その2


 全身の痛みが、コウガの意識を現実に引き戻す。

「うげえ……」

 土の味を噛みしめながら、ゆっくりと体を起こす。

 斜面から転落した衝撃がまだ残っている。ただ、骨折などの深刻なケガはなさそうで、少し時間をおけば収まるはずだ。

 静かに立ち上がり、あたりを見回す。

 コウガの周囲十数メートル四方だけ地肌が露出していた。比較的最近に土砂崩れでもあったのだろう。赤い地肌の向こうには緑の草むらが広がり、さらにその奥にはうっそうとした森が高い壁をなしていた。

 ひるがえって後方を見やる。こちらも赤茶けた急斜面が壁のようにそびえていた。

「あそこから落ちてきたのか……よく死なずに済んだな」

 斜面の上にいるはずのマイアたちの姿は見えない。

 ――俺のことを死んだと思って見捨てて行ったか。

 そうコウガは決めつけた。

「クソッ。なんて奴らだ。特にあのマイアって女、素手の人間を相手に刃物振り回すとか、頭おかしいんじゃないのか。誰だって女騎士に巡り会ったらアナルの強弱について聞きたくなるだろうに……」

 ぶちぶち文句を垂れながら、頭をもたげる。

 天に輝く太陽は、先ほどより西方に傾いているような気がした。それなりに時間が経っている気がする――が、主観に過ぎないので自信は持てない。

「いや、そもそもここは異世界だったな。太陽が西に沈むとは限らないぞ……」

 今コウガが立っている惑星が、太陽系同様の構造に基づき自転しているとは限らない。

 それ以前に、ここが惑星であるかどうかも怪しい。何しろここは異世界だ。天動説、あるいはインド的宇宙観に基づいた体系になっているとしても不思議ではない。

 しばしコウガは天文学的思索にふけりそうになったが、ふと我に返ると頭を振り、考えを追い出した。

「ンなこたあとで考えればいいんだ。今はどうやって生きていくかを考えなきゃ。異世界に来て三日で飢え死にとか、冗談じゃないよ」

 騎士団連中がいた以上、どこかに文明的集落が存在するはずである。さしあたりはそこを頼り、あとは誰かにすがりつくのだ。幸い言語は通じるようだし、死ぬ気であたればなんとかなる……はず。

「……そういや奴ら、思いっきり日本語しゃべってたよな? どういうこった?」

 またしても枝葉にとらわれ、言語学的思索にふけりかけた時。

 ざわり、と茂みから音がした。

 コウガは音のした方向を見やり、

「……!?」

 本能的にびくりと身を震わせた。

 はじめは野犬の類いに見えた。四本足の獣が森の茂みから姿を現し、こちらをうかがっている。

 野犬にしては全身が黒い。黒い毛で覆われているのではなく、真っ黒いのだ。まるでその場所だけ闇が凝縮されているような黒さである。両目は赤くらんらんと輝き、体表の一部には白い血管のごとき網目模様が走っている。

 ――モンスターだ!

