第30話 理香7 計画実行
その日は朝から雨が降り続いていた。
理香は、学習教室をさぼり、部屋で今日の計画について考えていた。地下に行き、まずはどう行動するか。事務局に入り込む際の新との計画は、前と同じ様な段取りではあるが、うまくやれるかどうか……。そんな事を考えていると、部屋のチャイムがなった。理香がモニターを見ると、そこには高谷が映っていた。
「先生、どうしたんですか? ちょっと待ってください。今開けますから」
理香は慌てて玄関へ向い、ドアを開けた。
「あ、ごめん、突然。今、大丈夫だった?」
そこには白衣を着ていない高谷が立っていた。
「え、大丈夫ですけど、今日は先生、仕事お休みなんじゃあなかったですか?」
今日、あの計画の実行日にしたのは、高谷が休みであるからという理由も入っていた。いくら変装したからといって、高谷と事務局で会ってしまっては元も子もない。
「いや、休みなんだけど、忘れ物と用事があって、ちょっと寄ったんだ。そしたらまた君が教室に来てないって聞いて、昨日の問診での様子も変だったから気になってね。ちょっと様子を見に来たよ。大丈夫? どっか具合でも悪い?」
高谷は鋭い。今回の事でも、彼に色々な嘘をついてしまったが、嘘をつく度に、全てを見透かされている様な気分になった。まるで全てを分かっていて、黙認しているのではないかと思わせるぐらいだ。
「いえ、ちょっと最近生理痛が重くて……。ちょっと悩んでたんです……」
理香は咄嗟に嘘をついてしまった。しかも男性があまり追求しないような内容を瞬時に選んだ。高谷に嘘をついている罪悪感と自分のずる賢さに嫌気が差す。
「あ、そうか、そうなんだ。ごめん。何か胸騒ぎがして、気のせいだったみたいだね」
高谷が理香を見つめた。理香は目をあわす事が出来ず、そらしながら言った。
「先生らしくないですね、そんな胸騒ぎなんて。大丈夫ですよ」
「そうか、それならいいんだ。急に悪かったね。じゃあ」
そう言って高谷は体の向きを右に回転させると、エレベーターの方へ歩いて行った。理香はその背中を見つめながら、強い罪悪感にさいなまれていた。
「私を守ろうとしてくれている人を裏切る事になる……」
そう思うと、彼女の体の中心、みぞおちの奥がぎゅうっと痛んだ。彼女の中にいる誰かが理香を止めようとしている様にも思われた。
「止めないで。私は私のやり方で未来を手に入れるんだから」
理香は深く深呼吸をすると、部屋の中に戻って行った。
新には、白衣やら鍵やらの道具を持って、まず彼の部屋に来るように言われていた。夜も9時をまわり、静けさに包まれた棟の中を、理香の住む36階から、新の住む12階までエレベーターで移動する。彼の部屋の前に来ると、理香はチャイムを鳴らした。しばらくして新が出てきた。
「よ、お疲れ。さ、入って。あ、でも静かに入ってくれ」
そう、促され理香は静かに部屋の中に入っていった。なぜ静かに入らないといけないのかと、彼に尋ねようとした時、彼の部屋の中に、人の気配を感じた。
「え、どういうこと……」
理香は小さく呟いた。そこにはソファーで横になる1人の女性が居た。彼女は深く眠っている様だった。
「彼女、俺の担当医」
新が小さな声で説明する。
「睡眠薬でさ、ちょっと眠ってもらってる。彼女も自分が処方した睡眠薬を、自分で呑む羽目になるとは思ってなかったと思うけど……」
彼はそう言いながら、目元は鋭いまま、口元をにやつかせる。理香のあまり好きでない彼の表情だった。そして新は彼女の持ち物であろう、花柄のパスケースを理香に差し出した。
「お前が戻ってくるまで彼女には眠っててもらう。お前はこのカードキー使って事務局に入れ」
新は淡々と説明する。
「ちょっと、こんなの計画と違うじゃん。どういう事?」
理香は新を睨み付けた。
「お前は前と同じ要領で事務局に入り込もうとしてたみたいだけど、はっきり言ってあんなのリスク高すぎ。あんな危ない橋は俺も渡りたくないし、より安全な方法を選んだだけだよ。大丈夫。彼女とさっきまでホントに酒飲んでたから、本人も酔いつぶれて眠ったって思うはずだよ。こっちの事は気にせず、お前はこのカード使って、1時間で帰って来ればいいんだよ。な」
短い付き合いだが、新には少し恐さを覚えるほどの大胆さがある、と理香は思っていた。初めて事務局に忍び込んだ時もそうだった。そんな部分を自分と似ていると感じているのも確かだった。
「最初からこのつもりだったでしょ?」
理香はため息混じりにそのパスケースを受け取った。
「いや、ずっとどうしようか考えてた。こんなにうまくいくとは思えなかったし。ま、彼女が意外と簡単に俺の誘いに乗ってくれたから、これはいけるかなって」
そう言いながら新は彼女が掛けていたであろう、ダイニングテーブルに置いてある茶色いセルフレームのめがねを手に取った。
「見難いだろけど、これも掛けてけ」
新はそう言いながら理香にそれを手渡した。理香はパスケースを受け取った手でそのめがねも受け取り、逆の手で持ってきた自分のバッグを抱えなおした。
「ちょっと洗面所で着替えさせてもらうから」
髪を一つに結び、白衣を羽織り、めがねをかけ、ピンヒールを履いた理香は、いかにも女医風だった。遠めだとリビングで眠っている女性にと大差ないだろう。準備の終わった理香を、新はエレベーター前まで見送った。
「気を付けろよ。2時間経って戻んなかったら、どうにかして俺も地下に行くからな。事務局のドアも、地下に通じるドアもどうにか開けて置けよ」
「チン」エレベーターが到着する。
