安楽椅子探偵

 それから二日が経った。依頼人とは連絡が取れなくなっていた。シャーロックはほとんど安楽椅子探偵のような状態にあった。今回の依頼の中心となる依頼人の親友は首吊りだった。遺体の写真は資料に掲載されていたが、それだけだった。――端的に言って、シャーロックは飽きていた。

「でもやっぱり不自然ですよ、あんなにたくさん人が死んでいるなんて」

「アパート全体を見ればな。ただ、個人個人の死にはそれがほぼ無いんだ。依頼人にゃ悪いが、自殺としか思えねえんだよなあ」

「納得してくれますかね」

「してくれねえだろうな。こりゃ依頼料お預けだなー。期待してたんだが」

 そもそも連絡取れねえってどういうことだよと文句を言いながら、シャーロックは椅子にのけぞって机に足を投げ出した。その表情に浮かぶものが無念なのか落胆なのか、ワトソンにはまだ区別がつかない。とうに過ぎて警察に処理されたものを、処理した警察の資料から覆せと言われているようなものだから、煩わしく思っているのかもしれない。

「シャーロックはいるか」

 ノックの返事を待たずに扉を開いたバルテンは、その悲鳴を聞いて顔をしかめ、蝶番を睨んで「いつまで鳴らしておくつもりなんだ」と小さくぼやいた。シャーロックは机から足を下ろし、体を前のめりに起こす。

「珍しいじゃないか、そちらから顔を出すとは」

「話がある。時間は」

「5分で終わらせろ」

 シャーロックはわざとらしく眉間にしわを寄せ、声を落として短く返答した。ワトソンは首を傾げる。

「今日、何か予定あるんでしたっけ?」

 問うと、シャーロックは渋面を崩して「それを言うなよ」と大袈裟に笑った。代わりにバルテンの眉間の皺が深くなるのを見とめ、ワトソンは「だから嫌われているのでは」と内心で嘆息した。同じことを何年繰り返しているのかと思えば、バルテン警部の苦労が偲ばれる。

「ジョークだジョーク。どうせ暇だからゆっくりしてけ。ワトソン、コーヒーみっつと自分の分な」

 はあい、と返事をしてカップのある棚へ駆け寄ろうとしたワトソンに向け、バルテンは「いや」と言って手で制するしぐさをした。「必要ない。話は移動しながら聞く」

「移動?」

「例のアパートの住人がどうやら全員死んだ。今から現場に行く。暇なら顔を貸せ、探偵」


 第一発見者は新聞配達員だった。通報を受けて警官が踏み込むと、一部屋ごとに一つ死体がある状態だった。争った形跡のあるもの、ないもの、あるいは部屋がひどく荒れているもの。事件性が明らかだとして改めて地方本部まで連絡が上がり、正式に調査する段階になって話を聞いたバルテンは、二日前にシャーロックに見せられたメモを思い出し、現場へ向かう道中でシャーロックを「回収」しに訪れた、らしい。

「よく覚えてたな、あんなちらっとメモ見ただけで」

「たった二日前のことだ」

 唐突に引っ張り出されたせいで無精髭を整えないままのシャーロックは、パトカーの後部座席にいるとどうも容疑者然として見えた。前部座席には本職の警察官二人が並んでいる。シャーロックと同じく後部座席のワトソンの位置から二人の表情は見えず、バックミラーにはサミュエルの額と髪の生え際だけが映っている。

「アパートの住人リストくらい持ってるな?」

「大家への正式な聴取はまだだが、電話連絡で確認は取っている」

 バルテンが寄越したメモを見たシャーロックは口の端を歪めて顎鬚を撫でた。ワトソンに見えるよう傾けられたメモの中に――ウォリック・ガードナー、今回の依頼人の名が連なっている。

