ソウビとイバラ

佳原雪

オサナメ姉妹

私の姉は目が見えない。


これは生まれつきだ。まあ、見えようと見えまいと関係ない。姉の体は頭部を含めほとんどが機械へと置換された。別に、普通の事だ。サイバネティクスの腕、足、体。何も変なことなどない。姉の機械の目に見えるものは、機械だけだ。それでいい。機械の目を持つ人間は多い。多いというか、全てだ。健康な人間もそうでない人間も生まれ持った体をどんどん更新していく。そういう時代だ。


この世界で健康な人間といえば先天性の欠損を埋めた人間のことだ。主にサイバネや医療なんかで。

その法則に照らし合わせるなら、私は不健康な人間だ。私も姉も生まれつき足が悪い。私の足は片方がきちんと機能しない。姉の足はほとんど歩行に用をなさないので車椅子に乗っている。というより、頭が重くてあの萎えた脚では支えきれないのだろう。車椅子。無限軌道付きの足。姉は健康なのだ。

私の目は可視光線しか見えない。私の足は姉ほど速く走れない。私の体は姉の目には映らない。


私は足を揺らしながらコーヒーを淹れていた。別に好きというほど好きでもない。だが嫌いでもない。


姉は探偵だ。電子的暴力と物理暴力を一手に担う、私刑の私立探偵。姉の目にはハッキングパスが仕込まれていて、近くにいる人間の発するすべての人間のサイバネティクス内部信号を読み取り・解析する。つまり考えていることがわかる。重い頭はそのためのものだ。R・O・M。読むだけ。読むだけだ。読むだけ、だが。

脳にインプラントしていない人間なんていない。サイバネを扱うにはそれらは必須で、今のご時世、サイバネを嫌がる人間はまれだ。存在しないと言ってもいい。いつからか人間は五体満足で生まれることが出来なくなった。


不完全な体。生まれ持った私の体。

「いばら? そこにいるの?」

私の生身の体は姉には見えない。さながら透明人間だ。姉がわたしを見つけたのはひとえにこのコーヒーの匂いのためだ。

「おねえちゃん。ここにいるよ」

姉は名前をそうびという。いつか呼んでみたいと思っている。そのいつかがくるのかどうかを私は知らない。

「今日ね、おねえちゃん仕事なの。お外に出てもいいけど、遊びに行くなら気を付けるのよ」

眉を下げ、にこにこと笑って見せる姉は美しい。私は少し、姉の事が嫌いだ。重い頭を埋めるぎょろりとした二列三対の目。花の色の髪が目を縁取り、長い睫毛のようだ。バラ模様の肩へコードを垂らしどこか困惑したように笑っている。

目の前の美しい人は、他者と脳を同調させて糧を得る。人同士のネットワーク上のどこかにある既成の答えを求め、接続された彼女に個はない。そこに自分というものは存在しない。私は、姉が嫌いだ。


口にしたコーヒーは熱く、苦い。


美しい人だ、と思う。物憂げに伏せられた目は開くことがない。光学式の目はその性能に対し酷く高価だ。あの瞼の下には曇空の夜が詰まっている。星もなく月も見えぬ永遠の夜が。

「……いばら?」

甘い声がわたしを呼ぶ。姉の声は芳しい。その名の通りに。

「ん。ええ、行ってらっしゃい。お仕事がんばってね、おねえちゃん」

私は姉の頬を指先で押し、そのまま横を通り過ぎて部屋を出た。

姉の仕事は単純明快な暴力だ。依頼を受け、目と足を使って捜査をし、時にはその無限駆動で全てをアスファルトと同化させ、報酬を勝ち取る。契約違反が発覚すれば床の染みが増える。姉の持つ暴力は単純明快だ。


見るものによって色を様々に変える姉の姿は酷く私を苛立たせる。その特性故、場を取り囲む空気へ同調する、彼女はいつだって当事者だ。目に見えるそれが、たとえ自分の体験でなくとも。

対する私はいつだって傍観者だ。それが当然だ。私は姉ではないし、私は姉でないその他の人間でもない。気に食わない。同じ腹から生まれたのに、姉はわたしの姿を知らない。私は姉の心がわからない。姉が私を見ることはない!


