来訪者
その日の午後、かねてより予定として入っていた幾つかの細かな依頼の残務を終え、ようやく調査に入ろうかという段になって扉をノックする音がした。駆け寄ってドアノブを引くと、壮年の男性が帽子を取って立っていた。
「シャーロック君はいるかね」
「中将」
珍しく慌てた風の声に振り向くと、シャーロックは立ち上がり、先ほど緩めた襟元を直すところだった。
「お久しぶりです中将。ご健勝のようでなにより。――しかし、いらっしゃるなら事前に仰ってください、私ももう少しまともな格好をいたしましたのに」
「いやなに、近所に用事があったので寄ってみただけだ」
客人はシャーロックに軽く手を振って見せ、それからその柔和な笑みをワトソンへ向けた。ワトソンの目の高さまで下げられた視線は、冬の空に似た薄い青をしている。
「ワトソン助手かな?」
「はい。初めまして、ワトソンです。――ええと」
「マイルズだ。よろしく、Mr.ワトソン三世」
マイルズ中将。小さくオウム返しにしながら、差し出された手を握る。大きく硬く、乾燥した温かい手。古い傷が幾つかあり、中指の先にはペンだこができている。人差し指の爪には真新しいインクが付着していて、ペンで何かにサインを行ったばかりだろう。
「どうぞお掛けになってください、コーヒーでもいかがですか?」
客人に呼びかけるシャーロックの声には喜色と敬愛とが滲んでいる。
「いや、構わないでくれ。どうせすぐ仕事に戻るんだ。時に、君はよく子供を拾うね」
「中将ほどではありません。それに」シャーロックの声のトーンが変わる。「ワトソン、彼は今何の用事ででかけていたと思う?」
シャーロックは相貌を歪めてワトソンを見、マイルズもまた期待に眉を上げた。毎度のこととはいえ唐突な指名に肩を跳ね上げたワトソンは、マイルズを再びまじまじと眺める。見た目はおよそ60代後半、ダブルボタンのスーツの襟には陸軍大将のバッヂが付いている。中将とはおそらくシャーロックと密接に関わっていた頃の呼び名で、今の正しい階級ではないのだろう。陸軍大将を務める人間が、わざわざ自分から出向き話をしなくてはいけない用事は、
「皇太子殿下の成婚パレード調印、でしょうか」
つい先頃、国営放送とそれに遅れて民放、新聞各社が皇太子殿下の成婚を報道した。王室の正当な跡継ぎとなる皇太子が成婚パレードを行うのであれば、その警備の指揮は陸軍になるはずだった。
ワトソンの返答に、マイルズは目を丸くして感嘆の声を上げた。シャーロックが満足気に鼻を鳴らす。
「いい拾い物でしょう?」
「驚いた、ほとんど正解だ。ワトソンというよりも、まるでリトル・ホームズだな」
「彼にはジョン・H・ワトソンに無かった大きなアドバンテージがある。まだ常識がないことです」
「先生、僕いま褒められてるのか貶されてるのかわからないんですけど」
髪をぐしゃぐしゃと撫で乱されながら、ワトソンは安堵と照れとに唇を尖らせた。それを見た彼の師は顔一面に喜びを湛えて笑い声を上げた。
「もちろん、大いに褒めているんだよワトソン君」
「確かに良い子だな。洞察力があって、知識も想像力もきちんと備わっている」
「今度は連れて行かないでくださいよ中将。長男の件は恨んでいますからね」
シャーロックが「恨み」という言葉に似つかわしくない笑みを向けた先で、マイルズは「さて、その時に考えよう」ととぼけた表情を作った。
「二番目の彼は?」
訊かれたシャーロックは苦笑いを浮かべる。
「未だ行方不明のままです」
「そうか。――さて、私は仕事に戻るとしよう。急に訪ねてすまなかったな」
「今度は是非お時間のあるときにいらしてください。まだお話ししたいことが山とありますから」
「楽しみにしていよう。では失礼」
大仰な音を立てて扉が閉まり、マイルズの足音が遠ざかる。シャーロックは一度息をついた後で、すぐさまコート掛けの方へ踵を返した。その背を追うワトソンが「中将はどんな方ですか」と尋ねると、シャーロックはワトソンをちらりと振り返り、「見た通りだ」と答えた。
「67歳の男性、陸軍で今は大将やってる。中将ってのは昔の呼び名だな。答え合わせか?」
「いえ、そうじゃなくて、先生との関係というか、――何だかずいぶん、尊敬していらっしゃるようだったので」
「そのことか。俺は昔軍にいてな、その時の教育係がマイルズ中将だったんだよ。退役すっときに『お前は目がいいから探偵でもやるといい』って言ってくれたのもあの人でな。恩人っつうか、まあ、親みたいなもんだな」
「軍」とワトソンは口の中で繰り返し、同じように「親」とつぶやいた。それらを斟酌する間もなく、外へ続く扉を開けたシャーロックの背に続く。
扉を出て階段を下り、建物の外に出たところに一人の男が立っていた。男は挨拶もなく一言目に「シャーロック・ホームズ先生ですか」と言った。
「そうだが、――今日は来客が多いな」シャーロックはうんざりした調子で答え、がりがりと頭を掻いた。
「ご挨拶が遅れました。私この辺りでフリーの記者をやっています、モーガン・テルフォードと申します。少しお話させていただきたいのですがお時間よろしいですか」
記者というにはかなりラフな服装の男は、肩に提げた大きな鞄から紙の束を取り出してシャーロックに示した。ワトソンの目の高さからその表側は見えなかったが、新聞や雑誌の切り抜きであることは見て取れた。
「この辺りでドッペルゲンガーが出るって話がありましてね。噂に聞けば先生はかの有名な世界的探偵、シャーロック・ホームズの生まれ変わりだっていうじゃないですか。どうぞお見立てをお伺いしたくて参りました」
シャーロックはつい先ごろまでの上機嫌もどこへやら、眉根を寄せ唇を歪めて男を睨めつけた。
「文屋のくせに太鼓持ちが下手だな。それとも常識がないのか?」
これほどまでに嫌悪感を表出するシャーロックを、ワトソンはほとんど初めて見る。普段のシャーロックは――もの思いに耽っている時以外は大抵、笑っている。男の何がそんなに気に障ったのか怪訝に思って、ワトソンは男と上司とを交互に眺める。シャーロックは手渡された資料をぱらぱらとひと通り見て、おそらくはそこに真新しい情報が無いのを確認し、男へ突き返した。
「今から調査に出るところだ。後にしてくれ」
「では日を改めます。失礼」
男は気にした風もなくすんなりと踵を返し、シャーロックもまた男とは逆の方向へ足を向けた。
「先生、どうかしたんですか」
シャーロックの歩調が早いのでワトソンは小走り気味にその隣を歩く。シャーロックはそれに気づくと歩調を緩め、深く息をついて肩と首とをそれぞれ一周回した。
「悪い。――ちっと嫌なこと思い出してな」
「嫌なこと?」
「まあ、おいおい話すよ。今は調査だ」
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