた商店街の振興も兼ねようって。だから全然、奇妙じゃないんだよ。私はそんなお金無いから参考には出来ないけど」


 かすみが突然こんな話をし始めたか、東はただ聞くしか無かった。


「多分、一番将来に囚われてて苦しんでたのは翠なんだと思う。それで、普通を知りたかったんだよ。私達くらいの年の子が、どういう風に考えて生きているのか知りたくて、こんな相談始めたんだと思う」


 かすみの声は、感情をまるで感じさせなかった。


「で、でも、それを知ったところでどうなるんだよ」

「東の事を救えるよ」

「俺を……何?」


 東の人生はそんなに変な状況にはないはずだ。救うってなんだろう。


「翠の彼氏さん覚えてない?」

「え?なんか知ってるの?」


 かすみが小さく頷いた。


「翠ね、すっごく馬鹿な事言ってたの。彼氏のために、自分が稼いで好きなことさせてあげるって。結構いい会社に勤めていたらしいんだけど、連日会社に泊まったり、週末も仕事漬けで、どんどん消耗していくのを見てられなかったんだって。それで無理やり辞めさせてここに連れて来ちゃったんだって。彼のために早く自分がお店も会社も舵取りできるようにならなきゃ、綺麗に着飾らなきゃ、とか。いろんな事に手を出しててんてこ舞いになって、彼氏の事ほっといちゃって。でも、何年かしたらきっと一緒にいい生活出来るはずだって、本気で思ってたみたい」


 知らなかった。大抵の男に対してそんな事をしたら嫌われるなんて、東にも分かる事だ。

 ずっとあの婚約者でもあった彼氏が翠をおかしくした悪い奴だと思っていた。


「結局、分かってるとは思うけど、あの彼氏さん、どこかにいなくなっちゃった。何も言わずに去っちゃったんだよ。翠が投資してきたその未来は無くなっちゃった。余裕のある生活が待っている未来の事ばっかり考えて、時間も労力もつぎ込んだのに」


 東は自分と同じように、翠もそんな空回りを演じていた事を、全く知らなかった。


「それで、弟が同じ道辿ってるのに気付いたから、それまではたまにしか参加しなかった料理部に週一で講師として顔を出して、東と同じくらいの年の子の普通を知ろうとしてたの。でも、料理部が無くなっちゃったから焦ってこんな物置いて、恋愛相談に乗るよ、なんて訳分からない事やり始めたんだよ。私はそんなことしても肝心の男子から話聞けないって散々指摘したのに」


 翠について語るかすみは、なんだか明るい表情で、東の気分も少し晴れてきた。


「元々ファッションとかスタイリングとか趣味にしてたからだと思うけど。東ってそういうのに積極的じゃないから、何アドバイスしていいか分かんなくて空回りしてる翠は可愛かったなぁ」

「……ほ、ほんとに俺のためなの?」

「そうだよ」


 我が姉ながら馬鹿だなぁ。東はそう思わざるを得なかった。心配なら腹を割って話し合うだけで良かったのに。

 とにかく、誰かの話を訊きたかったんだろう。それくらい東の事を危うく感じていたという事なのか、それとも自分の糧にしたかったのか。


「はぁ、俺にはそんな話一切してくれなかったよ」

「そりゃそうだよ。この話はここに入った事ある人しか知らないんだもん」


 おかしい、かすみは入ったことがないといつも言っていたような気がした。


「え?まるで入ったことあるみたいな言い方だけど」

「……ああ、ごめん。相談しなきゃって思う相手がいないなんて、嘘」

「へ……?」


 かすみの視線が下を向く。その顔には、何の表情も浮かんでいなかった。

 誰だろう。


「正しくは、相談させられてた……かな?」

「させられてた……?」

「翠に無理やり箱に引きずり込まれたよ。正直、一人でタラタラ生きていこう決めてたから、困ったよ」


 かすみの表情は少しも変わらないままだった。


「東には哀れんで欲しいから言っとくけど、おばあちゃんもおじいちゃんも死んじゃったからもう家族はいないし、働き過ぎて扶養家族もばっちり外れるから、もうあの人達ともさよなら出来るかなぁ」


