第11話 私 叶(かなえ)

 私がここへ来て、江崎叶になってから、3ヶ月が経とうとしていた。

 始めは色々な事に違和感があった。


 生活がこの棟の中で殆ど問題なく送れてしまう事や、この様な環境下にありながら、周りの住人が、極普通に、穏やかに暮らしている事が少し不思議に思えた。入って1カ 月程した頃には、隣に入居してきた30代後半くらいの女性の住人が、下のマーケットで買ったであろう菓子折りを紙袋に入れ、


「隣に入居します、武田です~」


と丁寧に持ってきたりもした。

 まるで、自分からここへ引っ越してきた様な素振りだ。まあ、ある意味自分の意思でここへやってきたのは間違いではないが……。


 そんな普通の日々が続くと、何かここで自分が江崎叶として生きているという事にあまり疑問も感じなくなった。

 そして今日からは30階のレスト30で仕事を始めるという事になっていた。

 朝7時過ぎ、私は殆どの身支度を整え、高谷が朝の検診にやってくるのを待っていた。


「ピーンポーン」


 呼び鈴が鳴った。部屋のモニターを見ると高谷が映っている。私は直接玄関に向かい、ドアを開けた。


「おはようございます」


「ああ、おはよう。あれ、今日は用意万端だね」

 メイクも着替えもばっちりの私を見て高谷が言った。


「ええ、今日から、上で仕事ですから。さあ、どうぞ」


 そう言って、高谷を招きいれた。3ヶ月経って、この部屋はすっかり自分の部屋だ。


「じゃあ、さくっと終わらせよう」


そう言っていつもの電子端末に目を落とし、いつもの質問を始める。


「夢は、みた?」

「見ていません」

「今日の日付は?」

「2061年11月24日」

「来月の今日は何の日?」

「え?」

突然のいつもの流れとは異なる質問だった。


「来月の今日は何の日?」

電子端末から、顔を上げずに、同じ口調で高谷が繰り返す。


「あ、クリスマス、イブ、ですか?」


私がしどろもどろに答えた。すると高谷は驚いた様な顔でこちらを見上げた。


「なぜ、そう思うの?」

少し眉をしかめながら高谷が聞いた。


「あ、昨日、一階の靴屋で、新しい靴を買ったんです。そしたら店の張り紙に、クリスマスセールの予定っていう張り紙があって、クリスマスという響きは覚えがあったんですが、何の事か分からなくて、気になって詳しく店員さん聞いちゃったんです。だめでしたか?」


 私は、焦りながら、昨日の出来事を答えた。しかし正確に言うとそれだけではなかった。映画や雑誌に出てくる、国内の一大事の様に取り扱われたイベントを、自分が理解できていないことが、まるで皆に取り残されているようで、嫌だった。そして色々な手で調べ上げたのだった。


「ああ、そうだよね。これだけ周りも騒いでいたら、忘れたままの方が変だよね。すまない。了解。では次……」


「あ、あの……」


私は、聞いても仕方が無いと思いつつ、つい尋ねてしまう。


「私が、クリスマスを覚えていたら良くなかったのですか? 忘れるべき記憶の中に、クリスマスも含まれていたって事?」


 高谷は少し困った顔で答えた。


「そうかも知れないし、違うかもしれない。申し訳ないが、僕だって君の全てを知っている訳じゃないんだ。ただ、記憶に無いって事は、過去の君にとってあまり良い記憶では無いのかも知れないね」


「そうか、そうなんですか。皆、こんなに楽しそうなイベントなのに……」


 昔の自分が少し可哀想になった。皆がこんなに浮かれているこの行事を、過去の自分は消し去りたいほどに感じていたのだと思うと、やはり何故だか知りたくなる。


「だめだよ。あまり過去の事を考えちゃ。せっかくクリスマスを楽しめる人生がスタートしたんだから、それを無駄にしない。わかった?」


高谷に、私の考えはお見通しの様だった。


「はい。すみません……」

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