 コウガは怯えた。ますます中世ファンタジーRPG風になってきた、と喜ぶところだ――自分の身に危険さえなければ。

 あたりに視線を走らせ、とりあえず武器として拳大の石ころを二つ拾い、構えてみる。

「殴って勝てる相手なのかなあ……」

 脂汗をだらだらと流すコウガ。こんなことならおとなしくマイアの靴でもなめて保護してもらえば良かった、と強烈な後悔の念がよぎったが、もう遅い。

「ぐるるる……」

 低いうなり声を上げながら、モンスターはコウガをじっと見つめている。向こうもまたコウガの出方をうかがっているようだ。

「いや待て。見た目はあんなに凶悪だけど、実は性根は優しい生き物だったりして。モンスターを飼い慣らすゲームだってあるし……」

 ふとそんな考えを思いつき、ぽろりとコウガは石を手放した。少し背を丸めて体が小さく見えるようにし、ゆっくりとにじり寄ってみる。

「よーしよしよし。俺のペットになる気はないかな……? 俺をご主人様と呼ぶ権利をくれてやるぞ……」

 優しく呼びかけながら接近する。が、一定距離に近づいたところで、

「ギャン!」

 モンスターが激しく吠えた。

「ヒッ!?」

 コウガは飛び上がり、時間をかけて詰めた距離を一瞬で後退。もう一度石を拾い直した。

「クソッ! やっぱり人様の言葉もわからねえ畜生じゃないか! やられるまえにやるしかないのか!」

 ぎりり、とモンスターをにらむ。

「主人公が初めて出会うモンスターはザコって相場が決まってんだ。この場で打ち殺して経験値3くらいにしてやる……」

 勢い込んで再び一歩を踏み出しかけ――

 またも森の奥がざわついた。

 がさがさがさ、とかなり大きな音が立った後。

 もう一匹、モンスターが現れ出た。

 見た目の造作は先にいたモンスターとほぼ一緒。

 ただし体高だけでゆうに三倍はあった。

 のっそのっそと太い足で地面を踏みしめ、その全身をあらわにしてゆく。胴の長さもほぼ三倍、横の厚みもほぼ三倍。

 三の三乗、すなわち二十七倍は大きいと思われるモンスターの登場だった。

「アカン」

 これに素手で立ち向かうことはすなわち死を意味する。コウガは戦うことをあきらめた。

 音を立てないよう石を地面に置いた後、注意を引かないようできるだけ静かに後退していく。

 しかしモンスターはコウガを見逃さなかった。

 赤い瞳をぎょろりと動かし、力強く地面を蹴る。

 コウガをターゲットに据えて駆け行く。

「う、うあああ――ッ!」

 恥も外聞もなくコウガは絶叫。全力で逃げ出した。

 巨体の割に、モンスターの足は速かった。あっという間にコウガに追いすがり、頭を勢いよく振ってぶつける。

「ぬごッ!」

 体をねじって避けようとしたが、避けきれなかった。衝撃とともにコウガの体は浮き、変にねじれながら宙で回転、勢いよく地面に激突する。

 モンスターも地を蹴り、コウガにのしかからんと跳躍する。

 くわっと開かれる大口、頭上より迫り来る黒い影。

 踏み潰されてたまるか、と身を起こして――

「おらああぁぁ――ッ!」

 何者かのかけ声とともに、コウガは尻を蹴り飛ばされた。

 真横に吹き飛ばされた。地面を何回転も転がり、勢い余って立ち上がる。

 何が起きたんだ、と来た方向を見やる。

 赤毛の少女が、モンスターを押さえ込んでいた。

 モンスターの口から生えている二本の長い牙を、ガントレットをはめた二つの手でがっちりと握り、モンスターを留めている。

 少女は目だけを動かして、コウガを見やった。

「おい、そこの! とりあえず逃げな!」

 荒っぽい口調で呼びかける。

 加勢すべくコウガは足下の石を拾いかけたが、

「逃げろつってんだろ! 爆撃に巻き込まれてえのか!」

 少女は強く怒鳴る。

 コウガは言うとおりにした。一応石は握ったまま、その場を離れる。

「ゴアアアアッ!」

 モンスターはうなり声を上げ、少女を噛み裂かんと力を込めた。

 しかし少女はよく抵抗し、むしろのしかかってくるモンスターを押し返して、両手に力を込め――

「だらあァァ――ッ!」

 モンスターの両の牙を、同時にへし折った。

 牙をそのまま振り上げ、二本ともモンスターの顔面に突き立てる。

 さらに掌底を叩き込み、牙を深くモンスターの体内へと押し込んだ。

 モンスターは悲鳴を上げた。大きく身を引き、地面に体を打ち付けて悶絶する。

 追い打ちをかけるチャンスだ、とコウガには見えた。

 が、少女は素早く天を仰ぎ、すぐさま後方へ飛んで退いた。

 コウガは少女の視線を追う。

 空から、複数の火の玉のようなものが飛来していた。

 燃え盛る砲撃弾のような代物が五、六個。そしてそれを追うように、ひときわ巨大な炎の玉が一つ。どこから発射されたのか、放物線を描いて接近している。

 狙いはかなり正確、七転八倒しているモンスターの頭上。

 モンスターが気づいた時には既に遅い。

 着弾と同時に小爆発が連鎖。その爆風で、モンスターの体が軽く浮く。

 そこにとどめの巨大弾が降り――

「……!」

 コウガは咄嗟に伏せた。

 大爆発が巻き起こり、すさまじい量の土煙が舞い上がった。

 石つぶてが飛び散り、伏せたコウガの体にも少なからぬ数が命中する。ぼーっと突っ立っていたら大怪我を負っていたかもしれない。

 立ち上った土煙を、風が吹き流していく。

 ゆっくりとコウガは立ち上がり、着弾点を確認する。

 小さなクレーターと化していた。草むらは円形にえぐられ、土砂崩れエリアと同様の赤い地肌が露出している。

 巨大なモンスターの姿はきれいさっぱり消え失せていた。その代わりと言っていいのか、着弾点の中心部に妙な石ころが転がっている。

 鉱物の類いだろうか。半透明の黒い輝きを放つ細長い水晶のようなものが、そこにあった。

「お、あったあった」

 そこへ、先ほどコウガを蹴飛ばした少女が歩み寄り、鉱物を拾い上げた。満足げに微笑むと、腰のポーチに放り込む。

 コウガがおそるおそる接近してみると、少女は笑顔をコウガに向けた。

「生きてたか! いやー、悪いな、さっきは思い切り蹴飛ばしてよ!」

 背の高い少女だった。見た目の年齢はコウガと同じくらい、おそらくは未成年。髪は赤毛でセミロング、金属の輝きを帯びたブーツとガントレットを着用しているものの、胴体は軽装。RPGの格闘家を思わせるような出で立ちである。おかげで体のラインがあらわになっており、かなりのスタイルの良さが見て取れた。