 あの人達か。東はそれに対して漫画の主人公のように、「でも親だろ」みたいな綺麗事を言う気は更々無かった。着替えを取りに行っただけの翠に、すべての荷物を押し付けたのではないかと東は疑っているくらいだ。


「そ、それで、誰について、相談してたの?」

「それ、本気の質問?それとも最近ありがちな少女漫画の男キャラ気取ってる?それ、誰の事気にしてるの?みたいなさ」


 かすみに少しだけ笑顔が戻った。


「や、やめてよ。本気で、息が詰まるかと思ったんだから」

「うん、いい反応。ちょっと安心した」


 かすみの表情がまた消えてしまった。

 眼鏡の奥の瞳が少しの間、瞑られて、ゆっくり開いた時は自分の膝を見ているようだった。


「私、あなたにいっぱい嘘吐いてる。いっぱい隠し事してる」


 東は急に『あなた』と呼ばれ、箱の中の空気が変わった気がした。東はただ何も言えないまま、かすみの言葉を待つ事しかできなかった。


「私はあなたの事が好き」


 びくりと東の体が跳ねた。ずっと欲しかった言葉が、かすみの口から出たからだ。

 だが、無感情な声に、素直に喜べなかった。


「顔は、あんまり笑ってくれないから、ちょっと好きじゃない。なんか無理にかっこつけてるみたいで。背丈とか体つきはわりと嫌いじゃないかな。大きい人怖いし、中肉中背って感じだし。卑屈なところは私に似てるから大嫌い。卑屈っぽい事言われると二度と喋りたくないって気持ちになったりする。東と無駄話してる時は、すごく好き」


 どんどんまくしたてられて、東は何も言えなかった。


「おうちにお金があるところも好きだな。こんなお素敵な店の副店長で、社長ジュニアで。もしかしたらそういう、東自身の事じゃなくて、東のバックグラウンドが好きになった原因かも。大好きな翠の弟ってところが、一番好きになった理由かも」


 東はどう取って良いか分からなかった。かすみは嫌われて突き放されたいのか、それとも、ただ素直になっただけなのか。

 とにかく自分も、一度素直になるべきだ。


「……あの、ええと」


 口がうまく動かない。だが、自分の不甲斐なさを悔やむ場合でもなかった。


「最初は多分、身近な女の子がかすみしかいないから、気になってただけかもしれない」


 主語も何もあったものではないが、話せる言葉をなんとか口から絞り出す。


「でも、考えれば考える程、気になって。こんなに忙しいのに文句の一つも言わなくて、常連みんなに好かれてて、一年足らずで小針のじーさんにコーヒーで合格点貰って、……俺、ずっとあのジジイに心折られ続けてきたのに」


 言いながら、東の気持ちが少しささくれ立った。肝心な言葉も伝えていないのに。


「あれ?俺、かすみにすごく嫉妬してるかも」

「……私に?」


 かすみの声は明らかに不安を孕んでいた。


「かすみの方がずっと常連と仲良くてさ。コーヒーだってもう教えることなんて無いよ。目が悪かったのにどうやってあんなにうまくドリップ出来てたんだか分かんないよ。視力の問題が解決したから、もう勝てなくなるかも。才能ありすぎだよ」


 少し怒りをたたえたかすみの目が、東の目を捕らえた。


「……あのね、私なりに必死だったんだよ。毎回目盗んで、東と翠が淹れたコーヒーを秤に置いて重さ見てからお客に持っていったり、カップにどれくらい注いでいるかとか、何も見えないなりに見て感覚磨いたんだよ!泡を見ろとかマジで無理だったんだから!常連さんにも気に入られたくて必死に話してたよ!今はすごく楽しいけど、最初は大変だったよ!」


