第23話 私 叶5 選択
映見の部屋を後にした2人はエレベーターの方へ歩いて行った。
私は28階に住んでおり、木下武人は25階に住んでいた。
2人で上へ向かうエレベーターに乗り込む。
武人が25と28のボタンを押そうとしたが、一瞬間をおき、振り返った。
「ちょっと酔い覚ましにフリースペースにでも寄って行かない?」
私は特に断る理由も無く、
「いいよ」
と答えた。
エレベーターは30階へと向かった。
フリースペースは時間が遅い事もあって、人影が1人奥の方に見えた以外、他には誰もいなかった。
ガラスの扉を開け、奥へと入って行く。
窓に向いているのスリーシーターソファーの左端の席に座ると、何も言わず、武人がコーヒーを自動販売機から買ってきてくれた。そしてそのソファーの右端に腰掛ける。
「明日、クリスマスイブだね」
武人が言う。
「ああ、そうだね。そういえば、私ってクリスマスの事もこの前まで忘れてたんだ」
1カ月前、世間に溢れるクリスマスというものの事について、一生懸命調べあげた事を私は思い出した。
「昔の記憶と一緒に消えてしまってたみたいで。先生はクリスマスに何か忘れた方が良い経験が含まれてたんじゃないかって言ってた」
私がそういうと、武人は少し悲しそうな顔をしていった。
「そうなんだ。皆がこんなに楽しそうな時期なのにね……。今はクリスマスって聞いてどんな気分なの?」
私は少し考えてから答える。
「ん~、なんか嫌いじゃあないかも。昔の自分の事を少し考えちゃったりするけど、考えてもどうにもならないしね。皆と同じく楽しもうって感じ」
武人はそれを聞き、ほっとした様な顔をした。
「そっか。良かった。俺もクリスマス好きだからさ」
武人の童顔で小さな顔にくっついた、円らな瞳が、笑顔で横に細く伸びるのを見ながら、この人の生きるに耐えられない過去とは、いったい何だったのだろうかと考えてしまった。
こんなに笑顔が似合う人はそういないだろうに…。
そんな事を考えていたら、いつの間にか沈黙が続いていた。ふいにその沈黙を武人が破る。
「あのさ」
武人の手は缶コーヒーをぎゅっと両手で握り締めている。
「明日、映画でも行かない?」
下をむきながら武人が言う。私はそんな武人を横目で見ながら答える。
「え、いいけど、明日ってそのクリスマスイブのせいで、チケット完売してるって聞いたよ。いきなり行っても見れないんじゃない?」
まだ武人は顔を上げずにコーヒーを握っている。
「いや、チケットはもう取ってあるんだ。叶ちゃんを誘いたいと思って」
それを聞いて武人の様子が少しおかしな理由がわかった。
最近私が考え始めた事を、武人も考えていたのだろう。
これは、デートに誘っているという事だと気付くと、突然こちらも顔を伏せてしまった。
答えはもう頭の中にあったのだが、口に出るまでに少し時間がかかった。
私が顔を上げてそれを武人に伝えようとした時、目線の先、入り口付近の廊下からガラス越しにこちらを見ている人影が目に入った。
良く見るとそれは高谷だった。
照明を背にしているので、はっきりとは見えないものの、顔は今までに見た事の無い、冷たく厳しい表情をしていた。その表情に背中が寒くなるのを感じる。こんな時間まで仕事だったのだろうか。
「叶ちゃん。どうしたの?」
返事もせず、遠くを見つめる叶を見て、心配そうに武人が尋ねる。私は返事をしていなかった事に気付き、
「あ、ごめん」
と目線を武人に戻した。
「今なんか担当の先生が……」
そう言って目線を入り口に戻すとそこに高谷の姿は無かった。
「あ、ごめん。見間違いかも……」
そう言って武人に目線を戻すと、武人は少し困った様な顔で言った。
「あの、それで返事は……」
私は慌てて答える。
「もちろん、喜んで行かせて頂きます」
そういうと、武人は肩の力が抜けたように椅子にもたれかかり言った。
「良かったー」
私達は目をあわせると、照れ隠しに笑った。
クリスマスイブの朝、私はダイニングテーブルに座り、自分で入れたココアを飲みながら、高谷が来るのを待っていた。
今日も朝から問診の予定だった。
いつも朝七時半の1、2分前には呼び鈴が鳴る。
しかし今日は7時35分になっても高谷は現れなかった。
