第5話 翻弄

 天井が赤く染まっている。水面のように揺れている。何かと思ったが、よく見れば窓から差し込んだ朝焼けの光が、鏡に反射して天井を照らしているのだった。


 いつの間に眠り込んでしまったのだろうか。丸一日眠り続けていたことになる。


 ……丸一日? どこで?


 布団を足蹴にして跳ね起きた。見覚えのない部屋の、見覚えのないベッドだった。ビジネスホテルではなさそうだ。書棚には本が並んでいるし、机のうえには書きかけのメモがある。何が書いてあるのかと手を伸ばしたとき、扉があいて見知らぬ男があらわれた。


「ああ、起きてたんですね。死んだみたいに眠ってたから心配してたんです」

 そう言って、男は右手を差し出した。反射的に充も右手を差し出す。握手をするのかと思ったが、男は充の右手を引き寄せて、黒ずんだ人差し指の爪をまじまじと見つめた。


「ふうん、スティングファイアって名付けたんですね。炎の棘ってところですか」

「何でそれを……」

 充が言葉を失ったのも無理はない。まだ自分の力に過大な期待を抱いていたころ、戯れに名付けたのを思い出した。その名前を誰かに言ったことはない。ノートやパソコンに記録したこともないはずだった。


「名前をつけることで自己暗示を強める場合もあるけど、まぁ今回は忘れたほうがいいですよ。名前なんて邪魔でしかない。足を引っ張るような障害は、なるべくつぶしておいたほうがいい」

 そう言って男はにこっと微笑んだ。「萩野充さんですよね。はじめまして」


 充はまだ事態が飲み込めず、探るような目で男を見ることしかできなかった。


「名前といえば、萩野充って名前はいいですねぇ! 実に普通だ。よく荻野さんって間違えられるんじゃないですか?」

 不承不承にうなずくと、男はいっそう饒舌にしゃべりつづける。


「充っていうのもいいですよねぇ。どこにでもいそうな名前だ。そもそもその名前で満たされている人をぼくは見たことがない」

 失礼な物言いに、さすがに苛立ちが募る。


「あなた、いったい誰なんですか。介抱してくださったことにはお礼を言いますけど」

「いやあ、ぼくのことなんてどうでもいいんです。それより萩野さん、あなたのことですよ。昨日は災難でしたねえ」

 炎の記憶が瞬時に蘇る。決して忘れていたわけではない。ただ、心のどこかで夢であってほしいと思っていた。


「何のことですか……」

「いやだなぁ、早田さんのことですよ。よく燃えてましたよ、人間ってあんな風に燃えるんだって感心しちゃいました」


 耳障りな笑い声が部屋に響いていた。しかし充は、この男の存在に救われていたのかもしれない。一人であの出来事を思い出していたら、炎の蠢く様を、肉の焦げる異様なにおいを思い出して気が狂っていたかもしれない。


「あぁ、心配しないでも大丈夫。早田さんのことはうまく処理しておきましたから」

「処理って……」

「それは秘密。ただ、しばらくはここで身を隠しておいたほうがいいと思いますよ。半月もたてば自由に歩きまわれますから」


 ちょっと待っててくださいね、朝食でも食べながら話の続きをしましょう。男はそう言って、あっけにとられる充を置き去りにして部屋を出て行った。




 特に拘束されているわけでもなく、部屋の中は自由に動き回れる。窓を開けることもできる。ベランダに出ることもできる。だが、部屋の扉には外から鍵がかかっていた。


 ベランダから下に見えるのは隅田川だろうか。その向こうにはスカイツリーがそびえている。拉致監禁されたにしては、ずいぶん緩い扱いだった。さっき男が言った通り、しばらくは身を隠していたほうがいいのだろうか。


 しばらくすると扉があいて、「飯にしましょう」とさっきの男が顔をのぞかせた。隙間からトーストのにおいが漂ってくる。扉が開くまでは一切においがしなかった。気密性が高いのだろう。何のためかは分らないが。


 すんなり部屋から出してもらえたことに動揺しながら、充は男のあとにしたがってリビングに向かった。30畳はありそうだ。川沿いの高級マンションといったところだろうか。


 ダイニングテーブルにはもう一人、別の男が座っていた。目の前の2人を見比べてみるが、どうにも特徴がなく、とらえどころがなかった。


 2人ともダークグレーのスーツを着ている。ワイシャツは無地の白、ネクタイは一方が紺のピンストライプで、もう一方はピンクのドットが入った黒だ。とりたてて珍しいデザインでもない。スーツは体のラインにぴったり合っているわけでもなく、さほど高くもない既製品なのだろう。髪型も何の変哲もない短髪で、最初に会った男のほうがやや細見で見た目が若く、もう一人はそれなりに引き締まった体つきをしている。それくらいの特徴でしかなかった。


「意外に落ち着いているんだな」

 先にテーブルについていた男が言った。声が低く、かすれている。案外歳をとっているのかもしれない。


「よく観察してるみたいだね。服装が気になるみたいだ」

 言い当てられて、充は思わず目を泳がせた。


「これが正装ってわけじゃないから気にしないでいいよ。ぼくらはただ、目立ちたくないだけなんだ。普通の格好に普通の名前。生きていくにはそれで十分」

 期待はずれかもしれないけどね、男はそう付け足した。

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