「大丈夫。ちょっと見てくるだけだから。ばれっこないって。じゃ、1時間後」
そう言って理香はエレベーターに乗り込んだ。腕に付けた時計を見ると、時間は9時半を回わっていた。
事務局のドアは花柄のパスケースをかざすとすぐに開いた。緊張からか、ドアノブを押す手が汗ばんでいる。ゆっくりとドアを引くと、10名弱の医師がデスクに向っているのが目に入った。やはりいつもより人数が少ない。理香は新に言われた通り、ドアが閉まりきらないように持っていたペンを静かに床に落とし、ドアに挟んだ。そしてそのまま会議室と書かれた地下へのドアの方へ向う。しかしその時、今入って来たドアから突如音が鳴り始めた。
「ピピピ、ピピピ……」
理香は心臓が飛び出そうになった。何がいけなかったのか。恐怖で振り返る事も、足を止める事も出来なかった。後ろで声がする。
「ちょっと」
また鼓動が早まる。理香は今度はゆっくりと後ろを振り返った。ドア付近に座っていた男が、ドアを片手で持ちながらこちらを見ていた。
「ドア、しっかり閉めて下さいよ~」
そう言うとその男はペンをどけてドアを閉めなおした。それと同時に鳴り響いていた音も止んだ。どうやらしっかりと閉め切らないと、音が鳴るシステムになっている様だった。
「すみません……」
そう小さく呟き、理香はペンを彼から受け取りに戻った。彼は理香が戻るのも待たずに、近くのテーブルにペンをバンっと置くと、やりかけであったのだろうデスク作業に戻った。いつもドアを閉めなおす役をさせられ、怒っている風だった。自分の正体がばれた訳では無い事にほっとしたが、新の助けは期待できない状態になってしまった。絶対に1時間で戻らなければならないなと理香は思った。
持っていた鍵で会議室のドアを開け、暗い階段を降りながら理香は心の準備をした。とりあえず何かこの場所に関する情報を手に入れて戻らなければ……。階段は想像以上に長かった。地下5、6階分ほど下がったところで今度は2重になったガラス張りの自動ドアがあった。ドアの横にはカードスキャナが付いている。理香がパスケースの中のカードを取り出した。そしてそこにかざすと、ドアはすんなりと開いた。もし新がこのカードを用意してくれていなかったらここで足止めになっていただろう。理香は心の中で新にお礼を言いながらカードをケースにしまおうとした。その時、カードの裏側に何か手書きで文字が書いてるのをみつけた。
「7・1・9・2」
それが何を表すのか、理香には分からなかったが、きっと何かの役に立つ様な気がして、その番号を頭に焼き付けた。そしてそのドアを通り抜ける。2枚目のドアが開くと、気圧の違いで、風がフワッと通り抜けた。ドアの向うは、今まで階段で降りてきた分の高さのある、天井の高い、だだっ広い空間だった。所々に大きなコンクリートの柱があり、まるでパルテノン神殿の様な面持ちだ。しかし窓は無く、室内は薄暗い。低いパーテーションで小さく仕切られた中に、デスクとコンピューターが設置されている個人ブースが、無数に、整然と置かれていた。ここからはずいぶん離れているが、奥の壁は一面が巨大なモニターとなっていた。今はそのモニターには日付や時間、天気などの情報が端に映されているのみで、特にそれ以外の情報が映し出されてはいなかった。理香はそこに立ち尽くすのは不振に思われると考え、入り口から足を踏み入れると、左側の壁伝いにゆっくりと歩いていった。足を一歩一歩進めながら、次に何をしようかと辺りを見回した。ひんやりとしたコンクリートの床は、足を進める理香のピンヒールの音を必要以上に響かせた。理香はなるべく音が響かない様、かかとを浮かせる形でゆっくり歩いた。立って歩いていると、近くにあるパーテーションの中は覗く事が出来た。そこに置かれたコンピューターの中で、人が座っていない場所の殆どの画面は暗く、起動されていないように見えた。何か、自分でも操作できるような物が無いかと目を凝らして探していると、左奥の隅のほうのブースから男性医師が、急に飛び出してきた。体の向きをこちらに変えると、耳を押さえながら、何か話している。
「ちょっと遠いんで、10分くらい待っててもらっていいですか? 今迎えに行くんで……」
そして走り出すと、理香の横を小走りで通り過ぎていった。耳に付いた電話で誰かと話していたのだろう。彼が立ったブースの中を見ると、コンピューターの画面は明々と光っていた。彼は「10分で迎えに行く」と話していた。という事は、往復で考えると、20分はこの席から離れるという事になるだろう。そう考えた理香は辺りをもう一度見渡し、今の様子を見ていた人がいない事を確かめた。そして体をかがめ、すっとそのブースの中に入った。理香が時計を確認すると、時間はちょうど10時になっていた。
席に座った理香は掛けていた度の合わない眼鏡を外し、目の前にある画面を見た。そこには『最近使われた項目』という見出しの下に幾つかの四角いボタンが並んでいた。大半がアルファベットの羅列で、理香には意味が分からなかったが、その中で『検診履歴一覧』と書かれたボタンがあった。理香には触った事の無い代物ではあったが、普段高谷など、この施設の医師が使っている携帯端末に似ていたので、とりあえずその医師達の真似をして、画面上のボタンに触れてみた。
画面は、一度暗くなったかと思うと、再び明るくなり、何か文字の書かれた表の様なものを映し出した。
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