第21話 ジキル&ハイド

 僕は、人を殺した。


 僕には年の離れた姉がいた。凄い美人で、優しくて、僕の自慢だった。本当に大好きだった。それは嘘じゃない、嘘じゃないと信じていないと狂いそうになる。

姉は一六才の時に暴行された。犯人は近所に住む妻子持ちの男で、魔が差した、と供述したそうだ。姉は精神を病んだ。そして家に引きこもっては、自殺未遂を繰り返すようになった。体面ばかり気にする親はそんな姉を隠した。高校も辞めさせた。そんなある日、姉は僕に、やけに透き通った目をして訊ねてきたのだ。

「ねえ弘太、私、死んだ方が良いのかな?」

傷跡だらけの手首からまた血を流して、姉は僕にそう訊ねた。

その言葉が口を突いて出た瞬間、僕はびっくりした。何を言っているんだ僕は!?でも言葉は止まない。

「死ぬ死ぬ詐欺はいい加減にしてよ。みんな迷惑しているんだから」

「……そう、ごめんね」

姉は微笑んで、また自室にこもった。

僕はあ然としたまま、今の出来事は夢じゃないのか、幻覚を見聞きしているんじゃないのか、だって僕は姉が大好きだ、そうだろう?と繰り返し考えていた。

その日の夜更け、姉は首を吊って死んでいた。見つけた母親の絶叫、僕は一生忘れないだろう。

あれほど綺麗で優しかった姉が、あんな、人間の形をした肉の塊になってしまった。

それは、僕が殺したからだ。

僕は、たった一人の姉を殺したんだ。


 助けて!誰か助けて!僕はこんなのは嫌だ!

いやいや、何で助けを求めるんだい?僕が本当に実際に現実にやった事だろう?逃げるのかい?僕の罪から逃げるのかい?卑怯だねえ、最低だねえ、まるで蜘蛛の糸に群がる罪人だ。

違う、僕は違う、そうじゃない、そうじゃないんだ!

何が違うんだい?何も違わないだろう。僕がやったんだ!僕が殺したんだ、姉さんを!なのに、何で僕は罪らしき罪にも問われず、のうのうと生きているんだい?僕は罪人なのにどうしてみんなの中で笑っているんだい?さあ答えろよ。答えるんだ!

助けて!もう止めて!許して!

僕を許す?そんなお人好しの馬鹿がこの世のどこにいると思っている?僕は一生罪人なんだよ。姉殺しなんだよ。いい加減に理解しろよ。まだ理解しないなら、今度こそ理解させてやる。

何するんだ!?止めてくれ、もう嫌だ、止めて!


 「やあ……大和」と羽黒が疲れ切った顔をして大和の居室にやって来た。「ちょっと話、良いかな?疲れすぎたのか眠れなくてね」

「うん、良いよ。大丈夫?何か凄い顔をしている」

「ああ、疲れているのに眠れなくてね。精神的に来ているのかも知れない」

「うわ。話ならいくらでも聞くよ」と大和はベッドに腰掛けた。

「ありがとう」

羽黒は椅子に腰掛けて、しばらく雑談していたが、

「『悪魔』って実在すると思う?」といきなり言い出した。

「ヒロ先輩でしょ、出刃包丁を片手に、ニンジンを残した瑞鶴先輩を追い回していた……」

「そうじゃなくて。本物の、悪魔だよ。本当にいると思う?」

「うーん……。分からない」

「それがね、実在するんだよ。僕は悪魔に会った事があるんだ」

「えっ!?それ本当!?」

「見た目はとても綺麗で美しくてね、まるで天使のようだった。声も柔らかくて穏やかでね。でも恐ろしいほど人の弱点に付け入るのが巧かった」

「こ、怖いね、それ」

「一番大好きなのは取り憑いた人が苦しむ姿でね。それも並大抵の苦悩じゃ物足りない、自殺さえ許されないほどの大罪に痛めつけられて泣き叫ぶ姿を見るのが楽しみだった」

「や、止めろよ、羽黒、僕が怖い話苦手だって知っている癖に」

「人に取り憑く時はね、いつももう一つの人格として取り憑くんだ。そうするともう、並大抵の悪魔払いや異端審問官でも手が出せないからね。更に、憑依した事にも気付かれないから、本当に楽しいんだ」