私は昨日の高谷らしき人物の人影を思い返していた。なぜあんなに厳しい顔をしていたのか。何か悪い事をしていた訳でもないし、もし私達がカップルの様にみえたとしても、この施設の中で恋愛が禁止されている訳ではない。何か見間違えな気はしているが、高谷が珍しく時間に遅れている事が少し気になった。
「ピーンポーン」
ようやく玄関のチャイムが鳴る。私はゆっくりとドアへ向かう。
「ごめん。ちょっと会議が長引いて遅くなった」
普段と全く変わりない様子で高谷はやってきた。やはりこちらの取り越し苦労だった様だ。
「先生らしくないんで、心配しちゃいました」
そう言いながら部屋に戻ると、私は高谷用のコーヒーをダイニングテーブルに置き、自分は、もともとこの部屋に置いてあった、花柄の小さな一人がけ用ソファに座った。
「じゃあさっそく始めようか」
高谷はそう言って、いつもの問診を始めた。
特に変わったことも無い私は、いつもの様に受け答えをし、問診はあっという間に終わった。時間はまだ7時50分だった。まだ十分ほど時間があると思った私は、疑問に思っていた昨日の事を高谷に聞いてみた。
「見間違えっだたのかも知れないんですが、先生、昨日の夜11時頃、30階にいました?」
それまで、にこやかに問診を進めていた高谷の顔が少し曇った。
「ああ、いたよ」
もともと低い高谷の声がより一層低く感じられた。
「あ、やっぱり先生だったんだ。私がいたの気付きました?」
私は尋ねる。なぜ厳しい顔だったのか知りたくなった。
「ああ、木下君と一緒にいたよね」
やはり高谷の声は低く、いつもと雰囲気が違う。
私は昨日の廊下で見たあの顔を思い出した。普段は穏やかな高谷からは想像も付かない、つりあがった目元に深く下がった眉、あの目元を思い出すと、次の言葉を発する事が出来なかった。
「君達は付き合っているの?」
高谷がストレートに質問する。問診の時とはまるで雰囲気が違う。
「いえ、まだ……。でも、今後はそうなるかもしれません……」
私はゆっくりと、恐る恐る答えた。それを聞くと、高谷は下を向き、小さくため息をついた。どういう事なのか、次の高谷の言葉を待っていると、高谷は一口コーヒーを飲み、顔を下げたまま、私を見ずに言った。
「彼だけはだめだ」
高谷の顔は、冷静だったが、口調は厳しかった。
「え?」
私は聞き間違えたのではないかと思い、聞き返してしまった。すると高谷は繰り返した。
「彼だけはだめだ。恋愛が駄目だとは言わないが、彼とは付き合わないほうが良い」
コーヒーカップを眺めたままそう話す高谷に、私は怒りにも代わる様な違和感を覚えた。
「なぜそんな事言うんですか? 彼の過去の事、何か知ってるから止めておいた方が良いって? それっていつも言ってる事と全然違うじゃないですか。いつもはここに来たらもう生まれ変わったと思ってやり直せっていってるくせに。どういう事ですか?」
話しているうちに、つい荒げた口調になってしまっていた。しかし高谷の意思は変わらない。
「いつも言っている話とこの話は別だ。過去とも関係ない。今、私は君の友人として、言ってる。頼むから、彼と付き合うのだけは止めてくれ」
高谷はずっと顔を上げずに話していた。自分の言っている事が担当医としての発言にふさわしくないとわかっていて、顔を上げ堂々と言う事が出来ないのだろう。彼の、医師としてのプライドを無くしてまで、その事を私に伝えなければという強固たる信念が、より一層私を苦しませていた。そんな事は無理です、彼とは付き合います、と軽く言えるほど、高谷の存在は私にとって軽いものではない。しかし、分かりました。と即答できるほど、武人への思いも既に私の中で無視できないものになっていた。
「どうして、そんな事言うんですか。頼むなんて言い方止めてください」
私は混乱していた。どうすればこの状況を納得し、解決する事が出来るのだろうか。
「そんな事を言うんだったら、彼と付き合うのが何故駄目なのかを説明して下さい。彼にも、誰にも話さないって誓います。それで納得がいけば、彼とは関わりを持たないようにします」
私は言った。それ以外、自分が納得できそうな方法は無いと思われた。今の高谷であれば、話してくれるかもしれないと思った。
