第12話 私 叶2 働く

 その後はいつも通りの質問が続き、8時前には問診が終わった。

 高谷は担当している住人が他にもいるようで、いつも決まって8時前にはこの問診を終わらせる。


 高谷が部屋を去った後、私はもう一度鏡を見たり、トイレに行ったりしてから、レストランに向かう為部屋を出た。


 エレベーターを待っていると、ガラスに映る自分の肩が、自然に力が入り、少しあがっている事に気付いた。あ、自分は緊張しているんだな、と思った。一つ大きく深呼吸をする。大丈夫。少しずつ、前に進まなければ。


 店に行くと、何人かの従業員が既に開店の準備をしていた。その内の1人、入り口付近でメニューを用意している、小太りな中年の女性に声をかける。


「あの、今日からお世話になる江崎というものですが……」

 そう言って少しはっとする。自分で自分の名前を江崎と言ったのは初めてだった。


「ああ、江崎さんね、店長から聞いてるわ」

そういうと彼女は、そこにメニューを置いて、店に戻り、レジの奥のエリアへと案内してくれた。


 「まずはここのモニターで出勤ボタンを押す」

 ロッカールームのドアにはシート状のタッチパネルがくっついていて、そこには既に江崎叶という文字も並んでいた。その他二十人近くの名前が並んでいる。名前の横の出勤ボタンを、彼女が代わりに押してくれた。


「それで……、ここでこの制服に着替えたら、あたし、レジ付近に居るから、声かけてちょうだい。あ、ちなみに私の名前は、島田怜子。よろしくね」


 島田さんは喋りながら手際よく制服を用意すると、足早に戻っていってしまった。いかにも肝っ玉母ちゃんと言った風貌で、この環境でなかったら、確実に子供が3人程いる、主婦のパートだろうと思うところだ。

 私は、言われるがまま、その、長めのグレーのスカートとシャツとエプロンが一体化した様なワンピースの制服を着用し、レストランのレジの方へ急いだ。


「あ、島田さん……」


 と言うか言わないかのところで島田さんは振り返った。


「あら、似合うじゃない! かわいらしい! 良いわね、若い子は何でも似合ってね」


 島田さんは、大きな目をこちらに向け、ニコリと笑った。若くて、今より痩せていたりしたら、凄く綺麗だっただろうな、とつい色々想像してしまう。そして、私が返答を考えつくより少し早く、島田さんは手に持っていた、塗れた台布巾を手渡してきた。


「まずは、これで、丁寧にテーブルを拭いてくれる? 奥の方から順にね。そしたら開店前の朝会があって、開店だから、他はその都度教えるから心配しないでね。それじゃあ、宜しく!」


 布巾を渡された私は、とりあえず言われたとおり一番奥の席へ向かった。ここへは食事をしに、何度か来た事があったので、百五十席以上ある広い店内だが、迷わず一番奥であろう席から作業を始める事ができた。初めから、出来ない人間だとは思われたくないので、四人がけボックス席のプラスチック製の白い机を、一生懸命拭いていると、後ろから声がした。


「今日からここで働く方ですか?」


 机拭きに熱中していた私は、突然声をかけられ、びっくりして振り返った。

後ろに立っていたのは、私が着ている制服と同じ色のグレーのスーツを来た、長身の男だった。


「あ、はい。そうです。江崎叶と言います。宜しくお願いします」


 私は頭を下げ、だんだんと馴染みだした自分の名前を伝えた。この様な名乗る作業を繰り返す事で、私は本当に江崎叶に成っていくのだろう。


「こちらこそ。 僕は木下武人です」


彼も頭を下げた。短髪の黒い髪に、がっしりとした体系だが、顔はどちらかと言うと童顔で、年齢不詳だ。


「机拭くんだったら、除菌スプレー使うといいですよ」


 彼が言った。


「あ、はい。でもそのスプレーってどこにあるんですか?」


 私が聞くと、彼は1つ1つの机に配り途中だったメニューの束を、1番近くの机において、言った。


「掃除道具入れの場所、教えますよ」


 大きな歩幅で歩き出した彼に、早歩きでついて行くと、レジ後ろ、ロッカールームへ続く道の奥にそれはあった。


「ここに洗剤のストックとかも入ってるので」


 私はそこから除菌スプレーをとり、先程の場所へ戻り作業を再開した。


木下の方もメニューを再び各机に配置していた。手際の良さから言って、入ったばかりという感じではなさそうだ。私も負けじと机を拭く作業を進め、最後の1つとなったところで店長の声が響いた。


「朝会はじめまーす」


 島田さんの読みはほぼぴったりだった。

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