第3話 パイロマニア
「最近、このあたりでボヤ騒ぎが頻発しているらしい。もし怪しい人物を見つけたら、すぐに警察に届け出るように」
いかにも業務的な所長の言葉を、バイト仲間たちは我関せずといった態度で聞き流している。怪しい人物を見つけたらといっても、バイト先の印刷工場にはいかにも怪しい人物が大勢いるのだ。着の身着のままのホームレスのような老人もいる。太ももが露なホットパンツをはいたひげ面の男もいる。充たちとて、傍から見ればそう大差はないだろう。日雇いの夜勤バイトなど、吹きだまりもいいところだ。
大学を中退し、ろくに職にもつかず、充は怠惰な日々を送っていた。午後3時ごろまでひたすら眠り、夕方からは夜勤のバイトに入る。朝方に帰宅し、また眠りにつく。このルーチンを週に4回繰り返す。バイト代は一晩で8千円。なんとか一人暮らしでやっていける、ギリギリのラインである。
作業の内容はいたってシンプルで、ベルトコンベアを流れてくる雑誌のうえに付録を乗せるだけだ。あるいは20冊単位で結束された雑誌を、パレットの上に積んでいく。前者は一切体力を必要としないが精神的には厳しいものがある。後者はその真逆である。どちらにしても、わざわざ人の手を要するような作業とは思えない。
その日、充が割り当てられたのは付録乗せだった。
「楽しやがって」と、最年長の田辺がぼやいている。日雇いバイトの年齢制限を明らかにオーバーしているが、昔なじみということで容認されているらしい。いずれにせよ、あまりかかわり合いになりたくない人種だ。作業の割り振りは工場に勤める正社員が行うので、バイト風情は面と向かって文句を言えない。
この工場での作業を「掃き溜め」と形容する者もいるが、充は案外この環境が気に入っている。余程のことがない限り、誰も自分に干渉してこない。一晩中黙々と、考え事にふけることができる。
さっき所長が言っていた、ボヤ騒ぎのことを思い出す。迷惑な話だと充は思う。俺が衝動を抑えている一方で、欲望に身を任せて火をつける阿呆がいる。どこの誰だか知らないが、やるならよそでやってほしいものだ。
中学3年のとき、充は自分の持つ得体の知れぬ力をはじめて自覚した。それは人差し指の爪の先に、小さな火を灯すというものだった。その火を大きくするためにあれこれと試してみたものの、結局何の変化も期待できなかった。停学に追い込まれた早田たちはそれこそ烈火のごとく怒り狂い、それ以来、充への暴力はいっそうエスカレートした。
指先の炎で身を守ることはできなかったが、特別な力があるのかもしれないという、その期待だけで充は残りの半年あまりを耐えることができた。いざとなれば、俺の力は爆発的に進化する。そうなれば早田たちを一瞬で火の海に放り込むことができる。そんな妄想を数えきれぬほど繰り返した。
高校は早田たちの成績では絶対に受かりっこない、進学校を選んだ。平凡な毎日を送り、平凡な大学に入った。
力は充だけのものだった。これまで、誰にもこの炎を見せたことはない。見せたところでつまらない手品と思われるのがオチだろうし、何度か実験してみた結果、この力には思わぬ副作用があることが分かっていた。
力を使った直後、激しい睡魔に襲われることがあるのだ。眠りは5分から10分程度で、毎回必ずというわけではない。5回に1回程度のときもあれば、連続して眠りに引き込まれることもある。何か法則があるのかもしれないが、躍起になってその法則を探す意味もないと思っている。
火を使う能力なのに、副作用が睡魔というのは危険すぎる。危険をおかして行使したところで、ライターの火にも劣るような力では意味がない。リスクとリターンがあまりにも釣り合わない。
力への期待を捨てきれず、今でもあれこれと試している。だが、外出時は力を完全に封印している。印刷工場に身を置いているのも、いかにも炎が広がりやすい環境に身を置くことで力への渇望を抑制する意図があった。
だが、考えるだけなら誰にも迷惑をかけることはない。炎を自在に操る方法は何かないものか。これまで5年以上も考え続けてきたことを、充は今も飽きず考えている。そうやって力に縛られたからこそ自堕落な生活に落ち込んでいったというのに、充は今も力にとらわれている。
昨日の朝、風呂場で試したときも炎は小さいままだった。風呂場なら睡魔に襲われたとしても、火災の心配はない。爪を伸ばすことで多少痛みを和らげられることが分かっていたが、あまり爪を伸ばしすぎると、今度は炎が小さくなる。ただでさえ卑小な炎が、余計に小さくなるのでは意味がない。火遊びの域を脱しないこの実験を、充は一昨日も、その前日も繰り返していた。
日付が変わり、休憩時間に入ったとき、バイト仲間の会話が耳に入ってきた。
「俺、昨日の朝見ちゃったんだよ」
「何を」
「放火の現場。いきなり選挙ポスターが燃え出してさ、犯人は分からなかったけど」
気の小さい放火魔なのだろう。たかだかその程度のボヤ騒ぎで満足しているのだろう。どんな手口で火をつけているのか分からないが、卑怯なやつだと充はそのとき思っていた。
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