「は、羽黒、何言ってんだよ、いい加減に」

「――なあ、おい、『僕』よ」羽黒は片手に台所から盗んできた包丁を握っている。大和がひっと息を呑んだ。「『僕』の仲良しをここでこうしてやったら、さぞお前は泣き叫ぶんだろうなあ!」

「えい」とそこで俺が天井の板を開けて催眠スプレー(ヒロが持っていた。那智さん用だって。)を羽黒の顔に吹きかけると、羽黒は包丁を持ったまま昏倒した。

「うげ、げほ、げほッ!」巻き込まれた大和もむせている。「な、何を、するんだ、よ……」

と言いながら大和もベッドに倒れて意識を失った。

「えーと、悪魔払いです。大和は関係ないから寝ていろよな、ごめん」

「酷いですね、この子は悪魔のやった事でも自分がした事として受け入れなければならないなんて」と先に部屋に降りたヒロが小さな声で言いつつ、窓とドアを開けて換気してくれる。

「人間の中には必ず悪魔がいるんだよ。それとどう折り合いを付けていくか、さ。俺も、いっぱい見てきたよ。外面は聖人君子でも、家に帰ったら一〇才のガキを嗤ってレイプするような人間を、沢山ね」

「清君……」シロが俺を抱きしめる。ああ畜生、俺、これに弱いんだよね。

「……俺は大丈夫。シロ達がいる限りはね」


 「清、何で僕は椅子に縛られているんだい?」

羽黒はキョトンとした顔で、俺達を見つめている。

「悪魔払い」

「悪魔払い?」

「うん、お前の中にいる悪魔をあぶり出す」

「何を……言っているんだい?」

「端的に言うね。お前をぶちのめす」

「や、止めろ、僕に何をするんだ!?」

「じゃーん」と俺は聖水と聖典、それから『十字架』を取り出した。長門に頼んで、イスカリオテから貸してもらったのだ。イスカリオテの兄ちゃんから『ちゃんと返さなかったら宣戦布告だ』と脅された、紛れもない本物である。途端にゲエゲエと凄い声で喚き出す羽黒。

『クソが!この俺様に何てものを――!』

「とりゃー」と俺は聖水をスプレーボトルに入れて羽黒目がけて発射した。浴びた瞬間、白目を剥いて痙攣する羽黒。俺は試しに俺目がけて発射してみた。ただの水だった。普通に濡れた。

『殺してやる!』と白目のまま羽黒は言う。

「とりゃー」

『ぎゃあああああああああああああああああああああああああああ!!!!!』

「とりゃー」

『うげええええええええええええええ!!!!!!!!』

「とりゃー」

羽黒の悪魔が黙るまで約一時間。デカいスプレーボトルが空になった瞬間、悪魔がニヤリと嗤ったのが分かった。

「あ、ごめん。詰め替え用がまだあるんだ」

そう言って俺が聖水をパウチに詰め込んだ(聖水をパウチに詰めて良いんだろうか?)ものをデカい段ボール箱から取り出した途端、悪魔は流石に引きつった顔をする。生憎だけれど、この段ボール箱も、まだ三箱あるんだよね。

『な、何が望みだ!?』

「とりゃー」

俺はこの間聖典を音読しているヒロ、それから結界を張っているシロの様子を見た。二人とも全然疲れている感じは無い。よし、続行。

『止めろォオオオ、もう止めろォオオオオオ!』

「とりゃー」

『ぎぃええええええええええええええええ!!!!!!』

「レッツ根絶ー」

『き、貴様!このガキから俺を根絶して良いとでも思っているのか?』悪魔が突然元気になった。『俺様はこのガキの人格の一つだ!このガキの人格を消し飛ばしてこのガキが無事で済むと思っているのか!俺様と取引しようじゃないか!』

