来訪者.2

 それから三日、シャーロックは調査を行わなかった。突発で入る些細な依頼をこなし、後の時間は無為に過ごしたようだった。それから、なぜだか唐突に散歩の習慣ができたようで、朝も同じ時間に起きては時間ぴったりから事務所を開けるようになった。

 どういう風の吹き回しなのだとワトソンが遠回しに問うても、「俺もそろそろトシだから健康に気を使わにゃと思ってな」などとはぐらかすような返答があるばかりで、これが何故始まったのか、いつまで続くのかはわからないままだ。

 ドアをノックする音がしてそれを開けると、ハンチング帽を取った小柄な男が立っていた。数日前に「話を聞かせてほしい」と訪れた記者だ。

「おや、いつぞやの」

 また不機嫌になるかと思われたシャーロックの声が存外明るいことに、ワトソンは内心で胸を撫で下ろした。どういう風の吹き回しなのかと窺い見た顔は、普段と変わらない笑みを浮かべている。

「日が開いてしまって申し訳ない。今はお時間よろしいですか」

「ええもちろん。ワトソン、コーヒーを」

「はい」

「先日は不躾な態度を取って申し訳ありませんでした。少々立て込んでいて虫の居所が悪かったものですから」

「名の売れた探偵さんはさぞお忙しいんでしょう」

「忙しいは忙しいんですが、猫探しと汚れ仕事ばかり回ってくるもので、日々食っていくにもギリギリですよ」

 当たり障りのない儀礼じみた雑談を聞きながらコーヒーを淹れにキッチンへ向かう。シャーロックの振る舞いはまったく普通だ。機嫌が悪いようでもないし、人を食うような剣呑な振る舞いもない。あるいは一度会ったことで例の訛りに対する心構えみたいなものができたのかもしれない。

「こちらの少年は? お子さんですか?」

 コーヒーを淹れてテーブルへ運ぶと、記者はワトソンを見てシャーロックに問うた。シャーロックは手を上げてワトソンに礼を言い、「息子にゃ違いないですが」と目を細める。「これでなかなか目の利く助手ですよ。つい先日も、ドッペルゲンガーの襲撃地点に共通点を見つけていましたから」

「へえ」記者は目を丸くし、鞄からメモと万年筆を取り出してシャーロックを見た。「してその共通点とは?」

「どの地点も視界が悪かったんです。カーブミラーが割れている場所、街灯が切れている場所。前回はひどい雨の日でしたな」

 確かモーガンと名乗った記者は、シャーロックの話に相槌を打ちながら手元の小さなメモに文字を書き付けている。

「っと」

 ふとした瞬間、記者の手をペンが滑り落ちてシャーロックの足元に転がった。シャーロックは身をかがめてそれを拾い、記者に手渡す。

「すみません」

「いえ。――ご家族の形見ですか?」

 記者の怪訝を見て取って、シャーロックはにやりと笑った。手品が成功した子供のような顔、と、ワトソンは三十も年上の相貌を見て思う。

「ペン軸はかなり年季が入っている。プラティグナムの、それもかなり初期のものでしょう。親というより祖父母から譲り受けたという方が近いはず。そして祖父母から孫へわざわざ使い古したものを譲ることはほとんどない。おそらくあなたは死にゆく祖父母に乞うてそれを手に入れたはずです」

 些か不躾とも言えるシャーロックの「推理」に、しかし記者は歓声に近い喜色を帯びた声を上げた。

「魔法という言葉もいささか陳腐ですな」

「いやまさか。それどころか私のはただの手品ですよ」

 言って愉しげに笑い、その後もシャーロックは上機嫌のまま客と話をして、上機嫌のまま帰る客を見送った。

「良かったんですか、あんなに喋っちゃって」

 モーガンが帰っていった後、ワトソンは机に足を投げ出しているシャーロックに向けて聞いた。シャーロックは客を見送ってからも変わらず機嫌がよく、鼻歌を歌いながら気に入りの懐中時計の鎖を磨いている。客が帰ればまた不機嫌になるのかと思っていたワトソンは、訝りながら客人の使ったカップを片す。

「何、問題ない」

 軽く返されて反駁しようとしたが、「私がそんな些細なミスをすると思ったのかねワトソン?」と問われてしまっては二の句を継ぐこともできない。情報を流してあぶり出すつもりなのだろうと無理矢理に合点して口を閉じた。

「さて」

 磨いた鎖を矯めつ眇めつし、その先にぶら下がったひとしきり時計を眺めてから、シャーロックは椅子の背に引っ掛けたままのジャケットのポケットから携帯電話を取り出して操作し始めた。その様子を窺うに、電話帳を開くよりも宛先の電話番号を記憶した方が当人的には楽らしい。数コールで電話のつながる音がする。

「唐突にすみません」シャーロックの声色が僅かに変わる。電話の相手はおそらくマイルズ中将だろう。「急なんですが今夜、うちで食事でもいかがですか」

「え」

 ワトソンは小さく声を上げる。中将を招いて食事となれば掃除に買い出し、することが山とある。壁にかかった時計を確認し、部屋を見回し、それからまたシャーロックを見上げた。

「ちょっと先生、なんで急にそんなこと」

 小声で苦情を言うワトソンに、シャーロックは「いいからいいから」と同じく小声で返答した。お連れの方も一緒に、絶対に中将一人で行動はしないでください、と付け足して電話を切る。

「何ですか食事って、っていうか二十時って」

「あーいや気にしなくていい。別に本気で食事会をやろうと思ってるわけじゃねえんだ」

「どういうことですか、ちゃんと説明してください」

「まあ追々な。今日の夜九時には話せると思う」

 シャーロックはワトソンの頭を適当に撫で、それから慌てて部屋の掃除を始めたワトソンを苦笑いしながら手伝った。

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