微睡むような微笑みに、開かれることのない永遠の夜! 姉が、目を開けば、と思う。目を開いたからと言って何が起こるのだ、とも思う。あの重く大きな三対の目を閉じれば、姉は今のように生きては行かれまい。私は何を望んでいるのか。


姉の持つ『目』は地上でも奇異に映るとみて、私たちは地下の家で穏やかに暮らしている。

そう、地下は穏やかだ。ここには誰もいない。ここにいれば、姉は他の誰でもない。そうび。血を分けた私の姉。



姉は誰とでも話す。相手が健康な人間ならばその目を持って同調できる。最適解がわかるというのはこういう仕事をするのに有利に働くのだろう、と思う。姉は社交的なお喋りが得意だ。私はそんな姉を眺めている。だれにも見咎められず、ふらふら道端に腰をかけたりしながら。



「あのね、いばら。今日ね、お仕事おやすみになっちゃってね、おねえちゃん良いことがあったの」

「そうなの? おねえちゃん」

膝の上に招かれて、わたしは姉の柔らかい腿に頭を預けている。私と違って、姉の体は何もかもが生来のものではない。無論この肉も模造品だ。私の姉は最初に『治療』を受けてこの方ずっとこうなので、この血の通わない構造物こそが本物だともいえる。

「いばらとこうしてお話する時間が取れたの。いつも、お仕事から帰ってくると、いばら、先に寝てることが多いでしょう? だからね、嬉しいなって思ったのよ」

手は頬をなぞり、髪を撫でた。閉じたままの目。物憂げに微笑む姉は、やはり美しかった。


腹に耳を当てた。何の音も立てず、また、何も宿しはしないだろう腹は、思っていたよりも温かい気がした。両親はもういないが、姉のストレージには母も父もいるのだろう。目と耳で聞いた、なぞられただけの外殻ではなく、トレースされて重ねあわされたそのものが。

姉は口元に手をやって、くすぐったそうに笑った。

「うふふ、いばらは甘えんぼさんねぇ」

そうみえるのだろうか。私は姉の中に父や母、その他の人間を見た。接続された姉は、全てだ。私以外の世界のすべて。

「……おねえちゃん」

「なあに?」

姉は私の全てを知らない。私は姉の全てを知らない。

「……おねえちゃんのこと、好きよ」

「おねえちゃんもいばらのことが好きよ。うふふ、よしよし」

甘やかな声が鼓膜を揺らし脳髄を満たす。姉は嬉しそうに微笑んでいる。まるでつぼみがほころぶようだ。姉はとても上品に笑う。やわらかな花弁がこぼれるように。大輪の花が重い頭をもたげるように。



誰にも見咎められることなく、一人、街を歩く。

日が暮れ、家へ帰る。廊下で立ち止まれば、私が帽子を抱えて立っている目の前を、姉は通り過ぎていく。

私は透明だ。ここにいるのに、どこにもいない。



その日も、私は街を歩いていた。誰もこちらに気付かない。群衆はわたしを見ることもなく過ぎ去ってゆく。

旧式の義足と自動小銃を携えて、私は姉のあとをつけている。足元には焦げ跡と轍。六門の銃座と無限駆動は今日も絶好調の様だった。

私はそちらへ向かって歩きだした。足元から伸びる轍の先、風に乗って僅かに油が臭う。嫌な予感がした。軽やかな足取りは段階を踏んで全速力へ。駆けつけた現場には倒れた車椅子。姉は囲まれ、肩に垂れるコードは切られようとしていた。優美に肩を流れる赤いコード。動脈血のように真っ赤なコード。ハサミはまさに今、姉の脈打たぬ血管へ刃を入れるところだった。

刹那、姉の一番近くにいた人間の頭から血が噴き出した。時間が鈍化する。周りを取り囲んでいた人間たちがゆっくりと倒れていく。私は茫然としていた。耳鳴りがして、視界ががくがくと揺れた。

煩かった耳鳴りが止み、鈍化していた私の時間は急激に色を取り戻す。

床を跳ねた薬莢が『killing?』と問い、私は誰が引き金を引いたのかを理解した。


私は残った敵に向かって引き金を引いた。弾切れだった。それでも敵はまだ残っている。私は自動小銃を逆さに持ち替えた。振りかぶって撲殺。姉に群がるクソ野郎共を一人残らずアスファルトの染みへと変えた。絶叫が途絶え、立っているものは誰もいない。私は血だまりの中へ銃と手袋を捨てた。間に合ってよかったと思った。姉が無事でよかったと思った。手は痛く、汗が止まらない。


顔を上げると、何も見えないはずの姉の目がこちらを向いていた。薄い唇は、確信をもって開いた。

「……いばら?」

ああ、ばれちゃったか。そう思った。目に映らずとも、何もないはずのところから攻撃されたのはわかる。そして、それが肉体による打撃だということも肉弾戦を戦ったことがある人間ならばわかるだろう。集団の中に経験者がいれば、当然姉には伝わってしまう。姉の力はそういうものだ。だから白兵戦なんて普段は絶対にしない。胸の中を諦念が満たす。今日は本当に運が悪い。

「……なあに、おねえちゃん」

私はなんとか笑おうとしたのだと思う。こんな状況で上手くいくわけもなく、血だまりに映った顔はとても人に見せられるようなものではなかったし、喉から出た声も笑みとは程遠かった。姉にこの姿が見えないことだけが救いと言えば救いだった。



「ずっと、こんなことをしていたの?」

「……そうよ。もうずっと」

私は車椅子を起こし、私は足元の死体を蹴りながら離れた。姉は、はっとしたように椅子へよじ登った。

「あ、ありがとう……いばらが何を考えているのか、おねえちゃんにはわからないの。ずっとわかっているつもりでいたけれど、ここにきてわからなくなっちゃった……ねえ、いばら」

姉は不安そうにしていた。当然の報いだ。それだけのことを私はした。

「怖い?」

「いばら……どうして、どうしてわかるの?」

「わかるわよ……今だって声が震えてる」

「それだけで?」

それだけで? たったそれだけのことで十分すぎるほど姉の困惑とショックが伝わってくるというのに?