「だが断る」

悪魔は油断した瞬間にスプレーされて悶絶する。

『ぎゃあああ!貴様は、本当に、俺様を、畜生!こうなったら一度地獄に戻って、』

「あ、そうだ、地獄に帰らなくて良いよ。ここで消えてもらうから」

『悪魔を消滅ぅ!?』悪魔はゲラゲラと嗤った。『救世主でも出来なかった事を、貴様のようなただの小僧が出来る訳が無いだろう!愚かなり人間よ!』

「とりゃー」

だがもう悪魔には効かなかった。と言うか羽黒が出てきた。

「清、助けて」怯えきった羽黒が出てきた。「僕を殺して、地獄に堕として!さもないとコイツは僕の姿でどんどん被害者を増やすきりだ!」

「羽黒、お前、誰に何をしたんだ……?」

「あは、ははは、僕の姉さんさ、実の、たった一人の!精神的に弱り切っていた姉さんに僕は、僕が致命打を与えた!お願いだ、殺してくれ!僕は僕の中にいる悪魔の言いなりなんだ!」

「うーん……。殺してくれって俺に言うくらいなら、羽黒、お前は自殺しろ」

「えっ」と羽黒が一瞬だけ地の顔を見せた。その顔に俺がすかさずスプレーしたら、悶絶する。

「――やっぱり。羽黒、お前はお前の中に悪魔がいるって言ったな?でも違う。

次の瞬間、けたたましい大笑い。

『ぎゃはははははははははははははははは!!!!!!!!!!』悪魔が爆笑していた。でもこれが羽黒なのだ。恐らく、悪魔が憑依している間に、羽黒と一体化したのだ。それでも微かに変な所が残っていて、それを焔神が感知した。だからみんなが気付かなかった。『その通りだよ!僕が悪魔で、悪魔が僕なんだよ!』

「違う、違う、こんなの僕じゃない!」

ああ、これが羽黒の恐怖か。

『いい加減認めようぜ、僕。人間、必ず心の中にジキルとハイドがいる。そしてその二人を、その二人ですら管理できない善でも悪でもない部分をも一切合切包括して人格として存在しているんだ。だが僕は違ったな?幼い頃の一度の過ちをきっかけに悪を悪として切り離し、悪魔として名づけて人格から放棄した!結局お前は俺を受け入れるだけの度量も無ければ、過ちと罪を背負っていく悲しみからも目を背けて逃げた卑怯者なんだよ!おい僕!いい加減に認めようぜ!』

「違うんだ、僕は姉さんを殺してなんか、殺してなんか、」

『いやいや、事実、疎ましかっただろ?憧れの姉さんがボッサボサの髪の毛の青白いメンヘラになっちまって嫌だっただろう。あんなの姉さんじゃない、あんな汚くて病んでいて夜中に絶叫して泣きわめくような女は僕の姉さんじゃない。そう思っていただろう。だから言った!だから致命打になると知っていて言ったんだ!ほら、認めろよ!』

「嫌だ!僕は人殺しじゃない!」

『……ヒヒヒ、埒があかねえなあ。良いぜ、僕。お前が認めるまで、俺が事実を作ってやる。何度だっていつだって、作ってやる!』

「止めろ!清、助けて、僕を殺して!」

「俺はお前を助けないよ」俺はうんざりして、羽黒を突き放した。「そんなに死にたかったら自殺すれば良いって何度言わせんの?俺を罪人にしてお前が天国に逝くなんてマジ馬鹿馬鹿しいよ」

「違うんだ!これは全部悪魔が、」

「そう言っている限りお前は同じ事をやり続ける。いつまでも、俺達は純粋無垢な子供のままじゃいられないんだ。汚くて醜い大人に、なる時が来たんだ。――甘ったれんな!」

「清……」

俺は、俺が不機嫌な理由を言ってやる。

「――大和ってさ、見た目からしてちょっとガキっぽくて幼い感じするだろう?剣道サークルの中じゃ、一番年下に見えるじゃん。小動物っぽくてさ。酷い事したって反撃できない、そんな感じするじゃん。――で、お前は大和に何をしようとした!」

「あ、あ……」

「ここでの生活がストレスと苦痛の塊ってのは知っている。お前はその鬱憤を最悪の手段で大和にぶつけようとしたんだろう。おい、答えろ、お前は大和をどうするつもりだった!」

「ち、違う、そうじゃない、そうじゃなくて!」

「また逃げるのか?」俺は羽黒を冷めた視線で見た。「……あっそ。失望したよ」

「!!!!!!!!!!」

羽黒がぎゅっと目をつぶった。ずっとつぶっていたけれど、ガタガタと震えつつ、言った。

「僕が姉さんを殺して、大和を強姦しようとした」

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