第2話、あるいは相棒への決意表明と、桜が運んだ優しい幻想
どこをどう走ったのか、もう記憶にはない。気付けば春翔は部屋へと到着し、洗面所で胃の中身を吐き出していた。
全身から吹き出す冷たい汗。
眩暈を起こすほどの頭痛。
痛みを感じるまでに脈動する心臓。
許容量を超えてもなお、酸素を取り込もうと暴走する肺。
その全てに耐え切れず、すでに中味を吐き出しきってもなお、黄色くねばつく唾液を吐き出し続ける。
そうして。
辛うじて落ち着きを取り戻し、顔をあげて鏡に映る自身の姿を見る。顔から色は失せて、その目は輝きを失い自分を見つめ返している。
「ひっでえ顔だな、クソ」
漏れ出た悪態は弱々しく、目を閉じて呼吸を整える。そして着ていた服を脱ぎ棄て、自室の風呂場でシャワーを浴び始めた。
頭からかぶる水は黒髪を伝い落ち、身体に纏わりついていた汗の不快感を洗い流す。それでも、胸のうちに広がり、泥のようにこびりついた暗鬱とした気持ちを濯ぐまでには至らない。
「約束守るために、自分なりに頑張ってきたつもりだったんだけどな。どうして俺は変われない? どうして俺は、弱いままなんだ……!」
自身を叱責し、風呂場の壁に拳を叩きつける。やり場のない感情はいつまで経っても消えてくれそうになく、苛立ちと焦燥が春翔を責める。
自身の弱さが許せず、積み重なった感情はやがて涙となって外界に現れる。
「優華。俺、どうしたらいいのかな。せっかく望んだものが手に入ったのに。厄霊(あいつら)と戦う力があるのに、俺弱いまんまだ。あのころからずっと……」
自分にそんな権利などないと思っていても。
かつて自分が手にかけた大切な家族の名前を呼び、耐え切れずに弱音を吐き出す。
贖罪になどならないと分かっていても、剣も振ることすらできない状態になっても、それでも互いに交わした約束を果たそうとして、春翔は強くありたいと願い続けた。悲鳴をあげる身体を無視して、無理矢理に剣を振り続けて慣らし、それと並行して身につけていた『もう一つの』力も磨き続けた。
12歳を過ぎても精霊との契約ができず、精霊騎士の道が閉ざされたと知ったときには絶望し、師や叔母から別の穏やかな生き方を示されるも、ただがむしゃらに己を鍛えつづけた。
そうしてある日手に入れた、騎士の力。望む力が手に入ったというのに、それを振るう己自身が、あまりにも弱すぎる。
シャワーから流れる水の音に混じって、か細く震える嗚咽が、風呂場に響いていた。
上半身だけ何も着けずに、バスタオルで髪を拭きながらリビングに出る。電気も付けずカーテンも閉め切っているため、部屋は薄暗い。そうして突然目の前に、白い燐光とともに一人の少女が顕現した。
見た目は10歳ほどの幼い少女だ。銀髪はおかっぱに切りそろえられている。額からは黒い角が二本見えており、ただの人間ではありえない風貌を見せている。
着ている和服も白く、おまけに肌も雪のように白い。ぱっちりとした瞳の色は黒く、心なしか潤んでいる。ほぼ白と黒しかないその姿のせいで、少女だけモノクロの世界から切り取られたのではないかと錯覚するほどだ。
「どうした? 急に出てきて」
名前もいまだに分からない少女の前まで行き、膝をついて座って少しでも目線を合わそうとする。すると少女は自身の袖で春翔の頬を拭く。
「ありがと。優しいんだな」
苦笑しながら優しく告げる春翔に、少女はピクりと体を揺らす。そしてすぐに春翔から袖を離し、その白い肌にほんのりと朱色を差して俯く。
「やっぱり怖がられてんのかな……。ね、やっぱり何か喋れない?」
なるべく少女に圧迫感をかけないように、少女へと言葉をかける。それを聞いた少女は顔をあげて口を開く。けれども空気が漏れる音が聞こえるばかりで、申し訳なさそうにまた俯く。
「やっぱりダメかー。いいよ気にしないで」
そう言って目の前の少女の頭を撫でる。ワシャワシャと繰り返しているうちに、少女の表情もやわらかいものとなっていく。それを見て、春翔は温かい気持ちが胸に広がるのを感じた。
「精霊と信頼関係を築き、本当の名前を知るところから騎士は始まる、か。でも喋れないんじゃどうすりゃいいのかな。名前も教えてくれないし」
契約を交わした直後から、春翔はこの精霊の真名を聞き出そうと試みていた。声が出ないのは分かっていたので、筆で書かせようとしても少女は頑なに拒否を示した。叔母に相談しても、
