第7話 王位継承戦争
武蔵綾嗣は王太子である。
武蔵財閥の跡取りとして産まれ、見目麗しく、学芸に秀でており、ユーモアに富んだ性格は誰からも好まれて、強いて欠点を上げるならば『真正のお坊ちゃまである事』と『ファッションセンスが壊れている事』であろう。だが前者は当然の事であったし、後者は補佐がいればどうにでもなる事であった。
彼は生まれてこの方、何にも不自由した事が無く、苦労らしい苦労をした事が無い。
両親は一人息子であり、しかも優秀である彼を厳しく躾けつつも溺愛したし、彼の館にいる使用人の誰もが彼を可愛がった。ちっとも高ぶらずに彼らの後をついて回る麗しいお坊ちゃまをただ憎み、嫌う方が難しかったのだ。
彼の前途たるや、栄誉と光輝に満ちあふれている。
優秀な彼は一族の間で武蔵財閥の跡取りとしての素質に何の不安も持たれなかったし、むしろほぼ全ての一族が『彼でなければ』と歓迎していた。
世界に君臨する財閥の『王』になるべき少年。
それが彼、武蔵綾嗣である。
だが、彼はお坊ちゃま気質ゆえに知らない。
王が玉座に腰掛けるまでには、骨肉の王位継承戦争が付いて回る事を。
――敵は彼の従姉、武蔵
彼より五才年上のこの女は、綾嗣が生まれてさえいなければ、武蔵財閥の跡取りになっていたのだ。
アイツさえいなければ。
外では美しい笑顔を向けながらも、内心では般若の形相で彼女は綾嗣を憎んでいた。
ずるりずるりと、迫る、異形。
俺達は恐怖のあまりに思考が停止して、動く事さえ出来なかった。
もう駄目だと思った時に、音がした。
まるで翼がはためいているような音がした。
そして、次の瞬間、天空から一匹の『竜』が異形の群れを強襲した!
夜でも分かる、漆黒の巨躯、そして燃えるような緑の目。
瞬く間に全ての異形を破壊してしまうと、竜は飛び去ろうとする。
「ま、待って!」俺は咄嗟に叫んでいた。「ありがとう!」
『……』竜はじっと俺達を見た。『ニンゲンに礼を言われる筋合いは無い』
喋った、言葉が通じた!
緑の目が俺をじっと見て、怪訝そうに、
『……お前は誰だ』と言った。
「俺は葛城清って言うんだ」
『聞いた事の無い名前だ。 だが、どこかで私と会った事は無いか』
「俺の兄貴じゃないかな、それ。 ヒカルって言うんだけれど」
『……ヒカル殿の弟君か』竜の目が丸くなった。『これは僥倖。 私はヴォルフラム・フォン・ザロメと言う。 見た所、人家のある麓まで行きたいようだな』
俺達は全力で頷いた。
『灯りが見える所まで私がお運びしよう』
ありがとうございます!
竜の大きな背中に乗って、ゆっくりと夜空を飛ぶ。
俺はこうなった事情を話した。
するとヴォルフラムさんは、
『この山は古来よりニンゲンは立ち入らぬ「穢れ地」よ。 それが数ヶ月前よりうるさくなり、見てみればニンゲンが立ち入って工事とやらをしておった。 案の定、そのニンゲンは全員この山に喰われたがな』
「ま、待って下さい」と言ったのは酒匂さんだった。「だとしたら、どうしてその情報が我々に伝わっていないのですか!? いえ、そもそもこんな危険な場所にどうして綾音様は、……まさか!」
ここで酒匂さんは絶句した。
「……酒匂、落ち着け」武蔵先輩がなだめつつ、「確かに俺が死ねば、次の武蔵財閥の跡取りはあの従姉だ」
……俺達は事情を察して、黙り込んだ。
『ニンゲン、一つ頼みがある』ヴォルフラムさんが言った。『この山を元通りにしてくれ、せめて元通りニンゲンが決して立ち入らぬ場所へ』
「分かった。 約束する」武蔵先輩が頷いた。「酒匂、命の恩人の頼みだ、すぐに」
「はい、お坊ちゃま!」
『?』
その時だった。ヴォルフラムさんが木々の間に着陸した。
『誰か来る……?』
遠くで車のライトが輝いた。
「「あっ」」俺達はそこで思い出したのである。「「先生だ!」」
やがて山道をドリフトして見慣れた車が登場する。やばいって事故するって!
……その車はけたたましいブレーキ音を立てて急停車し、中からシロが出てくる。シロは俺達の方へ向かって山の中を突進してきた。
そしてヴォルフラムさんの前に立つと、いきなり土下座した。
「ありがとうございます!」
『!!!』ヴォルフラムさんが驚いた、と言うか、たじろいだのが分かった。『ま、まさか、貴方は、』
「ええ、私です。 彼らを助けて下さって本当にありがとうございます」
『……先だってはあの忌まわしき連中の来訪、お知らせ下さり、こちらこそ……』
「私では間に合わなかった」シロがやっと頭を上げた。「彼らが穢れ地に喰われる前に、間に合わなかった。 だから、」
本当に感謝申し上げます。
『……と、取りあえず、立ち上がって下され。 このままでは、話しにくい』
「はい」シロがやっと立ち上がった。「……住み処に異常などは起きておりませんか」
『おかげさまで、私の所でも、三人、産まれました。 滅び行くばかりだと思っていた我らが一族、ようやく……。 あの連中が来たと言う知らせを頂いたので、巡回しておりましたら、このニンゲン達が異形に襲われている所に会ったのです』
「それは、本当に良かった。 彼らはここからは私が引き受けます。 本当に、ありがとうございました」
『いや、こちらこそ』
そこで俺達はお礼を言って、ヴォルフラムさんと別れた。
「竜が実在して、しかも助けてくれたなんて、ちょっと混乱してしまうぜ」
瑞鶴先輩が安心したのか、車の後部座席で呟いた。シロの車、ちょっとおかしくて、外からはどう見ても五人乗るのが精一杯なのに、俺達全員を乗っけてもまだ中には余裕があるのだ。
「先輩、命の恩人に何て事を!」時雨が怒った。瑞鶴先輩は違う違うと首を振って、
「そうじゃないんだ。 ほら、竜ってファンタジーの生き物だとばかり思っていたからさ、まだ現実感が無いって言うか……」
「まあ、確かにな。 だが恩人である事は間違いない」武蔵先輩は、さっきからずっと無表情である。そうだろうな、従姉が命狙っているんだから。「綾音よりは、余程まともだ」
「お坊ちゃま……」酒匂さんは悲しそうに言った。「お坊ちゃまは、これからどうされるのですか」
「綾音が先に俺を殺そうとした。 だから、俺がこれからする事など決まっている」
「……」
「酒匂、お前だけ帰れ。 そして恩人との約束を果たしてやってくれ」
「お坊ちゃま?」
この時俺達は、武蔵先輩の見てはいけない一面を見てしまった。
「俺は少し、用事があるのでな、気が向いたら帰るとしよう」
その横顔は、いつもの武蔵先輩らしい、ユーモアとか人間味とかを全て捨てた、美しくて残酷な悪魔のそれだったんだ。
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