ずっと顔を下ろしていた高谷が、先程とは打って変わった、悲しげな表情で顔を上げた。
「それは……できない」
即答だった。やはり住人の過去は絶対的秘密事項なのだ。
「それを聞かずして、彼を諦める事は難しいです……」
高谷はしばらくの間黙っていたが、再び話出した時は、いつもの優しい口調と、表情に戻っていた。
「彼の事、好きなんだね?」
高谷がそう私に問いかけた時、胸にぎゅっと痛みが走った。それがどういった感情から来るものかは分からなかったが、とても苦しい事には違いなかった。武人の事を思って胸が苦しくなったのかも知れないと思った。
「多分……。この状況だとまだ分からないです……」
私がこう答えると、高谷は落ち着いた声でいった。
「理不尽な事を言ってすまなかった。この事については、またゆっくり話をさせてほしい」
高谷は立ち上がり、いつものようにカップをシンクにおいた。
「じゃあ、良いクリスマスを」
そう言って、ソファーに座る私を置いて、一人で玄関から出て行ってしまった。カチャッとドアを丁寧に閉める音が聞こえた。それがまるで高谷の優しさを物語っているようだった。
その優しい高谷の言った言葉に、きっと嘘は無い。あったとしたら、私が幸せにになる為の嘘に違いない。
そうだとしたら、私と武人とでは幸せにはなれないのかもしれない。
掴み掛けていた心を満たす何かが、スーッと消えてなくなった気がした。
昼も一時を回り、映画館前での待ち合わせの時間まで、あと十五分だった。用意は万端だったが、心の準備が出来かねていた。時計を見てはため息をつき、先程の会話を思い出していた。このまま行くべきでは無いのか……。と、その時玄関のチャイムが鳴った。ドアフォンのモニタを確認すると、そこに居たのは武人だった。慌ててドアを開けに行く。
「ごめん、なんか待ちきれずに来てしまった」
そう言うと彼は、後ろに隠し持っていた、小さな二つの雪だるまの入ったスノードームを、私に見せた。小さなガラス球の中で雪がチラチラと舞っている。
「これ、良いでしょ? プレゼント」
さっきまでの暗い気持ちはその雪だるまたちと、武人の嬉しそうな笑顔が、吹き飛ばしてくれた。
「用意できてた?」
という武人の問いに、
「準備万端!」
と私は答えた。その時、少しでも長くこの楽しい時間を送りたい、という自分の気持ちに逆らわない事に決めた。
その日の映画は、クリスマスイブに色々な人に降り注ぐ奇跡。といった内容の映画だった。普段の私なら、十分に楽しめるものであったはずだが、今日の私には、まるで楽しめなかった。
大きなスクリーンで各国のクリスマスの様子が流れるたび、あまり良い気分ではなかった。そしてその後のディナーでの会話も散々なものだった。その後武人に、部屋に寄って行くか尋ねられたが、実は体調が悪いとか何とかの理由で、断ってしまい、結局二十三時には、部屋のベッドの上で、先程武人からもらったスノードームをボーっと眺めていた。
今日は色々と考えすぎたのか、頭痛もしていた。体も疲れており、そのまま眠りに落ちそうになったその時、手から滑り、スノードームが床に落ちた。
拾わなくてはと思いそのスノードームを良く見ると、それには、先程までは無かった赤い血が付いていた。
良く見るとその床も何か様子がおかしかった。
いつもの床は絨毯が敷いてあるが、スノードームの落ちている床はフローリングだった。
私は、おかしな事が起きていると思ったが、体は既に思った様には動かない。
目線を床から少しあげると、小さな長い黒髪の女の子が床にぺたりとしゃがみこんでいる。血はその子の髪の毛にもまとわり付いている。そしてその子が大きな泣き声を上げた。
「うわぁ~!」
その声と同時に私は体を起こした。
今叫んだのはどうやら自分の様だ、床に落ちたと思っていたスノードームはまだしっかりと自分の手に握り締められていた。
そこでようやく今自分の身に何が起きたかを理解する事ができた。
どうやら私は、あまり良くない夢を見てしまった様だった。
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