「あの、先生、どうして警察の方にちゃんと話をされなかったんですか?」

 アパートを半マイルほど離れてから、それでもワトソンは心持ち小さい声でシャーロックに尋ねた。シャーロックは携帯電話を操作しながら、「バルテンが電話に出ねえ」と言って舌打ちし、「話?」とワトソンへ視線を投げた。

「先生、携帯電話使えたんですね」

「ん、まあリダイヤルくらいはな。で、何の話だって?」

「依頼の手紙のこと、遺書の字だって手紙とは全然違いましたし、第一、先生のことが全然書かれてませんでした。変じゃないですか、どう見ても」

 遺書の文面は簡単だった。アパートの住人全員を殺したこと、その償いとして死ぬこと。動機は親友の敵討ち。「復讐は終わった」と書き添えられたメモは、几帳面とも精緻とも言いがたいもので、それに加え、シャーロックに先日依頼した内容についてまったく触れられていなかった。ワトソンにはそれを書いたのがガードナーだとは思えなかったが、シャーロックはその場でそれを指摘しなかった。筆致のことと依頼のことを指摘せず、それどころかガードナーの遺体の様子すらほとんど聞き取っていない。

「簡単なことだよワトソン。依頼人の筆致について触れなかったことも、ガードナーの遺体について、死んでいた状況について問いたださなかったことも、まったく単純なただひとつの事実に根ざしている」

 シャーロックはそこまで言うと言葉を切り、携帯電話の液晶を眺めて頭を掻いた後、「俺はこれでも、古馴染みを侮辱されてちっと機嫌が悪いんだ」とぼやいた。

「機嫌が悪いからってそんな、――あ」

 視線を滑らせた通りの向こうに目当てのものを見つけ、ワトソンはシャーロックの袖を引いた。シャーロックは大袈裟によろめくふりをして立ち止まる。

「どうした急に?」

「あの花、現場にあった花です」

 ワトソンが指した先には一軒の邸宅があり、そこには現場に咲いていた花が揺れていた。シャーロックはワトソンの目の高さまで腰をかがめ、目を細めた。

「よく見えたなあんなの。俺には同じ花かどうかわかんねえ、そばまで見に行こう」

 アパートが立っているのはそれなりに歴史のありそうな住宅街だった。両側に古びた住宅の並ぶ、幅10ヤードほどの道をふたりは小走りに渡り、目的の花がある邸宅の前に立つ。数種類の花が色とりどりに咲く美しい庭の一角に、現場に落ちていたのと同じ花があった。

「見事だ。よく覚えていたな」

「ここのおうちの方に貰ったんでしょうか、あのお花」

「どれ、聞いてみよう」

 間を置かず、シャーロックはその家の呼び鈴を押した。ワトソンは驚いてシャーロックの袖を引く。

「なんで急に呼び鈴鳴らすんですか?!」

「呼び鈴を鳴らすのにどうやって宣言しろってんだ。話を聞こう、何かわかるかもしれない」

「あの、でも、ただ花があったってだけで」

「君はあの花を見つけた。そして花がここにあることを思い出した。確かめる価値がある。あるいは何の意味もないことでも、人違いでも」

「どうしてそこまで」

「言ったろ? 君の慧眼には期待している。おおいにだワトソン」

 門扉を開いたのは女性だった。白髪の交じる短い髪をふわふわに巻いていて、少し日焼けしていて、化粧っ気が薄い。シャーロックがそうするのに合わせて差し出された手は少し節くれ立っていて、短い爪は綺麗に磨かれている。

「唐突にお尋ねして申し訳ありません、私立探偵をやっていますシャーロック・ホームズと申します。こちらは助手のワトソン。ほんの少しお時間かまいませんか」

 女性は差し出された名刺とシャーロックとワトソンとを順番に眺め、その顔に困惑と怪訝とをたっぷり浮かべた後で、「探偵さんが、うちに何か御用ですか」と言った。

「昨夜そこのアパートでちょっとした事件が起きまして、ある男を探しています。ウォリック・ガードナーという男をご存知ですか」

「ガードナー……いいえ、知らない名前です」

「では、つい最近この花を誰かに譲渡したことはありませんか?」

「それなら、あります。随分長いこと立ち止まって眺めていた人がいて、少し切って差し上げたんです」

「少し。一本ではない?」

「三本くらいだったと思います」

 それを聞いてワトソンは首を傾げた。現場にあった花は一本だった。もし犯人が花に気がついていなかったのならあの場には三本ともが残ったはずで、つまり先の推理は的はずれだったことになる。犯人は意図的に花を二本持ち去った、あるいは一本を現場に残した。――何のために?

「その、切って差し上げたお相手は男性ですか」

「ええ男性でした。身長が高くて痩せぎすで、背中の曲がった方」

 身長が高くて痩せぎす、というのはウォリック・ガードナーの特徴には一致しない。ガードナーは身長5フィート半もないだろう小柄な男で、太ってはいないが痩せた印象もなかった。背筋はまっすぐに伸びていて、特徴を挙げるなら入ってこないはずはないような分厚い眼鏡をかけていた。

 ワトソンがシャーロックの表情を見ると、シャーロックもまたちらりとワトソンに視線をよこし、にっと笑った。

「手柄だワトソン。来た甲斐があった」

「あの、花が何か」

「ご心配には及びません。ご協力ありがとうございます、これできっと犯人を捕まえられます」

 なおも疑念と不審を浮かべたままの女性に礼をし、踵を返した路上でシャーロックは再び携帯電話を操作しリダイヤルを呼び出した。今度は目当ての相手につながったようで、お、とシャーロックは声を上げる。

「バルテン、二、三頼みが増えた。悪い。いや、戻らなくていい。まずこっちの状況から話す。アパートの住人は六人、さっきお前が見せてくれたメモの通り。死体は五つ。そう、数が足りない。んでもって足りなかった死体は他所で上がった。ウォリック・ガードナーだったそうだ。……あーいや悪い、聞かなかった。それ含め聞いといてくれ。あと遺書があったらしいからそれのコピーと、死体の状況。部屋の写真も頼む。あのでけえのに問い合わせりゃわかるだろ? ――だから悪かったって、頼むよ。代わりに今度どっかの風俗でも奢」

 ぶつ、と音がして、電話が切れたのがわかった。ワトソンは小さくため息を吐き、シャーロックは頭を掻いた。

「話す度に怒らせてませんか?」

「ジョークが通じねえんだよなああいつは」

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