「こりゃどうも。命の恩人と言っていいのかな」

 クレーターに足を踏み入れ、コウガは頭を下げた。

 少女はコウガを指さす。

「いいってことよ。そのカッコ、おまえも日本から来たんだろ?」

「ああ……。瀬田光河という」

「相楽愛理。あたしも日本から来た異邦人さ」

 アイリと名乗った少女はガントレットを脱ぎ、左手を差し出した。

 左利きなのかな、と思いつつ、コウガも応じて左手を出す。

 アイリはコウガの左手を掴み、手の甲を天に向かせた。

 左手薬指にリングがはまっていた。

「なんだこりゃ? いつの間に?」

 コウガは目を丸くした。

「あ、やっぱり。おまえも立派な異邦人だな」

 指輪の存在を予期していたかのように、アイリは頷く。

 指輪は銀色、小さな石が据えられている。見る角度によって緑、赤、紫に輝きを変える奇妙な石だ。

 ――この色の組み合わせ、あのオーロラと同じじゃないか。

 コウガはすぐに思い当たった。この世界に喚び出された瞬間に包まれていたのと同じ光だ。

 指輪を抜こうと試みる。が、指輪はがっちりはまって外れない。力を込めてみてもびくともしない。

 ふと顔を上げると、アイリと目が合った。

「勘違いしないで欲しいんだけど、俺は既婚者じゃないからね」

 フッ、とアイリは愉快そうに鼻を鳴らした。

「わかってるよ。そいつを外すのは無理だぜ。指を切り落としでもしない限りな」

「マジかよ。なんなの、これ」

「説明はあとでする。それより先に、連れを紹介するぜ」

「連れ?」

「爆撃をぶち込んだ奴だよ」

 アイリは身を引き、後方を指さした。

 一人の少女と思われる人物が、歩み寄ってきていた。

 いかにも魔法使いめいた大きなとんがり帽子を頭に乗せ、そのつばで表情を隠している。背にはマントを羽織っているが、着用しているのはブレザー風の上着にスカート。

 コウガのすぐそばまで歩み寄ってから、つばを横に回す。

 現れたのは柔和そうな笑顔だった。

「こんにちは。もしかして、こちらの世界に召喚されたばかりですか? としたら、さっそくえらい目に遭いましたねえ」

 そこはかとなく関西弁式のイントネーションが漂う、優しい声だった。

 長く伸ばしている黒髪をかんざしでまとめているのだろう。後頭部で毬を模したアクセサリーがぷらぷらと揺れている。

「私、丸太町智恵言います。よろしく」

 小さく頭を下げる。応じてコウガも頭を下げた。

「俺は瀬田光河。よければコウガと呼んでくれ。あー……名前から察するに、あんたたちも日本からこっちの世界に来たクチ?」

「その通りですよ。もう三年程になりますけど」

「三年? へええ……言われてみればたしかに、かなり慣れている風に見える」

「慣れなければ生きていけませんからねえ」

 笑みを崩さぬままにチエは言った。

 そこへアイリが口を挟む。

「ところでおまえ、ついさっきこっちに召喚されたばかりなのか? にしては珍しいな、一人でこんなところにいるなんて」

「珍しい? そうなの?」

「極星騎士団って奴らがいるのさ。奴ら、異界門が発生するたびに真っ先に駆けつけて、異邦人の回収保護を行ってんのよ。会ってねえか?」

「会ったよ。会ったけど、どうやら見捨てられたらしい」

「見捨てられた? はーん。……もしかしてマイア・コゼンジじゃなかったか? 一団のリーダー」

「そうそう、そんな名前だった。いやー、素直に助けを乞うたつもりなんだけどね。わけもわからず斬りつけられて、足を踏み外してあの斜面から転落して、あとはご覧の通り」

