第2話 硝煙

 充が気を失ったのと同じころ、水泳部の部室にも異変が起こっていた。棚に置いてあった早田の上着が突然燃え上がったのだ。まさか密閉された空間で昼日中から煙草を吸う訳もなく、その場に居合わせた5人の男子生徒は一様にパニックに襲われた。その場から逃げ出さず、火を消そうと努めたのは幼さゆえの良心だったろうか。結局、駆けつけた教師によってその場で持ち物を調べられ、煙草を吸っていたのだと断定された。


 早田たちが一週間の停学を言い渡されたと知ったとき、充は自分も同じように学校を休むことを決意した。トイレでの出来事は普段の素行が良かったせいか大事にならずにすんだが、早田はきっと、充が告げ口したのだと思い込んでいるだろう。停学が明ければ、きっと報復に出るはずだ。

 それまでに、あの力を使いこなさなければならない。

 指先の痛みは、今も鮮明に体に焼き付いていた。あれは何だったのだろうか。炎か、熱か、それとも電気か。偶然ではないはずだ。偶然であってはいけない。たとえ無意識であったにせよ、自分の奥底に眠る意志があの力を呼び覚ましたのだ。

 浅はかな妄信かもしれない。それでも彼は、すがらずにはいられなかった。もはや特異な力でもなければ、暴力の輪から抜け出すことはできないのだから。


 ベッドに寝ころび、充はじっと指先を見つめていた。痛みは指先に集中していたが、煙は爪の先から出ていた。人差し指の爪に意識を集中し、炎が弾ける様をイメージする。

 しかし何も起こらなかった。指先を本棚に向けて「燃えろ」とつぶやいても、何も起こりはしなかった。あのときのように紙をつまみながら念じても、炎はおろか、煙ひとつ出ることはなかった。


 ここであきらめていれば、充の人生は多少なりともまともなものになっていたかもしれない。しかし彼はあきらめきれなかった。早田たちに対する憎しみが、何もできない自分に対する悔しさが、そして――得体の知れぬ力に対する憧れが、彼を駆り立てていた。


 考え続けること、それこそが充の特質であったかもしれない。虐げられてきた彼にとって、逃避の先は空想の世界だけだった。早田の背にナイフを突きつけるところを、幾度想像したことか。どんなナイフがふさわしいか、どの角度が、どの場所がふさわしいか。実行に移さなかったとしても、シミュレーションを重ねるたびに彼の心は幾分かでも満たされた。具体的であればあるほど、たとえ空想であったにせよ手応えは確かなものになる。そうだ、イメージは曖昧であってはいけないのだ。


 炎だけを再現しようとするからいけないのだと、彼は気づいた。たとえ一度経験しているとはいえ、人間にとって未知ともいえる力を具体的にイメージするのは難しい。それは想像の域を出ない。力を創造するのなら、それに足るだけの材料を揃えなければならない。引き換え、指先に感じた痛みは確かな事実だ。あの感覚は今も残っている。


 炎だけを再現するのでも、痛みだけを再現するのでも意味はない。その二つを同時に引き起こす必要がある。充が手にしたのはマッチ棒だった。マッチ棒の先端を媒介に、炎と痛みを同時に引き起こせばいい。

 左手でマッチ棒の柄をつまみ、右手の人差し指を尖端に添える。爪の先をそこに立てて、火がつくところをイメージした。そんな動画を前に見たことがある。事例があるのは心強い。イメージの輪郭はより強くなる。 


 一思いに爪をスライドさせた。マッチ棒との間に生じた摩擦が熱と変わり、焦げ臭いにおいが立ち上る。指先をやすりで削ったような痛みが広がる。炎は出ない。もう一回だ。二度、三度と繰り返すうちに、我知らず微かな硝煙はマッチ棒の先からではなく、爪の先から発するようになっていた。

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