『そのうち分かるさ。時がくるまで待っとけばいい』
と言うのみなので焦らず待ち続け、結果、入学式を迎える今日に至る。それまでの日々を思い返し、春翔はふと思う。
今日まで精霊のことを知ろうと努力してきた。それが正しい方法で行えたのかは分からないが、それでも、積極的に関わろうとしてきたのは間違いない。だが、春翔自身の思ってることやこれまでの過去、そういったものを自分から話した記憶が、あまりないことに気付いたのだ。
「知ろうとしてばかりで、自分のことこいつに知ってもらってないのかも」
小さく呟き、視線を少女へと向ける。その視線に気付き、精霊は可愛らしく小首を傾げる。
「なんか改まって話すとなると、ちょいと恥ずかしいな。どう話そう。……うん」
しばらく逡巡していたが、やがて意を決したように、目の前の少女に思いを告げる。
「俺さ、君には感謝してるんだ。ずっと約束を果たしたくて、自分の体に鞭打って。精霊騎士になれないって言われても諦めきれなくて馬鹿みたいに鍛えて。そんな時君が俺を見つけてくれた。戦うための力をくれた。霊装が刀だったのはちょっときついけど、それも、自分が乗り越えなきゃいけないことなんだって今では思ってるから」
春翔の言葉に、精霊は悲しそうな表情へと変わっていく。それを見て自身の胸に痛みを感じながらも、無理矢理に笑顔を張り付ける。
「そんな顔すんなよ。ただ、うん。多分知ってると思うけど俺弱いんだ。今朝だって情けないところ見せてしまうし、これから先もああなってしまうこと、何回もあると思う。でも絶対に、乗り越えてみせるから。君がくれたこの力、使いこなせるようになってみせる。だから、君と頑張っていきたい。優華と……妹と交わした約束を果たせるように、進んでいくから。だからその、見捨てないでくれるとありがたいなぁ、なんつって」
最後は自信無さげな口調になるが、それでも春翔は自身の思うところを少女に告げる。悲しそうな、寂しそうな表情を見せていたが、やがて小さく微笑み、春翔の目線を受け止めていた。
「これからとりあえず三年間、よろしくな」
すぐに弱気になってしまう自身にも喝を入れるように、春翔は精霊(パートナー)に力強く告げる。そうして少女は小さく頷き、瞳を閉じて、顕現したときと同じ光を散らしながら姿を消した。
それを見届けた春翔は立ち上がり、閉じられたカーテンと窓を開け放つ。春風が部屋に入り込み、春翔の身体を包む。天気は快晴。陽はすでに昇り、陽光が窓から部屋を照らす。窓から見える景色に目をやりながら、春翔は今一度決意する。
「絶対に乗り越えてみせる。そして、厄霊を倒して、一人でも多くの人を守れるように強くなる。だから優華。許してもらえるとは思わないけど、それでも優華の分まで頑張るから、見守っていてほしい」
空を見上げる。
眩いばかりの蒼穹は雲一つなくどこまでも広がっている。
そうして見上げていると、数枚の桜の花びらが春翔の前に現れる。思わず水を掬うように、春翔は手の平に収める。どこかから運ばれてきたであろうその花は、まるで何か伝えたいことがあるというように、春翔の手の平の上でフルフルとわずかに揺れる。学校の敷地内も桜の木が色づいており、おそらくそこから運ばれたと考えるのが妥当なのだろうけど。
春翔はなぜかそれを見て、自身の師が住まう屋敷の庭の、一本だけ存在する桜の木を思い出す。
『頑張れ、ハル』
師の声が聞こえてきたような気がして、春翔は思わず微笑む。
そして。
『頑張れ、ハルちゃん』
「え……?」
懐かしい声と、一瞬だけ柔らかな笑顔が見えた気がして、春翔は呆気にとられる。
突然駆け抜ける風が窓から入り、春翔の身体を打つ。
「うわっと」
花弁はその突風に乗り、またどこかへと運ばれていった。しばらく立ち尽くしていた春翔だったが、やがて窓を閉め、ハンガーに掛けてある制服へと手を伸ばした。時計の針は7:30を示す。入学式の集合時間である8:30にはまだ余裕があり、寮前の乗り場からコミューターを用いれば30分もあれば会場のホールに到着するが、春翔は早めに行くことに決めた。
制服に袖を通し、部屋の扉を開ける。その表情は、とても晴れやかで。
自身にとって都合のいい幻影だったのかもしれないけれど、それは春翔の背中を押す追風には違い無かった。
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