「そりゃ災難だったな。ま、あいつのやりそうなことだけど」

「お知り合い?」

「あいつのことはよく知ってるぜ。いけ好かない奴だってな」

 アイリは顔をしかめ、素手の左拳でガントレットをはめたままの右の手のひらを叩いた。

「アイリとマイアにはいさかいがありましてね。まま、気になさらず」

 チエが解説した。

「ところで。こちらに召喚されて、騎士団からも見捨てられたとあっては、どこにも頼るあてがないでしょうねえ」

 コウガははっと息を呑んだ。

「そうだ。そうだよ。どうにかしなきゃ。いやー、初対面の相手になんだけど、なにかしら世話してくれないかな?」

 アイリとチエは顔を見合わせ、お互い頷いた。

「いいですよ。同郷の人間を見捨てるのは気が引けますからね」

 と言って、チエはコウガに手をさしのべた。手のひらを上に向けた手を。

 ――犬のお手みたいだな。

 コウガは反射的に思ったが、この際屈辱だのなんだのとは言っていられない。チエの手に自分の手を乗っけようとし――

「違いますよ」

 チエはコウガの手を払った。

「えっ。三回回ってワンと言えば願いを叶えてやる、とかいうアレじゃ?」

「違いますよ。私はそんな下品なこと要求しません」

 チエはもう一度手を差し出した。

「謝礼をよこせ、と言っているんです」

「それはそれで下品!」

「下品なものですか。地獄の沙汰も金次第、って言葉、ご存じですよね?」

「そりゃ知ってるけど、こっちに召喚されたばかりの人間がこっちの通貨なんて持ってるわけないだろ。まさか日本円をよこせってのか」

 コウガはポケットから財布を出しかける。

「日本円なんてこっちの世界じゃ紙切れ同然です。たとえあなたが偶然一億円を持っていたとしても、この世界では無一文ですからね。だから、体で払っていただきますよ」

「体! まさか俺をどっかの風俗店に沈めようってのか!」

 思わずコウガは自分の体を抱きかかえた。

「誰がンなことするかよ!」

 アイリがツッコミを入れる。

「いやだって、体で払うって言ったらまず肉体奉仕が思いつくだろ」

「野郎がンなことして何が楽しいんだ!」

「ここは異世界だからなあ。同性愛文化が発達している可能性もある」

「ンなモンはねえから安心しろ。然るべき労働で金を払えって言ってるんだよ」

「働けとおっしゃる? タダで済ませてもらえないんですかね」

「そうは行きません。そもそも、ミームからあなたを助けたことについても報酬をいただかなくては」

「ミーム? ああ……あのモンスター、ミームって言うのか」

「ミアズマモンスターの略称です。あのような黒い獣は皆ミアズマモンスターと呼ばれます。そもそも……」

 話を続けようとして、チエは強制中断した。

「……いや、説明はあとにしましょ。この世界で生きていく以上、様々な基礎知識を覚えてもらわないと。ここで全てを語ろうとしたら日が暮れますし、ついて来てくださいよ」

 チエはコウガを手招きしつつ、歩き出した。アイリもブラブラとその後に続く。

「わかった。とにかく言うとおりにするしかなさそうだ。命の恩人には逆らえない」

 コウガも従うことに下。二人の少女について、歩き始める。

「で、俺をどこに連れて行くのかな?」

 コウガの問いにチエは振り向き、にっこりと笑ってみせた。

「冒険者ギルド、ですよ」

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