 少し荒い声でかすみがぶちまけるように話すかすみは、東には新鮮に感じた。


「な、なんで、そこまで……?」


 かすみの眉間にしわが寄る。


「東に認めてもらえるところが欲しかったの。貧乏で変な家の子がさ、みんなが好きな翠の弟で、お金持ちの東に取り入ってるって思われたくなかったの」


 東は合点がいかなかったが、女子には色々あるのかもしれない。学校でもストーカーレベルでかすみを眺めていた東だったが、仲が良かったのはよく相談に来ていた美人な同級生の他に二、三人しかいない。そもそも女子との接点が無いから、かすみの悪い噂なんて聞いたことはなかったが。

 自分が情けなくて仕方がない。でももう情けないのは受け入れるしかなさそうだ。


「だ、だったらさ、俺が上から目線で認めてやるっていうくらいのレベルに留めといてよ……認めて欲しいなら、俺を超えないでよ」

「それは、認めてくれるって理解でいい?」


 相手を認めるという意味がそもそも東には分からなかった。

 そもそも自分と対等以上の相手なのに。


「ら、ライバル認定とかなら」


 急いで考えた挙句に出た答えはこれだった。


「それは私が欲しいものと違うんだけど。その、上から目線でお前、見込みアリ!みたいなの」

「どこかで聞いたような台詞だなぁ」


 段々、東とかすみがいつもしている無駄話の様相を呈してきた。

 もう少しこんな話をしていたいけど、もうすぐ終わりにしないと、東もかすみも、夕食前でお互いのお腹がやたら大きな音を立て始めていて、どうにも居住まいが悪い。


「あ、東、ごめん、さっきのも、嘘かも」

「え?どれの事?」


 かすみはじっと考えるように目を泳がせてから、小ぶりな椅子の上で体育座りになり、膝に顔を隠してしまった。

 ああ、この姿勢は東にはきつかった。女の子が身を小さくするのはとても可愛く映る事を初めて知った。


「あのね、ドリップしてる時。うん、それ」

「ど、どういうこと?」


 かすみの両耳が紅く染まっていくのが、薄暗い箱の中でも分かった。


「うん。東がコーヒー淹れてるのをカウンターの中で見てる時ね、本当に目が離せなくなるの。といっても最初はこの人何してんだろって思ってたけど。翠の方がずっと格好良かった。さすが私の翠って感じで。でも今は絶対東の方が格好いい。無心って感じが」


 少し安心した。かすみにじっくり見られている時は、頭をミキサーにかけられている気分だったのはバレていないようだ。


「……見とれてたら、翠にばれちゃった。うん。良かった。私ちゃんと、東が好きみたい。翠の弟とか、どうでもいいみたい」

「……あ、後で一杯淹れるよ」


 東の心臓は割れそうなくらいに高鳴っていた。

 なんだ、じっと見られていたのは技を盗もうとする意味じゃなかったのかと思うと、恥ずかしくて堪らない。

 でも、もうこれ以上恥ずかしく感じることもないだろう。


「ねぇ、かすみ」

「うえ?」


 東の少し甘えたような声に驚いたのか、かすみが少し見を固くする。

 かすみの華奢な両肩に東の両手が置かれる。東は、かすみを抱き寄せるなんて、夢みたいな事をしてみたかった。

 しかし、体育座りを解いたかすみの両手が伸びてきて、東は両頬を掴まれてしまった。


「そっか」


 かすみが呟いた。


「そ、そっかって?」

「すごいね。お互い好きだと、体とか触りたい放題なんだね」


 東の両頬を触りながら、かすみが突然変な事を言う。


「そ、そう、なのかな?」

「そうだよ」


 しかし、かすみは頬から手を離すと、東の両手を掴んで引剥してしまった。


「でもお互い好きって訳でもなさそうなので、その話は無し」

「え……?あ、ごめん」

 

