第3話 少女の将来
『Cafe 銀』と書いて『カフェしろがね』。
昭和四十年代に祖父が開店した当初は、純銀や銀メッキの豪華な食器や調度品に、モダンなデザインのインテリアはダークブラウンで統一され、明暗はっきりした美しいコントラストを楽しめる店だったんだそうだ。
東が全く知らない時代の話である。
しかし時は流れ、五年前に四階建てのビルへと建て替えられた後は、新しい店舗に気合が空回りしてしまったのか、祖父が体を悪くし、減力営業を余儀なくされた。
飾られた銀器は磨きが間に合わず、片っ端から黒ずみ、調度品が多過ぎて掃除も行き届かず、窓も出入口にしかないので、真っ暗で陰気なカフェへと成り下がっていた。
そのせいか、昨今は『しろがね』と呼ぶ常連客は少ない。
真っ黒く変色した銀器だらけの『カフェくろがね』という不名誉な通称で呼ばれることもあった。その頃はいっそのこと漢字も『鉄』に変えてしまえばと思うくらいの状態だった。
しかし、その不名誉な呼び名も、日陰翠が店を手伝い始めてから、少しずつ好転し始め、銀器も輝きを取り戻し始めた。
『商店街一奇妙な店は あなたの恋を前に進める……』
開店前の店内で、東はパソコンと向き合っていた。
『前に進むんだよ』、というかすみの言葉をそのまま使ってみた。
曖昧模糊としていてあまり良いとは思えないが、東が書いていた文言よりはずっと良い。
あの箱の中での相談は評判は上々で、若い客が増えてはいるが、東にはその理由がいまいちよく分からなかった。
相談に来るのはほとんどが高校生から大学生くらいの女子で、昨日来ていた同級生みたいに、泣きながら帰る事が多い気がする。
ガラガラとシャッターが開けられる音がした。
「あれ? 早いね」
入ってきたのは高校の制服を着たかすみだった。
今日はフルタイムでシフトが入っているから、どうせ店のユニフォームに着替えるだけだと昨日の服を着て来たんだろう。実にかすみらしい。
しかし、店のシャッターとドアの鍵まで任されているとは知らなかった。
「それは俺の台詞だよ。どうしたのこんな早く?」
「昨日の廃棄食べに来た」
しれっと答える。
「え? 腹壊しても責任持たないからな」
「タイムカード押してないからプライベートだよ」
まぁ、こんな時間に就業されても困る。今日も近隣で卒業式その他があるのだから、フルタイムで仕事をしてもらわないと。
かといって労働基準法も守らなくてはいけないので、残業は極力控えていただきたいところだ。
かすみは灯りも点けずに真っ暗な厨房へと入り、袋を抱えて戻ってきた。
「お、おい、何してんだよ?」
「パン食べようとしてる」
そうじゃない。端切れとはいえ、この地域一番と名高い藤木ベーカリーから仕入れている食パンに焼き色もつけず、そのまま口に運ぼうとしているなど、食に細かいこだわりを持つ東は看過できなかった。
「トースター使えよ。あとバターなんて腐る程あるんだし」
「いただいている立場なんだよ? 余分な光熱費とか使うわけにはいかないの。ほら、バター不足とか続いてるし」
なんて卑屈な奴だと一瞬思ったが、きっと東もかすみの立場なら同じ事をしただろう。
仕方ない。東が立ち上がる。
「あー腹減った。朝飯作ろう。一人で食うのもなんだから一緒に食ってよ」
さっと携帯を取り出して母親に朝飯自分で作る、そして誰も店に来させるなとチャットを飛ばしておく。
「……気を使わせてしまったかな?」
「いいから手伝ってよ」
厨房の奥の大型冷凍庫からもうお客には出せないソーセージやベーコンを取り出し、野菜用冷蔵庫から色の悪くなったレタスの葉を取る。
そして、高級バターを冷蔵庫から引っ張り出した。
「ちょっと、その金色の包みって発酵カルピスバターっていうやつじゃないの? 使ったら翠が怒るよ?」
「ほんのちょっとくらいいよ。あと、今使ってる食材は食っていいからな。電気もコンロもちゃんと使ってよ。うちはただでさえ従業員への待遇悪いんだから」
