マイルズ中将

「ようこそお入りください。コーヒーをお飲みになりますか?」

 いつかと同じく喜びを顕にマイルズを迎えたシャーロックを、ワトソンは少し後ろから見る。どことなく、主人と飼い犬の風情がある。

「いや、構わなくていい。最近めっきりカフェインに弱くなってね」

「ではウィスキートディでも。ワトソン、カップを用意してくれ」

「はい」

 棚からカップを五つ取り出して並べ、そのそれぞれにティースプーンで蜂蜜を垂らす。スティックは無いので粉のシナモン、それから刻んだレモン。ウィスキーを少し注ぐ。シャーロックがポットから順に湯を注ぎ、それを追ってスプーンでかき混ぜながら、ひとつひとつをテーブルへ運んだ。甘く温かい香りがふわりと漂う。

「んじゃ、俺は出かけてくる」

「え?」見ると、ワトソンが用意したカップのうち、シャーロックが湯を注いだのは四つだった。残された一つが冷たいままでそこに置かれている。

「出かけるって、今からですか? どこへ?」

「散歩」

「散歩って、ちょっと先生」

「中将、ワトソンを頼みます」

 シャーロックは勝手に言い置き、マイルズが「あいわかった」と答えるのを聞きながらドアの外へ出て行った。

「すみません、あの」

「いやいい。シャーロックとは長い付き合いだ、大体の事情は想像がつく。おそらくあれが『散歩』を始めたのはここ何日か、精々五日くらいだろう?」

 マイルズに問われてワトソンは頷く。

「今日で四日目です」

「毎日時間を決めて、出て行く時間も帰ってくる時間もほぼ同じ」

「はい」

「今日の日中、何か変わったことは? 例えば予定していない来客があったとか。どうだね?」

「そうですけど、あの、それが何か」

「いや何、シャーロックの『推理』の真似事をしてみようかと思っただけだ」

 シャーロックと同じく、マイルズも常にほんのりと愉快そうな声音をしている。顎髭を撫でる仕草もまたシャーロックとよく似ていた。ワトソンが時折シャーロックの姿を真似てみるのと同じように、シャーロックもまたマイルズの姿を真似ているのかもしれない。

 促されてソファに座り、トディを飲む。マイルズの連れていた彼の部下はドア横に直立して、トディに手を付けようとしなかった。なんとなく見張られているような心地になって、目の前の人が陸軍大将であることに思い至り、それからまた少し肩を縮める。

「あれは最近どうだね。二番目の子が居なくなったときは随分気落ちしていたが」

 ゆったりとした声に尋ねられて、ワトソンは喉元だけで咳払いする。

「僕の知っている限りはずっとあんな風です」

「そうか。あれの世話は大変だろう」即座に答えあぐねて黙ると、マイルズは肩を揺すって笑い声を挙げた。「素直でよろしい」

「……ときどき、つい目に余って。失礼だとは思うんですけど」

「なに、あれが止せと言わないなら良いんだろう。事実、君を随分気に入っているようだしな。そういえば最初の子も君によく似た生真面目な子でね、シャーロックはよく『お説教』をされていたようだ」

 マイルズの声には慈しみが滲んでいる。先生の育ての親、と思ってもう一度その顔を眺め、気が緩んでワトソンはつい少し笑った。それを見咎めたマイルズが首を傾げる。

「私の顔に何か付いているかな?」

「いいえ、――あんまり関係ない話なんですけど、先生が言ってました。中将は恩人だって、親みたいな人だって。だから僕もなんとなく、お話していると嬉しいんです」

 マイルズは少し目を丸くし、それから破顔した。

「そうか、シャーロックがそんなことを言っていたのか」

「僕、あんまり先生について聞かせてもらっていないんです。前のワトソンについても。もし良ければ、昔話を聞かせてもらえませんか」

「良いかどうかはシャーロックが決めることだ」言ってマイルズは一度渋い顔をして見せ、それから口元に指を立てていたずらっぽく笑った。「だから、私が喋ったことは秘密にしておいてくれ」


 マイルズの話は、彼が嘘をつくような人柄ではないということを加味しても、現実味のないものがほとんどだった。シャーロックは時に、死にたがっているとしか思えないような無茶をした。潜入、囮、それが正義に寄与するのであれば泥棒の真似すらしてみせた。謎と推理の詳細が大幅に弾かれているために、その奇譚は探偵業からかなり遠い。

 一番初めのワトソンの話をする時、直前になってマイルズは少し目を眇めた。

「最初のワトソンがシャーロックのところに来たのはだいたい十五年ほど前だ。君ほどじゃないが、目端の利く子でね。拾ったころは随分痩せていたんだが、二年もすると体格も良くなって――おっと、失礼」

 ポケットの携帯電話が鳴って、マイルズはワトソンとの会話を中断した。電話口の口調から相手を推し量ることはできないが、ふと時計を見ると、そろそろシャーロックが帰ってきてもいいはずの時間だった。マイルズが電話を切る。

「Mr.ワトソン、シャーロックがドッペルゲンガーを捕まえたそうだ」

「へ?」

「今は警察で後処理に付き合わされているらしい。あと一時間もしないうちに戻ると」

「どういうことですか、何が起こってるんですか?」

 ワトソンが問うとマイルズ中将は少し笑い、「これは私の憶測だけれど」と前置いて話を始めた。

「おそらくシャーロックは犯人の殺害リストに含まれていた。私もだ。シャーロックに言われて送った『資料』でわかったんだろう。そして私が襲撃されるのを避けるため、同時に君を守るためににここに呼びつけ、自らは囮になって犯人を確保した」

「資料……あの名簿と地図ですか?」

「そう。二十年前のテロ制圧戦の資料だ。亡くなった被害者とシャーロック、それから私、全員があの制圧戦に参加している」

 テロ制圧戦。つい何日か前耳にしたばかりの言葉に背筋が冷える。ワトソンは話を聞いた翌日に学校図書館でその制圧戦について調べてみたが、ほとんど実のある情報にはたどり着けなかった。ましてや、制圧戦に参加していた軍人の名前など。

「……犯人は、どうやってその制圧戦の参加者を知ったんでしょう」

「それは私の方で調べてみよう。内通者などいてはたまらないからな」

 マイルズが彼の部下に目配せすると、彼の部下は頷いて答えた。

「Mr.ワトソン、すまないが彼らのトディを温め直してもらっても?」

「いえ、我々は」

「懸念は去った。なに、これしきの量なら酔いはしないだろう」

 困ったように目配せし合う部下をちらと見、マイルズはワトソンに向けて微笑んだ。

「ああやって部下を困らせるのが私の細やかな趣味でね」

 やはりシャーロックに似ている。そう思って、ワトソンはくすぐったい困惑を苦笑いの形で表に出した。

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