 かすみが静かに立ち上がったので、東もそれに従った。


「それ、お断りみたいに聞こえるけど?」

「ち、違う、ちゃんと、その、同じだから!かすみと!」

「わがままで申し訳ないんだけど、なんかまた求めてる答えと違う気がする」


 女子って難しいなと、東は一般論に逃げようとしたが、この状況でそれは正しくない。

 ただ、言えば良い。かすみが求めている一言をはっきり口に出せばいいだけなのに、どうして口が動かないんだろう。


「……私なんでこんなの好きになったんだろうとか思い始めてるよ?」

「あ、ああ、ごめん!じゃなくて!あの、考えてるから!あの。あの、そうだ」


 こんな状況、何度も想像したはずなのに、どうして、その通りに出来ないんだろう。

 混乱の渦中で、東が縋り付いたのは、一番よく妄想していた言葉だった。


「もし、羽川が嫌なら日陰になってくれないかな……?」


 そんな言葉だ。

 きっと、五年後か十年後か、分からない。もし、かすみにもう一度会う事が出来たら、日陰東はきっと羽川かすみに、そんな言葉をかける事が出来て、二人でまだまだピンシャンしているだろう小針のじーさんを相手して、二人でディナーセットの味と利益率のバランスに頭を悩ませて、二人でコーヒーの味を競い合って。自分には過ぎた人生を送れる事だろうと東は感じた。

 そんな言葉がいつか、かすみに届いたらの話しだが。


「は……はい……で、いいの、かな?」


 妄想の海から東は引き戻された。

 かすみは何を言っているんだろう。何に対する返事なのか、東には分からなかった。

 それとも、目の前のかすみは、自分が想像した、五年後、十年後のかすみなんだろうか。

 違う。ここにいるのは現在の羽川かすみだ。高校を卒業したばかりの十八歳の羽川かすみだ。

 触れようと思えば、触れることができてしまう。


「あ、東?」


 立ち上がって、かすみの両脇に手を入れて、無理やり立たせてみる。かすみの脇の下は熱かった。

 そのまま抱き寄せてみると、脇の下程でもないが、温かい感触を味わえた。


「ちょっと、本気にするよ?」

「う、うん」


 ちょっと早かった。いや、かなり早かった。でも、どうやら、口を突いて出てしまったらしい。

 だからきっと今がその時だったんだ。そう思ってしまえば良いんだ。

 お互い腕が背中に回る。はじめてかすみから嗅ぎ取った匂いは、分煙席の匂いだった。


「駄目だなぁ、これは」

「駄目って、何が?俺で妥協した事っていうなら確かに駄目だけど」

「……ほんとに嫌いになるよ?」

「……ごめん」


 かすみの腕に力がこもった。

 冗談だと言ってくれているようだった。


「なんだか、都合良すぎるんだよ。運が良すぎるんだよ。私の思う通りに世の中が動きすぎてるよ。今すぐにでも、母さんに布団から引きずり出されて、面白くもない脚本読まされたら、どうしよう」


