推理
夜。こつこつとノックの音がして扉を開くと、バルテンの姿があった。ワトソンは反射的に萎縮し、軽く会釈する。シャーロックは「用事がある」と言い置いて出かけて行ってまだ帰っておらず、だから事務所にはワトソンひとりだけがいる。
「遅くにすまない。シャーロックは居るか」
「バルテン警部、――あの、すみません、先生は今いらっしゃらないんですけど、何かご用事でしたか?」
「ではMr.ワトソン、君に預ける。昼間調べておけと言われた項目のリストだ」
言いながらバルテンは鞄から大判の封筒を取り出した。ワトソンはそれを受け取って、中の書類を少し覗く。
「それと、言伝を。大家は契約時に『ウォリック・ガードナー』に会ってる。大家曰く、ガードナーの特徴は」
「あ、すみませんちょっと待ってください、今紙とペンを用意します」
ワトソンがその場を離れようとした時、バルテンの背後からシャーロックが顔を出した。ワトソンは半分安堵し、別の半分で身構える。ここ数日で実際にバルテンがシャーロックに怒鳴りつけるのを見たわけではないが、正直いつそうなってもおかしくないと感じていた。
「ようバルテン、資料持ってきてくれたのか?」
「いいかげん着信の取り方を覚えたらどうなんだ」
バルテンに睨まれ、シャーロックは「悪い」と笑った。
「しかし、出れねえ時ってのはあるだろう」
「例えば?」
訊かれてシャーロックは眉を上げ、ワトソンを一度見てから「子供の前で言わせるんじゃねえよ」と唇を尖らせた。バルテンはそれを受けて盛大に溜息をつく。
「まあ立ち話も何だ、その辺座れ。ワトソンも。ガードナーのことは聞き出せたか?」
「猫背で細身長髪の男、だそうだ。契約書は今さっきMr.ワトソンに預けた」
「ふむ、貸してくれワトソン。――ガードナーが死んだ状況は」
「曰く、ウォリック・ガードナーの名前で前日から取られてたホテルの部屋で服毒死していたそうだ。歯型、持ち物、当人で間違いない。争った形跡はなく、チェーンロックはかかってなかった。部屋はオートロックで、死亡時に誰かがいたかどうかはわからない。毒はコーヒーカップとコーヒー、ガードナーの胃から検出された。それと、毒を入れていた容器も部屋に。遺書のコピーは?」
「見る。アパートの住人が一人を残して全員死亡、行方不明になってたガードナーは死体になって発見された。自供するような文句が遺書にあったもんで、やつらそれで話が終わりだと思ってる。花は?」
「あった。現場検証の写真が書類にあるはずだ。この男、アパートの住人を皆殺しにした後でわざわざホテルに移動してから自死したのか? アパートに住んでいたのに?」
「簡単なことだ。だがそれがあいつらにはわからないらしい。――ワトソン、この書類から何かわかるか?」
唐突に水を向けられてワトソンは肩を跳ね上げた。慌てて脳内を掻き回し、整理しようと試みる。アパートで起きた殺人、ホテルで遺体になって見つかったウォリック・ガードナー。その双方に置かれた花。ガードナーがアパートから持ち去ったのなら花がそこにあることに不自然はないが、しかし、依然として解決していない疑問があった。
「契約書の文字が、やっぱり依頼の手紙の時とは全然違います。さっきバルテン警部が言っていた外見的特徴も、依頼に来たガードナーさんとは随分違ってました。でも遺書の字と契約書の字は同じに見えますし、亡くなっていたのはガードナーさんで間違いなくて、……ええと」
着地点を考えず喋り始めたワトソンは途中で言葉を詰まらせた。頭の中だけで整理するには、考えるべきことが多すぎた。
「左利きだ」
「え?」
「契約書と遺書は左手で書かれている。昼間見た写真じゃ判然としなかったが、インクが擦れた跡があるな。よほど手早く書いたと見える、実に幸運だ。うちに依頼に来たガードナーの利き手は?」
訊かれて記憶を遡る。指定した時間きっかりに事務所を訪れた男が、ドアノブを掴んだ手。あるいは帽子を脱ぎ、差し出したコーヒーを受け取り、ずり下がった眼鏡を直した手。右、とワトソンが結論付けると、シャーロックはにっと笑って頷く。
「遺書を書いた人間は死んだガードナーではない。ガードナーの名前でアパートを契約し住んでいたのもだ。うちに手紙をよこし、依頼に訪れ、死体になって発見されたガードナーとあのアパートに住んで住人を皆殺しにした男は別人だ。そして依頼に来た方のガードナーは犯人に殺されたんだろう。痩せぎすで猫背で長身長髪の男にだ」
「しかし、容姿だけわかったところでどうして捕まえるつもりだ?」
「これから考える。親友の墓参りにでも出て来てくれれば楽なんだがな」
話が終わってバルテンは席を立った。
「何かあれば連絡を寄越せ。できるだけ取れるようにしておく」
「すみません、ひとついいですか。――今回の事件には、あんまり関係ないんですけど」
同じように立ち上がったワトソンの声にバルテンは動きを止めた。見返してくる緑の視線に苛立ちの含まれないことを確認し、ワトソンは安堵する。
「僕、今まで警部に名乗ったこと無かったはずなんです。先生も警部の前では僕をワトソンと呼んでいないはずです。どうして僕がワトソンだと知っていたんですか?」
バルテンは小さくため息を付いた後で、「その男」とシャーロックを指でさした。「その男が助手として連れ回してる。君がワトソンだと判断するのには十分だ」
短い返答を残して踵を返したバルテンを見送った後、シャーロックはそれまでバルテンの居た、今は扉があるだけの空間を指差してワトソンに視線を投げた。
「な? 悪いやつじゃねえんだよあれで」
「……警部と先生って結局どういう関係なんですか?」
「あれ俺の息子」
シャーロックの何気ない告白にワトソンは動揺し、つまり伴侶がいたのか、というかこの人を受け入れられる女性とはどういう人なのか、そもそも人なのか、或いは以前はまともだったのかと次々にいくつかの考えを巡らせ、そもそも目の前の師にそういう人間らしい歴史があるということに少なからず衝撃を受け、ようやくのことで「全然、似てないんですね」とだけ返答した。シャーロックはそれを聞いてげらげら笑った。
「素直か。信じるなこんなジョーク。大体あれが息子だったら俺がワトソンくらいの年齢の時に産んだことになるぞ」
無条件に信用してしまった上に大笑いされたワトソンは眉根を寄せる。そうして先ほど会ったばかりのバルテンを思い出し、これを何年繰り返しているのかと思って再びその苦労を偲んだ。
「先生、普通男性は子供を産みません」
「そうだな。さてワトソン、すまないが考え事がしたい。ひとりにしてくれ」
手で払うようにされてワトソンは息をつく。時計は深夜近くを指していた。怒涛のように入ってきた情報とそれによる興奮ですぐに寝付けそうにはなかったが、下がれと言われればそうするより他にない。
「では下がります。先生は明日は何時に起きられますか?」
「8時にまだ眠っていたら起こしてくれ。ありがとう、おやすみ」
「おやすみなさい」
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