第4話 少女の現在

 その後、たった二日で眼鏡は出来上がった。

 まだ二度しか店に行っていないので、色々と調整は残っているらしいが、もうほぼ問題ないレベルで仕上がっているのは明らかだった。


「はぁ、地味なので良かった。選ばせてもらえなかったから心配だったんだよね」 


 完成したいわゆるボストン型レンズの眼鏡をかけたかすみは東にとってなかなか目の毒だった。

 こんなに変わる物かと思うくらい、しっかり似合っていた。

 単なるシルバーの細いシンプルなフレームに見えるが、どの角度から見ても一切の隙がないデザインと柔らかい光の反射は、誰が見ても高級品だと分かってしまう物だ。しかし、かすみの顔の上で浮くことなどまるでなかった。さすが弟子を何人も擁する小針の爺さんの眼鏡としか言いようが無い。

 確か、スターリング・シルバーという素材名のタグが付いていた。とにかく、高い物なんだろう。


「お、出来たか?」

「うわぁ……翠ってすっごい美人だったんだね」

「ああ、東と同じ顔でもしっかり職人として腕を磨けばそこそこには見れる顔になるんだぜ」


 まさか、かすみが人の顔もあまり分からない程目が見えていなかったとは。支障が無いなんてよく言えたもんだ。もしかすると湯温計なんてほぼ見えてなかったかもしれない。

 東に自分の顔について何か言われないかと心配だったが、心を折られるような事を言われずに済んだ。

 何も言われないのもそれはそれで気になるんだが。


「視界が良くて捗るね」


 今まで危うく感じていた事が全て解消していた。

 どれ程視界が悪かったのか分からないが、普段より歩くスピードも早くなっていたのが東には少し心配だったが。

 しかし、後数分で閉店という時間、かすみの両膝は床についていた。


「頭、痛い」

「か、かすみ!? 東! アタシの部屋まで運ぶぞ」

「大丈夫だから、掃除、してからで……」


 東は有無を言わさず、かすみを抱き上げようとしたが、東の力では無理だという気づき、背中に背負う。

 翠のベッドに横たえると、かすみは気を失うように眠りについてしまった。


「かすみの両親呼んでくる」


 と言って出て行った翠は、二十分もしない内に一人で戻って来た。


「ただいま……ダメだ。話にならねえ」


 電話に出ないかすみの親を連れて来ると出て行った翠だが、結局一人で戻ってきた。


「駄目って、家に誰もいなかったの?」


 翠は首を振った。


「ホールナインティーンだよ」

「な、なんでそんなところ?観劇でもしてたの?」


 ホールナインティーンというのはこの片田舎にある数少ない小劇場の一つだ。


「違えよ。かすみの母親の劇団が公演してんだよ。父親もそこで役者やってるよ」

「は、はぁ?」


 東には翠が何を言っているのか理解出来なかった。

 こんな少女の母親が劇団なんてやっているとは思えなかった。


「い、いや、こんな遅くにやるもんなの? 劇って。というかそんな趣味のためにかすみを放っておくの!?」

「寝てるんだから静かにしろ」


 劇なんかよりも、自分の娘が倒れた事に何かを感じないんだろうか。


「……あのな東、世の中にはいるんだよ。かすみの両親みたいに、完全にてめーのことしか頭に無い奴ってさ」


 公演自体はもう終わっていたのに、かすみの母親は客が入らない事に激昂していて、まるで聞く耳を持たなかったらしい。父親はそれを宥めるのに精一杯で、翠はまるでいないかのようにあしらわれてしまったそうだ。