 なんだ、そんな事を心配していたのか。


「大丈夫だって。これで薗田先生レベルのイケメンと抱き合ってたら疑った方がいいと思うけど」

「そうだね、安心した」

「簡単に納得しないでよ」


 かすみの少し荒い呼吸が、東の胸のあたりを温める。


「都合とか運とかじゃなくて、全部、自分で頑張って、引き寄せたことだろ。その結果だろ。ここまで、好きにさせといて、何言ってんだよ」


 少し情けなくも思うが、東は涙を止められなくなっていた。

 やっとかすみは一人ではなくなったと思えた。


「な、何泣いてるの?女より先に泣かないでよ」

「かすみも泣いてるじゃないかよ」

「東より数秒遅かった」


 何言ってんだか。

 かすみが東の体を手で押し始めた。


「ほら、ちょっと離れて」

「え?あいた!」


 少し離れた瞬間、東の顎のあたりに、かすみの唇というか、歯がぶつかった。


「あ、あれ?外した?」

「は、外したよ。そ、そんな勢いよくやるものなの?」

「さ、さあ?この箱の中の恥はかき捨てらしいから、とりあえずやってみようよ」


 二人して、しばらく思案した挙げ句、東は体を少しだけくの字に曲げて、カスミの唇に、自分の唇を当てた。


「な、なんか、ロマンに欠けるね」


 かすみの困惑には東も同意するけど、そんな事はどうでも良かった。

 離したくない。その気持ばかりが強くなる。


「ねぇ、かすみ、俺が交渉するからさ、ここにいてよ」


 そうだ、ここでずっと働いてくれればいい。一応、ガキの戯言に思われているかもしれないが、日陰を名乗ってくれる事には同意してくれた。

 もし、それが戯言のまま終わったとしても、かすみが細々と一人で生きていくというのなら、ここでそれをしてくれても良い。多分、叶わないと思うけど。

 きっと、決まり事に対して極めて厳格なかすみが、今更、あと数日で就職するのに、就職先を蹴ってくれる事なんて無いだろう。

 これからどうしようかな。かすみは携帯なんて持っていないし、これからも持つ気も無さそうだ。

 そうだ、自分で買ってプレゼントするのはどうだろうかと、東は閃いた。


「……うん。もちろん」

「……へ?」


 かすみが一体何を言っているのか分からなかった。ただゴネるつもりで言っただけなのに。

 普通ならごめんねと一言言われて、去られてしまう場面ではないんだろうか。


「だから、都合良すぎって言ったでしょ。あ、でも、東の息臭かったから、ちょっと理想通りじゃなかったな。ちゃんと現実だ」

「いや、どういう、こと?」

「察し悪いね。扶養家族外れるほどここで働いてるんだよ?私ずっとここで働きまくってるのに就活出来たと思ってるの?」

「え、いや、その……」


 ああ、そうか。日本全国どこでも良くて、高卒可、寮付き。そうだ、ここにあったよ。そんな条件の企業が。一番上の階の賃貸用ワンルームはエレベータがないから入居者は皆無だった。


「な、何で言ってくれないんだよ?」

「……翠が絶対言うなって。このまま一緒に働いてたらズルズル同じ状態が続くってさ。今度こそ、本当に頭の中真っ黒に錆びちゃうよ」


 反論の余地がなかった。

 始めて好きになった少女に、なんだかよくわからない状態で気持ちを伝え合って、なんだかよく分からない状態でキスをして、これから携帯電話すら持っていない上に、今後も持ってくれそうもない相手とどうコミュニケーションを取れば良いのかという悩みが、全く杞憂に終わってしまった。

 なんだか、一段通り越した事を思わず伝えてしまって、同意してもらえたのは確かだ。

 ただ、ずっとこのまま一緒に居てくれることに、かすみは納得してくれるのか、自分で良いのか。それがどうしても気になってしまう。このまま時の流れに身を預けて良いのか。


「また先の事考えてるでしょ?」

「い、今は仕方ないだろ。初めてその、なんていうか、大事な相手が出来て、しかも社員で一緒に住んで、こんな状況で今後の事考えるなって方が無理だろ」


 かすみの体が東から少し離れた。


「駄目。どうせそのうち否が応でも過去を振り返って、あーあ、もっと可愛いくて金に汚くない子と付き合いたかったなぁとか思うんだよ」


 やはり東と同じで卑屈だ。


「そ、そう思うなら改善を求めるよ。俺も、何とかするから」

「うん……頑張ってみる」


 静かな箱の中は、まるで世界に二人しかいないような感覚をもたらしていた。

 もう一度重なった唇は、二人の理想通りの雰囲気を伴ってくれた気がした。


「……出ようか?」

「うん」


 ドアを開けた瞬間、全てが帳消しになるのではないか、なんて思ってしまうのは漫画の主人公だけらしい。

 東の腕の中にいるかすみは重たくて、熱くて、匂いがして、力強く東の体に掴まってくれている。

 そして、たくさんお腹が鳴っていた。

 疑う事なんて全く必要ない。羽川かすみはここにいて、日陰東もここにいた。

 奇妙な箱は簡単に二人を外に出してくれて、LED電球を消すと、もうここには戻ってくるなと云わんばかりに、暗い箱に逆戻りしてしまった。

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