「先生」

「ちょっとは面白いんじゃねえの」

 くつくつと喉を鳴らすシャーロックを横目に、ワトソンはひとり眉根を寄せた。そこに住んだ人間を死に至らしめる呪いのアパート。依頼の内容は「アパートに住んだ親友が死んだ原因を突き止める」こと。シャーロックの元にその依頼を寄越した当人が、アパートの住人として今ここに名を連ねている。

 一方、シャーロックは二日前にアパートへの立ち入りを拒まれている。依頼人が内部に居るなら、いっそ手引を受けても良かったはずだった。依頼人はどうしてだか、協力者ではなかったのだ。

「……混乱してきました」

「まあまあ、調べてから考えりゃいい。わざわざ呼ばれたってことは中にも入れてくれるんだろ?」

 バルテンはシャーロックの質問を黙殺し、シャーロックは「沈黙は肯定だな」と勝手に納得して上機嫌に笑っていた。


 ところが、件のアパートにシャーロック一行が到着した時、そこには別の警察官が複数人立っていた。そのうちの一人、際立って厳しい顔をした男がつかつかと寄ってくる。身長6フィートほどあるバルテンよりも更に長身、体重で言えば倍近くありそうなその男は、眉間にバルテンに負けず劣らずのしわを寄せて一行を睨みつけた。ワトソンは今度こそ悲鳴を上げそうになったが、それを飲み込むことができたのはシャーロックが「でけえな」とのんきに呟いたのを聞いたためだった。

「ここはうちの管轄のはずだが」

 バルテンの声は低い。ワトソンと二人との間には高さにして10インチの差があり、ふたりが睨み合っているのはワトソンにとってはほとんど上空だ。飛んで来る火花から身を守るように首をすくめつつ、ちらと見たシャーロックが依然としてほんのり愉快そうな顔をしているのに安堵する。その一方でサミュエルはほとんど敵意に近い苛立ちを表情に滲ませていた。

「聞けばこのアパートでは不審死が続出していたと言うじゃないか。それを今まで放置してきた無能たちに預ける訳にはいかない」

「こちらにはこちらの都合というものがある。そちらと違って好き勝手に仕事を選べるわけじゃないんでね」

「とっとと下がれ田舎警察」

 一触即発のやり取りの中に割って入ったのは、然り然りと笑い含みのシャーロックの声だった。

「無能も無能、しっかり調べていれば未然に防げたかもしれない事件をみすみす発生させた罪は重い」

 突如口を挟んだ見知らぬ訪問者に対し、男は嫌悪と不快を一層露わにした。一方のバルテンはというと、毒気を抜かれたとでも言うようにがりがりと頭を掻いてため息を付いた。二人から、あるいはサミュエルを含む三人からシャーロックへの集中砲火を予想したワトソンは、安堵の傍らで僅かに当惑する。

「……次からは予めご連絡いただきたい。そうすればこちらとてわざわざ赴かなくて済んだものを」

 バルテンが引き下がると、男は満足気に鼻を鳴らした。

「さて、私はあの田舎警察の人間じゃありませんから、阻まれる理由もありませんね?」

「素人は引っ込んでいろ」

「そう言わずに。素人目もあるいはお役に立てるかもしれません」

「このアパートの住人から依頼を受けてる探偵だ。部外者じゃない」

 バルテンの口添えに、男はまた面倒な要素が増えたとばかり舌打ちをする。

「あ、バルテンちょっと待った」

 シャーロックは踵を返したバルテンを呼び止め、何事かを話した。頷いて去っていくバルテンに背を向け、シャーロックはアパートに向き直る。

「しかし、この前も思ったが随分小さいな。ほとんど民家じゃないか」

「『貧乏な学生が住むには破格の条件』でしたっけ」

「案外曰くつきの家をアパートとして再利用したとかかもな。凄惨な殺人現場として値下がりした建物を安く買って――」

「ちょっと!」

 ワトソンの悲鳴にシャーロックは「ジョークジョーク」と声を上げて笑った。

「さて、現場検証と行こうじゃないか」

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