第4話 サラマンドラの咆哮

 その日、印刷工場でのバイトが終わると充は送迎のバスに乗らず、駅までの30分ほどの道を歩くことにした。早朝の澄んだ空気が、かえって肌にしみるようだった。職場へ向かうスーツ姿のビジネスマンが、充を追い越していく。この時間に家に帰る自分が、完全に世間とずれてしまっているような気がしていた。


 道の脇には、選挙ポスターがいくつも貼られていた。どこで放火を目撃したのか、バイト仲間に聞いておくべきだった。工場近くだとしたら、同じ職場に放火魔がいるのかもしれない。


 放火というつまらない行為を肯定する気などなかったが、選挙ポスターを燃やしたというところには少しだけ共感できた。朝方布団に入って夕方までを寝て過ごす充にとって、選挙戦ほど鬱陶しいものはない。選挙カーごと燃やしてやろうかと思ったことも何度もある。自分だって、誰にも見られていないという確信があればポスターを破るくらいのことはいつかするかもしれない。


 いつからだろう。彼は世の中のあらゆることに不満を抱くようになっていた。早田たちにいじめられていたあの頃からだろうか。いや、もっと前からだ。物心ついたときから、充は周りの顔色をうかがうような子どもだった。天真爛漫などとは程遠い、どこか卑屈なところがあった。人におもねるような生き方は、些細なことを不満や憎悪に転化する。決して満たされることはなく、常に心が渇いている。そんなふうに育ってしまった。


 団地を抜けて、川を渡る。橋の下を除くと、体を休めるのに都合のよいスペースがあった。放火の話を聞いたせいか、力を試したい衝動が膨らんでいた。橋の下なら何かあったとしても延焼の心配はないだろう。睡魔に襲われたとしても、誰かに見つかることもない。


「ちょっと君、何してるの」

 後ろから肩を叩かれ、あわてて振り返る。職務質問かと思ったが、相手は警官ではなかった。


「やっぱり萩野か。久しぶりだな」

 髪型が変わっているしスーツ姿なのですぐには分らなかったが、だらしなく下がった目尻や人を小馬鹿にしたような薄笑いは、忘れようもなかった。首元には火傷の跡が残っている。早田だった。


「何してるんだよ、こんなところで。まさか放火じゃねぇだろうな」

 距離を取ろうとする充の肩をつかんで強引に欄干に押し付けて、早田はぬっと顔を近づけてきた。


「みすぼらしい格好してんのな。聞いたぜ、大学やめたんだって? お前頭良かったのにな」

「離せよ、関係ないだろ」

 充がそう言って押しのけようとすると、早田はいったん周囲を見渡して誰もいないことを確認すると、充の喉に手をかけた。


「お前のせいでさ、いまだに火傷の跡が残ってるんだよ。どうしてくれるんだ」

「俺は関係ないだろ、煙草の火が燃え移ったんじゃないのかよ」

 あの日、早田たちは水泳部の部室で充が来るのを待っていて、煙草の火が早田の上着に燃え移ったのだと聞いている。消そうとした火は早田のワイシャツに燃え移り、首筋に火傷跡が残った。


「あのな、俺たちだって馬鹿じゃねえんだ。真っ昼間から部室で煙草なんか吸うかよ。どうせお前が何か仕込んだんだろ」

 早田は充の右頬を軽くはたき、「こっちに来い」と言って橋の下へ引きずって行った。


「さっきお前、ここを見てたんだろ? 今度はここで放火するの? 何を燃やすつもりなんだよ」

 こうなるとおさまらないことを、充は経験から知っている。腕力ではかないそうもない。何とか気をそらして、この場を切り抜けなければいけない。


「会社行かなくていいのかよ」

「ああ? 関係ねえよ。どうせクソみたいな会社なんだ、遅刻したって問題ねえよ」

 職場の話がかえってまずかったのか、早田は激高して充の頬を二度、三度と打ち据えた。


「停学くらって周りから変な目で見られてさ、親からもとっちめられるし内申書も悪くなるし、お前のせいで俺の人生クソつまんねーんだよ。高校もクソ、就職先もクソ。中学卒業してから5年くらいたつのか? だったらお前、5年分殴らせろよ」

 まぶたが腫れてふさがって、視界がぼやけていく。骨のきしむような音が聞こえる。鼻の骨が折れたのか、鼻血が止まらない。息苦しいが、歯をくいしばっていないと殴打に耐えられない。


 充はたまらず、早田が拳を振り上げるタイミングに合わせて体をぶつけた。突然の抵抗を受けて、早田は数歩後ろに下がってそのまま尻餅をついた。芒が生い茂っていて分らなかったが、ちょうど水たまりのある場所だった。


 スーツを泥だらけにされて、早田はいよいよ顔を真っ赤にして躍りかかってきた。これ以上殴られたら、死んでしまうかもしれない。充は無意識のうちに右手を前に伸ばし、人差し指の先を早田に向けていた。


「何の真似だよ」

 早田が言った瞬間、爪の先で火花のように散った炎は、早田の上半身を包んでいた。赤黒く膨れ上がった炎は、蠢く獣のように渦を巻いて橋桁へ届きそうなほどだった。


 充は訳が分らず、耳を塞いでその場にうずくまっていた。熱いよ、なんだよこれ。熱い、熱い……。早田の声が次第に正気を失い、咆哮のように橋下に撒き散らされていく。水を求めて、炎に包まれた早田はよろよろと川へ向かって歩いて行く。


 なぜこんなことになってしまったのか、考えることさえできなかった。睡魔が巨大な重しのように、充の全身を支配していた。こんなときに、こんな場所で眠るわけにはいかない。早田の最後の咆哮が響き渡ったとき、充はもう闇のなかへと落ち込んでいた。

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