 確かに、娘の仕事ぶりを観に来る事すら一度も無かったが、そもそも興味すら無いとは思わなかった。


「もしかして、それで寮付きの仕事探してたの?」

「だろうな。こいつは自分なりに親に見切りをつけたいんだろ」


 布団がごそごそ動いた。


「……あんまりうちの事情を東に話さないでいただけませんか? これ以上哀れに思われても……あいた!」


 今のかすみの発言は、翠渾身のデコピンを食らって当然だ。

 どれだけ心配させたと思っているんだ。


「ほんとに、ごめんなさい」

「待って」


 東は再び布団に潜ろうとしたかすみを止めた。


「明日でいいから、ちゃんと、話してよ」


 もう、深入りしたら嫌われるのではないか、という余計な気遣いは東の中に無かった。

 かすみが静かに頷く。


「……今でいいかな? 目が冴えちゃって」


 東の返答を待たず、かすみが訥々と語り始めた。

 まるで、どこかのマンガみたいな話だ。それが東の失礼極まりない感想だった。

 かすみの頭痛の原因は、視界が変わった事のストレスもあったのだろうが、一番の原因は睡眠不足だった。


「うちの両親と私って、親子ではないんだよ。血縁上はそうなんだけどね」


 不思議な表現だと東は思った。


「一緒に住むようになったのも中三の夏休み明けからで。母さんにとって私は、なんていうのかな、とりあえず相談する相手みたいな扱いなのかな。突然ひらめいたとか、夜中に起こされる事もあって」

「夜中に…?」


 思った以上の特殊さだった。

 こんな親子関係あって良いのだろうか。


「中三の二学期までは田舎のおばあちゃんの家にいたから、そこから急に今の家の近くの公立高校受験するなんて我ながら無茶したよ」

「え? すごいな。俺受かるの結構ギリギリだったんだけど」

「もっと褒めてくれていいよ? おばあちゃんはもう物理的に褒めてくれる状態に無いしね」


 かすみの顔が一際暗くなる。そのおばあちゃんという存在については言及しない方が良いかもしれない。翠は部屋のローテーブルの前で胡座をかいていた。もうこの話を知っているのかもしれない。


「お母さんが私と話すのは、脚本書いてる時だけなんだよね」

「脚本?」

「舞台のだよ。それがさぁ、ほんっとつまらないの。だからついムキになって、こんなの駄目って何日も寝ないで相手することもあってね。酷いもんだよ。あっちは昼寝て、こっちは学校とかバイトとかしてるってのに」


 かすみが布団を被り直す。


「ここ四日間で、五時間も寝てないかも」


 かすみの眼は赤みを増していた。


「あ、あのね、馬鹿な話だけど、それが我が家流の大切なコミュニケーションだと思ってたんだ……わりと本気で」

「それで、今は間違ってると自覚出来たのか?」


 翠が口を挟む。

 東は翠を嗜めることなんて出来なかった。まさに自分が質問したかった事だからだ。


「う、うん。私は都合の良い話し相手である以外は邪魔な存在なんだと思う。眼がよく見えないって言ったら、あの眼鏡をくれたんだけど、乱視は遺伝だから合うはずなんてさ、子供でも分かるような嘘を無理やり信じ込んでたよ。目が悪くなって、夜中に起こされて、どんどん成績落ちていったのに、何にも聞いてくれなかったよ。だから、もうお母さんとお父さんからちょっと距離を置くようにするから、大丈夫」


「ならよし。明日は十時出勤にするからな。ギリギリまで寝てろ」

「姉さん、明日はせめて休ませてやってよ」


 翠が東を睨みつける。


「休んで解決すると思うか? しっかり寝て、いつものように働きな。それから店長命令だ。就職まではここで生活しろ」

「え? そんな……」


 その言葉を遮るように、翠が霞の頭を撫でる。


「もうお前の親の許可は取ったぞ。返事がないならOKと理解しまーすってな。アタシも毎日車で送るのもダルいんだよ聞き分けろ」

「う……うん。で、では、こんな哀れな子だけど、残り短い間お願いします」


 茶化すように言われてしまうと、何も言えなくなってしまう。


「ほら東、なんか軽く食える物作ってこい。かすみ、食ったらそのままここで寝ろ」

「あ、それなら今日のポークシチュー食べたい」

「え? そんなんでいいの?」


 カフェ銀名物ディナーセットで出した残り物を要求するとは。少しは元気が残っているらしい。

 しかし、かすみのために腕を振るおうとした東の気合は、見事に空回ってしまった。

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