せっかくかすみに食べてもらうのに、悪くなりかけた食材しか使えないなんて、本当に気分が悪い。調味料くらい高級な物を使いたいところだ。
我ながら変な見栄の張り方だと東は思うが、かすみにはまずいものを食べさせたくなかった。
「うえ?」
食後は、かすみによるネルドリップの練習に付き合う事となったのだが、かすみの淹れたコーヒーのエグ味に、東は声を上げてしまった。
やたら色の悪いサラダに冷凍焼けしたソーセージ、唯一まともなのはホテルブレッドに濃厚な高級発酵バターだったが、その香味は全てコーヒーのエグ味で消えていった。
おかしいな。ここまでまずかった事はないのに。羽川かすみ印のドリップコーヒーはどうしてもちょうど良い水量を見つけられないらしい。
まぁ、昨日挽き過ぎた豆の余りだからというのもあるかもしれないが。
「泡の様子をもっとよく見ないと」
「むぅ。もう一杯練習していい?なんか今日は勘が冴えなくてさぁ」
「どんどんやりなよ」
今更やっても仕方ないとは思うけど、気が済むまでやらせてやりたいところだ。
「はぁ、大金持ちになったら東を執事として雇いたいな」
湯温計に目をぐっと近づけながら、かすみがつぶやく。
「この店は続けたいから店ごと買い取るとかしてよ」
「そうするね。翠の事アゴで使ってやろっと」
全く、何故こんなに翠と仲が良いんだか。
そうだ、今まで訊いていなかった事があった事に、東は思い当たった。
「姉さんとはどこで知り合ったの?」
「知らないの?料理部の講師してもらってたんだよ。人が足りなくなって休部になっちゃったけど」
「ああ、そういう事」
そういえば、店長になる前の翠は、自分の母校でもある東とかすみが卒業した高校の料理部にOGとして顔を出していた。
「最高の部だったんだけどねぇ。部費で物食べられるから食費削るには良かったんだ」
何の臆面も無く答えられると困ってしまう。
かすみはやたらとお金のことばかり気にする人間だ。東はかすみがお金を使っている姿を見たことがなかった。
「でね、このままじゃ腹減っちゃうって話を翠にしたら、ここで働けって言ってくれて。食べ物屋でバイトすればいいなんて発想は無かったから嬉しかったな。お金も前やってたバイトよりずっと早く貯まるし」
高校生の時分で色々やっていたようだ。
これ以上踏み込んで良いのか分からないが、意を決して訊いてみる。
「なんでそんなにお金貯めたいの?」
「もちろん将来のためだよ」
また何の躊躇もなく返答されるとは思いも寄らなかった。
「将来?なんか欲しい物とかあるの?」
「うーん、余裕ある貯蓄……?」
東の想像を軽く越えた答えが返ってきた。
もっと明確な目標でもあるのかと思っていたのに。
「な、なんかになりたいとか無いの?」
「ん? 社会人になりたい、かなぁ……?」
何を言っているんだ。既に高校を卒業して社会人の仲間入りを果たしているはずだと東は思った。
「いや、そんなに頑張ってお金貯めてるならなんか目的はあるんでしょ?」
「うーんまぁ、健康で文化的な最低限度の生活を送るっていう目的はあるよ」
かすみが饒舌に自分について語ってくれるのは嬉しいが、東の頭は混乱し始めていた。
「いや、それは俺達の年で考える事じゃ」
「うーん。そうかな?私なりに未来を見据えてるつもりなんだけど」
それは未来を見据えてると言えるんだろうか。東の混迷が深まる。
「未来を見据えてるなら大学行った方が良かったんじゃ?」
「いやぁ、公立受かる学力ないからさ。奨学金もこの成績だときついし」
これが東には不思議だった。
かすみは暗算が早いどころの騒ぎではない。消費税の計算も切り捨てをしっかりマスターしていて間違わないのだ。
しかも、自分で訓練して早くなったんだという。
そして記憶力だって、忙しい時に多数の客から色々オーダーされてもほぼ覚えていて、後からオーダーを端末に入力するくらいだ。
もちろん頭の回転が学力が直結するかは分からないが、たまに再試験を受けるような成績なのはどうにも合点がいかなかった。
