第7話 虎

 あれだけ寝たはずなのに、また泥のように眠っていた。目を覚ますと、体のあちこちがひどく痛んだ。今朝は気にする暇さえなかったが、考えてみればつい先日、嫌というほど早田に殴られたのだ。口のなかもざっくりと切れているようで、いまだに鉄の味がしみ出してくる。


 早田のことを考えると、また心臓が早鐘を打ち、息苦しさで立っていられなくなる。あれは本当に自分の炎だったのだろうか。あんなに燃えるだなんて、考えもしなかった。目の前が真っ赤に染まって、肉が焼け焦げる嫌なにおいが鼻孔を刺激した。耳をふさいでも、早田の絶叫が今しがたの出来事のように響いてくる。


 指先を見つめる。爪の先の黒ずみが、あの日の炎が真実であったことを物語っている。手のひらも黒く汚れている。今頃になって、充は自分があの朝以来風呂に入っていないことに思い至った。

 思わず苦笑がもれた。あれだけのことがあったにも関わらず、自分は早くもこの状況を受け入れようとしている。頭がどこか麻痺しているのかもしれない。もともと頭がおかしかったのかもしれない。


 本棚を見ると、難しそうな文学作品が並んでいた。ウィリアム・ブレイクの詩画集が目についた。確か「レッド・ドラゴン」という映画でこの画家の作品が引用されていたはずだ。

 グロテスクな水彩画に混じって、一編の詩が目にとまった。「虎」という詩で、ちょうどそこにしおりが挟まっていた。



 遠く離れた海や空でも

 汝の目の 炎は燃える

 如何なる翼 如何なる手が

 輝く炎をとらえるだろうか


 如何なる力 如何なる技が

 汝の勢いを制するだろうか

 汝の心臓が脈打つときの

 四肢の力の何たる強さぞ



 途中まで読み進めたところで、玄関の開く音が聞こえてきた。足音が妙に大きい。苛立っているようにも感じられる。あの2人のイメージにそぐわない、荒々しい音だ。


 足音はまっすぐ充のいる部屋に向かってきた。ドアノブがガチャガチャと回され、鍵がかかっていることに気づいたのか舌打ちが聞こえた。いったんリビングの方へ遠ざかり、すぐに戻ってくる。鍵を取りに行ったのだろう。


「おい、入るぞ」

 返事をするまでもなく、ドアが勢いよく開けられた。そこに立っていたのは、あの2人のどちらでもない、見知らぬ男だった。


 長髪を後ろで束ねている。頬がげっそりと削げている。眼鏡の縁で隠れてはいるが、よく見れば目の下に隈がある。どう見ても健康的とは言いがたい風貌だった。服装もスーツではなく、無地のTシャツの上に革ジャンを羽織っている。猫背のせいで、身長が高いにもかかわらず妙に貧相な印象を受ける。


 男は無遠慮に充を眺め回したあとで、「ファイアスターターか」と言った。火を操る超能力者のことだ。自分の力を知ったとき、そのあたりのことは散々ネットで調べた。


「速水さんも何考えてるんだろうな。こんなガキ囲ったりしてよ」

「速水さんって……」

 どう応じればいいのか分らず口を開くと、「誰が喋っていいって言った?」と男が眉間に皺を寄せた。次の瞬間、充が手にしていたブレイクの詩画集が床に叩き付けられた。手から滑り落ちたにしては、勢いが強すぎる。


「動くなよ、お前は危ないからな」

 口の端に狡猾な笑みを浮かべて、男が近づいてくる。充はそのとき初めて、自分の体が硬直していることに気づいた。全身が鉛のように重い。巨大な万力で締めつけられているような気分だった。

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