ドッペルゲンガー連続殺傷事件

ジャック・ザ・ドッペルゲンガー

「ここに置いてください」

 ノアが頭を下げると、シャーロックは読んでいた新聞から目を上げ、彼の頭から爪先までを検分するように眺めた。

「では君に問題だ。私は独り身で、子供はおろか妻もいない。実入りだって多くはない。見ず知らずの子供を世話してやる義理があるか?」

 低い声に問われてノアは身を固くする。もちろん、シャーロックの側にそんな義理はない。自分がわがままを言っていることは重々承知している。自分をここに置く利点も、義理も、目の前の私立探偵にはない。

「……ありません」

 ノアが答えると、シャーロックは「よろしい」と言ってその顔に笑みを浮かべた。

「論理的思考力はある。感情に流されない判断力もありそうだ。私はちょうど助手を探していたところで、運も良い。『ワトソン』を務めてくれたまえ」

「いいんですか」

 ノアが顔を上げた先で、シャーロックはわざとらしく片眉を上げた。

「気分を変えろというならすぐに変えよう」

「いいえ、いいえ!よろしくお願いします、先生!」

「よろしく、ワトソン」


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「あのときはまともな人に見えたのに」

 下着姿で大鼾をかいているシャーロックを見下ろし、ワトソンはため息とともにひとりごちた。時刻は九時、自らが運営する探偵事務所の営業開始時間を回っているというのに、身なりを整え事務所に出るどころかまだ床を出てすらいない。

 シャーロックにももちろん「まともに見える」時はある。私立探偵として某かの事件に関わっている時だ。――だが、そうでないときの彼はただの酒好きなだらしない中年男である。

「先生、起きてください。仕事です」

 カーテンを開け、日差しを部屋に入れて布団を引き剥いでなお、シャーロックは日差しを避けるように寝返りを打っただけで起き上がろうとしない。

「……あと、10分」

 低く掠れた声にワトソンの溜息が重なる。これでどうして今まで暮らしてこられていたのかと、何度となく繰り返した思考をなぞる。

「事務所にバルテン警部がいらしてます。なんならここにお越しいただきましょうか」

 客人の名を出し脅しつけると、シャーロックは「それは勘弁してくれ」と言ってようやくずるずると体を起こした。ワトソンはそこまでを見届けて上司の部屋を出る。

 シャーロックの事務所はメゾネット式の賃貸の一階にあり、二階は居住スペースになっている。階段を降りると、今さっき脅し文句として勝手に名前を拝借した警察官がソファで足を組んでいた。身長6フィートほどの長躯、くすんだブロンドの髪、年の頃は三十前後。シャーロックの古馴染みだという彼は、サットン警察署の警部だ。

「すみません、先生すぐ降りてくると思うのでもう少しお待ちいただいていいですか」

 バルテンは一度ワトソンに視線を投げ、「この時間に来たのが間違いだった」と言い、少し考えた後で「いつものことだ、気にしなくていい」と気遣うように付け加えた。傍らに同じく腰掛ける彼の部下は口を開かない。

 ワトソンが二人のコーヒーを淹れなおしていると、ようやくシャーロックが事務所まで降りてきた。ただし頭はボサボサ、無精髭も生えたまま、大欠伸をしながら。

「悪い、待たせた。――ワトソン、俺の分も頼む」

「仕事の時くらい身なりを整えたらどうなんだ?」

「失礼な、俺だって仕事の時くらいは身なりを整えている。これから聞く話が仕事になるかどうかはまだわからないってだけだ」

 眉を顰めた客人の苦言にシャーロックが混ぜ返す。舌打ちと睨む視線を気にする風もなく、シャーロックはからからと笑う。

「話を聞こう、バルテン。面白い話だろうな?」

「貴様の好みそうな話だ。十中八九仕事になるだろう。――身なりを整えてこい、見苦しい」


「ジャック・ザ・ドッペルゲンガー?」

 受け取った書類をぺらぺらとめくりながら、シャーロックはその文字を読み上げた。手に持っているのはいくつかの殺傷事件の調書と、それに関するゴシップ誌の記事だった。『ジャック・ザ・ドッペルゲンガー現る』と銘打たれた一番最初の記事は、今から二ヶ月ほど前のものだ。それから死者三名を含む十一名がドッペルゲンガーの襲撃に遭っている。

 新聞でジャック・ザ・ドッペルゲンガーの名を見た記憶はなかったが、ゴシップ誌各社は揃ってその名前を使っているようだった。シリアルキラーが「ジャック」の名を継ぐのは様式美のようなものだ。

「最近この辺りで通り魔が頻発していてな。三文文屋がそう書き立ててる。いい迷惑だ」

 シャーロックは大仰に顔を歪め、「ネーミングセンスが悪すぎる」とぼやいた。「だいたいあれは実体を持たないんじゃないのか?」

「だが、『ドッペルゲンガーに襲われた』と訴える被害者が相次いでいるのは確かだ」

 バルテンが指し示した書類は襲撃を生き延びた被害者の証言調書だった。そこには確かに、「自分に刺された」「ドッペルゲンガーに刺された」という証言が書かれている。凶器は刃渡り5インチほどのナイフ。凶器だけ見れば同一犯と言えそうだが、傷は概ね胸から腹、被害者が右利きならば体の左側、左利きならば右側を刺されている。被害者は老若男女をほぼ網羅しており、脈絡がないように見えた。強いて言えば、子供は襲撃を受けていない。

 シャーロックはそれらを心底愉しそうに眺め、「こんなオカルトを信じるなんて、警察も暇なんだな」と唇の端を吊り上げた。

「暇じゃないから依頼に来たんだ。オカルトは得意だろう」

 バルテンが言うと、シャーロックはついに喉を鳴らして笑い始めた。

「口上がうまくなったことは認めてやろう。――面白い、承った。他に情報は? 例えば被害者が襲われた場所の地図はあるか?」

「ある。サミュエル」

 サミュエルが鞄から取り出し机に広げた地図を、ワトソンはシャーロックと揃って覗きこむ。ロンドンの南側を中心として半径5マイルほどの地域のそこここに、襲撃地点としてマークがついていた。それぞれに付けられたアルファベット記号は被害者の調書と符合する。

「さて、どう思うワトソン?」

「――見通しの悪い道が多いですね」

 広げられた地図を見ながら、ワトソンが答える。サミュエルが怪訝を露わに片眉を上げ、それを見たシャーロックは満足気に唇を歪めた。「説明を続けてくれ」

「この道は、角のお家の庭木が手入れされていなくて、道路の方まで枝が伸びています。こっちの道はカーブミラーが割れていて、ここは街頭の電球がしばらく切れたままになってます」

「どうしてそんなことを」

 サミュエルに問われ、ワトソンは僅かに身を縮める。嘘は何ひとつ言っていなかったが、それでも疑われるというのは居心地が悪かった。それから、ちらりと盗み見たシャーロックの表情に一切の猜疑が浮かんでいないことに安堵する。

「ここしばらく猫探しの依頼が多かったので、この辺の道は歩きつくしているんです」

「歩き回らせた甲斐があった。やはり君はいい目を持ってる」

 齢十五のワトソンの言葉を、しかしシャーロックは殆どの場合で全く疑わない。記憶違いがあっても、的はずれな推測があっても、そのスタンスはここ半年の間変わらなかった。「私は君を信じる。君は君を信じる私を信じろ」とシャーロックが笑うので、ワトソンはシャーロック越しに自分を信じることができている。

「調査を始めよう。探偵は歩いてなんぼだ」

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