「パソコンとか使えないしね。ここのレジがタブレット端末で助かったよ」
かすみがボロい眼鏡の位置を直した瞬間、東はやっと分かった。
一年間働いていて、全く気づかなかった。
いや、気付くタイミングならたくさんあったはずなのに、ただ、東はあわよくばもうちょっと仲良くなりたいなんて邪な気持ちだけで接していた自分が恥ずかしくなった。
こんな生活をしているかすみが、眼鏡にお金をかけるなんてことはしないだろう。
「かすみ、もしかして眼鏡合ってないんじゃ?」
「え?いやぁ、目はすこぶる悪いけど、見えないって訳じゃないから。普段の生活に支障はないし」
コンコンと、カウンターを叩く音がした。
「姉さん?」
スウェットの上下を着た翠がそこに立っていた。
「何が支障はないだバーカ。かすみ、何度小針のジジイに眼鏡作ってやるって言われてんだ。健康診断と一緒に眼科検診もさせただろ。処方箋もう渡してあんだよ。さっさと行って来い」
翠の従業員へのサービスは随分きめ細かいらしい。東はそんな検診をさせられたことなんてないが。
「い、いやぁ、高校生の時分で小針眼鏡なんて買えないし…」
「眼鏡の一枚や二枚くらいタダで作ってやるって言ってただろうが。第一お前はもう社会人だろ」
随分小針のじいさんに気に入られているんだな。
小針のじいさんが経営する小針眼鏡は金属フレーム専門店で、フレームだけで恐ろしい値段の高級眼鏡店だ。
そんな物をくれるというのは、流石に躊躇してしまうだろう。
「あ、あの、その……チェーンの安い所、近視と乱視が酷すぎて、結構するって言われて」
「へぇ、得したなかすみ。あのジジイならタダで超たけーレンズ込みで作ってくれるぞ」
「得なんてしてないよ!」
東はかすみがここまで声を荒らげるのは見たことが無かった。
「だって、だって、じーさんに作ってもらったらいくらするか分かんないよ!こ、この前連れて行かれた時に値段見たもん!」
「だから得したって言ってんだろ。こりゃ十何万ぽーんともらえるようなもんだぞ。アタシもいつか買おうとは思ってんだよなぁ」
「姉さん!」
黙って聞いていた東も流石に口を挟もうとしたが、翠に睨まれて黙り込む。
そして、東から視線を外してから大げさに溜息を吐いた。
「かすみ聞け。あのジジイが孫可愛さで物をくれるような子煩悩じゃねぇんだ。これはお前が受け取るべき正当な報酬なんだよ……こいつかぁ」
レジ横のシフト表はちょっと見を乗り出せば客にも見える場所に張り出されていた。
「フン。あのジジイこれを見てかすみがいる時間に来てやがったか。うちを昼キャバ扱いしやがって」
言われてみれば、最近小針のじいさんをよく見かける。かすみと話をしに来ていたのか。
翠がかすみの眼鏡に手をかけて奪い取った。
「フレームぐっだぐだだな」
「み、翠!それ無いと、本当に見えないから!」
「これ誰のだ?お前のじゃねえだろ」
「ら、乱視は遺伝だから、お母さんにもらった眼鏡が合ってて」
他人の眼鏡が合ってたまるか。
眼鏡を持っていない東でも分かる事だ。
「店長命令だ。この眼鏡は預かる。東、かすみと小針眼鏡行ってこい。もう八時だしシャッター叩けばあのジジイがいなくても誰かしらいるだろ」
何故か翠のこだわりでIT化されていないタイムレコーダーに、東とかすみのタイムカードが入れられた。
これで二人とも、店長の言うことには逆らえなくなってしまった。
「あ、あの、東、ごめん。連れてってもらえると……眼鏡が無いと気持ち悪くて、目が開けてられなくて」
「う、うん」
東はかすみの手を取ろうとしたが、目をほぼ閉じているかすみはそれに気付かず、探るように東の背中に周り、肩に手をかけた。
「ぶっ!」
翠が吹き出す。
東の手が見事な空振りを決めたことに気付いたらしい。
「い、行ってくる!」
「お、おう、行ってこい!ぷふっ!」
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