アグニの爪

長岡清十

第1話 発現

 ろうそくや油を使うのはもったいないからと、爪に火をつける。「爪に火をともす」ということわざは、つまり貧困や吝嗇を意味する。


 今どきろうそくや油を照明に使うのなんてオーガニック女子くらいのものだろうし、ましてや爪を燃やそうとする馬鹿なんているはずもないだろう。それでは実際に爪に火をつけたらどうなるか。間違いなく貧しくなる、ということを彼は身をもって学んでいた。


 文字通り、萩野充は爪の先に火をつけることができる。火種など必要なく、強く念じただけで爪の先に熱が集まり、小さな炎を起こす。右手の人差し指だけが力を持っているらしく、せいぜい煙草に火をつける程度のつまらない力だ。


 力の存在に気づいたときは、自分を縛り付ける日常から逃れられるかもしれないと歓喜したものだった。今は小さな炎しか生み出せなくても、やがては巨大な火を操れるようになるかもしれない。想像するだけで胸が躍ったが、何度試してもそう都合良くはいかなかった。所詮それは爪の大きさほどの火でしかなく、それ以上の何物をも生み出しはしなかった。特別な力を持っているのだと過信した充が、真っ当な生活を送れなくなっただけの話だった。大学を中退し、就職もせず、彼はいまだに何かの可能性を信じて彷徨っている。いつでも力を試せるように、親元を出て日雇いの派遣仕事で食いつないでいる。自活しているだけまだましなのかもしれない。


 その力は、萩野充が物心つく前から既に備わっていた。ハイハイを始めたばかりの充が、ある日尋常ではないほどの大声で泣きわめいていた。慌てて母親がそばに行くと、絨毯の一部が黒く焦げ付いている。充の右手を見ると、人差し指の爪の先が同じように黒ずんでいる。そのときは父親が落した煙草の灰が原因だということになったが、その後も何度か似たような出来事があり、結果父親は煙草をやめさせられることとなった。


 力の行使は痛みを伴う。それが、充が無意識のうちに学んだことであった。数度の発火と痛みを経験して後、彼はこれも無意識のうちに、力を封じるようになった。


 再び力が発現したのは、中学3年の初夏だった。休み時間に後ろからまわってきた四つ折のメモを開くと、「昼休み、部室に集合」とだけ書かれてあった。水泳部の更衣室のことだろう。鍵が壊れており、放課後でなくても自由に生徒が侵入できることは知っていた。もともと素行の良くなかった水泳部の部室は、部活という枠組みを超えて、いわゆる不良学生たちのたまり場になっている。

 

 なぜ水泳部になど入ってしまったのだろうと、今更後悔しても始まらない。一、二年のうちは先輩たちの保護下にあったから無茶なことはされずにすんだが、三年になって状況が一変した。真面目を絵に描いたような新部長が「もう部室に来ないでくれ」と不良たちに申し渡したことで、以来水泳部員は要領のいい者を除いて、皆いじめの対象となったのだった。


 どんな目にあわされるのか、それを考えると給食が喉を通らない。きっと招集がかかったのは自分ひとりだろう。部長は早々に学校に来るのをやめてしまったし、他の部員も半数は登校拒否に、残りは不良たちにおもねることで被害を免れている。充も学校になど来たくはなかったが、親に余計な心配をかけたくはなかった。あと1年耐えしのいで、高校は遠くの私立校に入ってしまえばこの状況から抜け出せるのだ。


 給食の食器を片付けるとき、「逃げるなよ」とサッカー部の早田が耳元でささやきかけた。お互い目を合わせたりはしない。充は教室を出て行く早田の後ろ姿を、むなしく見送るだけだった。


 無理をして給食を口に詰め込んだせいか、それともこれから起こることを予感して体が拒否反応を示したのか、途端に腹部の痛みを感じて充は男子トイレに駆け込んだ。錯覚だったのか、個室に入った瞬間に痛みがひいていく。それと入れ替わるように寒気が背筋をのぼってきて、休み時間に手渡されたメモを持つ右手が小刻みに震える。


 昼休み、部室に集合。


 何度見ても、それだけが書かれている。そこで何が行われるのかは一切書かれていない。証拠が残らないように、彼らは彼らなりに頭をつかっている。


「いやだ」


 彼らの前では絶対に言えない言葉を、歯の根が合わなくなった情けない表情で口にする。


「どうしていつも俺なんだよ、他のやつでもいいじゃないか」


 高村や小野木、桑原など、自分よりもいじめられるにふさわしい生徒はたくさんいるはずなのだ。それなのに早田たちは、自分ばかりを執拗に標的にする。


「もうお前飽きたからさ、代わりを選ばせてやるよ」

「代わりって……」

「お前の代わりにいじめられるやつのことだよ」


 そんなやり取りを、何度夢見たことだろうか。終わりの見えない暴力の輪から逃れるためなら、クラスメイトを売ったところで心は痛まない。それが卑怯だなどとは思わなかった。たまたま自分が最初に選ばれただけのことなのだ。持ち回りと考えればいいだけの話だ。


 益のない夢想は、ただ時間だけを浪費する。そろそろ部室に向かわないと、余計に彼らの機嫌を損ねてしまう。


 こんなメモ、消えてなくなってしまえばいいんだ。


 不良たちに歯向かうことなど思いもよらない充には、手渡されたメモに怒りをぶつけるくらいしか術がない。不良のくせに意外に達筆なその文字が、彼らの要領の良さを表しているようでなおさら憎々しかった。


 そのとき、右手の人差し指に鋭い痛みが走った。蜂に刺されたようなその痛みは、疼くように指先にとどまっている。メモから右手を離して人差し指を見ると、爪の先端が黒ずんで、微かに煙が立ち上っていた。嫌なにおいがした。そして再びメモを見ると、右手でつまんでいた場所に小さな穴があいていた。周囲を歪な黒灰色に縁取られており、焦げたにおいがする。やがてその焦げ跡が炎に変わり、あっという間にメモを飲み込んでいった。慌てて手をはなした瞬間、煙を感知した警報機が甲高い音を撒き散らした。

「誰だ、煙草をすっているのは」

 駆けつけてきた教師の声が、ドアの向こうに聞こえる。どこか楽しげな学生たちの足音も聞こえる。それらがだんだん遠ざかり、充は意識を失っていた。

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