第4話 ことね2 出会い
ここへ来たばかりの頃、ことねは誰にも口を開かなかった。
十四歳というまだ未完成の人間に、突然この状況を飲み込ませるというのも、無理難題だった。担当の高谷とも会話は殆どなく、医者達の間でも、言語中枢に異常が出ている可能性ありと診断されていた。
しかし、学習教室という、義務教育期間にあたる年齢の住人が、学校代わりに通う場所での彼女の国語の成績には問題が無いことから、しばらくは経過観察という処置がとられていた。
1ヶ月程たった頃、ことねはぼんやりと中庭のカフェエリアのベンチに座り、ココアを飲んでいた。
周りでは色々な人が、おしゃべりをしたり、本を読んだりしていた。その人たちの表情を眺めながら、なぜそんなに平然と、楽しそうに笑ったり、はしゃいだり出来るのだろうかと考えていた。
こう言うとまるでその人達の事をさげすみ、馬鹿にしていたかの様に思われるかもしれないが、純粋にその事が不思議だったのだ。自分はどこの誰かも分から無いのに、何かを楽しいと思ったり、他人に対して優しい気持ちになったり、何故出来るのだろうか。自分はそうなれるだろうか。
塞ぎこんだ気持ちが胸の中からあふれ出し、ため息となって口から出てきた。
「はぁ……」
その時だった。座っていた、ぎりぎり2人掛けくらいのサイズのベンチに、何も言わず、どかっとお尻を割り込むように腰を掛けてくる、少しぽっちゃりした少女がいた。それが晴香だった。
「なんだ、ため息は出るんだね。全然しゃべらないから、声は出ないのかと思ってたよ」
そう言うと晴香はことねに向かって笑いかけた。
「私、田辺晴香。多分あなたと同じくらいの年齢だと思うよ。あなたが持ってるのと、同じ教科書持ってるから。学習教室でもさ、あなたなーんにも話さないよね。言葉まで忘れちゃったの?」
ことねは晴香の問いに、小さく首を振った。
「そっか。まあ、なんとなく気持ち分かるけどさ。ここに来たばっかの頃は、私も何も感じなかったもん。悲しいとか、楽しいとか。周りの環境に心が追いつかないって言うかさ」
彼女は、体が大きいと言う事もあってか、少し大人っぽく見えた。早口で話す度にあごの下についたもち肌のお肉が揺れている。肩につくかつかないかくらいのミディアムヘアーはきちんと手入れされており、指の爪には透明のマニキュアが塗ってある。、髪を耳にかける度、きらっと光った。一般的な中学生の女子みたいに、おしゃれをしたり、雑誌を見たりしているんだろうなとことねは思った。そして自分の耳下までの短い髪を触り、ぱさぱさなことに気付くと、晴香が少し羨ましくなった。
「でもさ、せっかく生まれ変わったのに、もったいなくない? しゃべんないの、つまんなくない?」
こちらの返答は気にしないといった感じで、晴香は次々と一人で話を続けた。
「今はさ、私ってすごい可哀想!とか思ってるかもしんないけどさ、ここにいる人みんな同じだよ。みんな辛い中生きてるんだよ。勇気出して乗り越えないと!」
痛い事を言われた気がした。そんなことわかってる!と言いたかった。大きな声で説教なんかしないで! と言いたかった。ことねは少し強張った顔で晴香を見返した。もしかしたら睨み付けた様に見えたかもしれない。しかし晴香はまったく動じず、次はちょっといたずらっぽい顔で口をことねの耳に近付け、小さな声で話し出した。
「だってさ、ほら、あそこに座ってる男の人いるでしょ」
そう言いながら晴香はカフェで一人、新聞を読みながら、コーヒーを飲んでいる、頭の頭頂部だけ髪の薄い男の人を指差した。
「あの人のトラウマってなんだったか知ってる?」
晴香はことねの顔を覗き込んだ。ことねは首を振る。突然の話の流れにさっきの怒りも忘れてしまい、なぜ晴香は他の人の過去を知っているのかという疑問が沸く。
「あの人、自分が頭のてっぺんがハゲてるのが嫌で嫌で、それを忘れたくてこの施設に来たんだよ。自分がハゲが嫌だったって事は忘れられて、今は幸せなハゲだけど、結局ハゲてんだよ可哀想じゃない?」
晴香は続ける。
「あ、あそこのちょっとお顔が残念なお兄さんいるでしょ。あの人は、大好きな彼女に振られて、彼女のこと忘れたいって、傷心でここに来たの。でもね、噂じゃ昨日12022の美人なお姉さんに告って撃沈したんだって話だよ。可哀想でしょ? お顔があれじゃあねぇ、ここより他に行くべき病院があるよねぇ……。あ、あとその隣の……」
晴香は怒涛の様に、ここに居る色々な可哀想な人達の話をした。ことねはその話を聞く内に、どんどんお腹の中からこみ上げてくるものを感じていた。そしてついにそれが口元まで達した。
「はははははは……」
気付くとことねは思いっきり笑っていた。今までの分を取り返すくらい大きな声で長い間笑った。
カフェにいる可哀想な人達が、何事か、という感じでこちらを見てきたが、お構いなしに笑ってやった。その人達と目が合うたびにおかしさがこみ上げて、なかなか治まらなかった。
全部晴香の作り話であろう事は分かっていたが、そんな事はどうでも良かった。晴香も大きな声で一緒に笑ってくれた。まるで共犯者になった様な一体感が心地よかった。
「ね、私達が抱えてる過去なんて、大半がきっと笑い飛ばせるような事だよ」
それからことねは生活に色々な楽しみができたのだ。
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