「考えてる事なんてわからないほうが普通よ。だから、表面に現れることで判断するの。誰もかれも何を考えてるのかわからない。それを探りながら生きていくの。最初から答えがわかるおねえちゃんには馴染みのないことかもしれないけれど」

「……いばらはどうしてそんなに平然としていられるの」

手を伸ばしかけてひっこめた。揺れる睫毛は変わらぬ色香を纏っているが、今、その白い頬に触れるのは躊躇われた。姉は、美しいかんばせを伏せた愛しい人は、震えている。私の事が恐ろしいと言って。

「みえないのには慣れているの。それだけのことよ」

硝煙のにおいが立ち込める中、私は真っ赤になった両手を見て、それだけしか言うことが出来なかった。



「……ねえ、帰りましょ。こんなとこにずっといられないわ」

長い沈黙の後、絞り出した言葉は掠れていた。ひどく傷ついたような顔の姉が、今気が付いたとでも言うような動作で頷いた。

「ええ、ええ、そうね」


帰り道も、姉はずっと上の空だった。家についても、食事をしていても、湯あみの後も、ずっとぼんやりしていたので、今日はもう眠ってしまおうと私はミルクを温めていた。レンジから取り出して味を見る。そこへ姉がやってきた。昼間の、恐ろしがっていた姉はもうそこにはいなかった。閉じられた唇は、震えてはいなかった。

「いばらは、一体何を考えているの? おねえちゃんのこと、どう思っているの?」

「いばら、いばらが……どう、思っているのかって?」

美しい人はこちらをじっと見ていた。見ているのだろうか? ただ、じっと注意を向けている。私のいる場所なんてわからないはずの、麗しい人は。私はどきりとして、両手でコップを握りしめた。

「そう。聞かせて、いばら。知りたいの」

姉が見ているのがミルクの入ったコップだということに気がついて、私は慌ててコップをレンジの横へ置いた。その動作につられたように、甘い香りの花色の髪が、大きな目が、ぐっと近くに寄せられる。私は失敗に気が付いた。ぎょろりと見回す茶褐色の瞳と、視線が交差する。

「……あ」

身体がかっと熱を持つ。血が沸騰して、何も考えられなくなる。丸い大きな目は舐めるようにこちらを見つめている。甘い香りが鼻孔をくすぐる。姉を私がどう思っているか? 甘い匂い。どう、思っているかだって?

「やっ、し、知らない……いっ、言いたくない!」

私は逃げ出した。ぎょろりとこちらを睨む、三対の目が恐ろしかった。何もかもを見透かすあの目が、私の心までを読みとってしまうのではないかと、そう、錯覚した。

「いっ、いばら……待って……」

見えない、聞こえない。何も。走っていると、貧血で目の前がちかちかした。



何も考えない、何も考えない。甘い香りとあの目が焼き付いて離れない。私は息を殺し、震えている。何も、何も考えてはいけない。そう、なにも。

夜明けはすぐにやってきた。浅く浅ましい眠りは私自身の叫び声によって中断された。それは私の経験する限り、最悪の目覚めだった。枕を放り出して飛び起きた。飛び出すように部屋を出ると、部屋の前の廊下を車椅子の姉がうろうろしていた。

「い、いま、叫び声が聞こえたわ。ねえ、どこにいるの。いばら。ねえ、いばらったら」

叫び声を聞いたということは、寝ていないのだろうか。姉は私の目の前を通り過ぎ、行ったり来たりを繰り返していた。

「ごめんなさい、いばら。おねえちゃんを許してちょうだい」

「……おねえちゃん」

私は姉を呼び止めた。姉はぱっと振り向いた。私は思わず目を逸らした。ひどく浅ましい夢を見たことを、目を合わせれば、さとられてしまうような気がした。

「いばら! きっ、昨日はごめんなさい……おねえちゃんの事、軽蔑しても、嫌ったっていいわ。いなくならないで。い、いばらがどう思っていても、あなたは、私の大事な妹なの……傷つけてしまったみたいで、その、こんなこと言うのも、おかしいのかも、しれないけど……おねえちゃんを見放さないで」

姉はつっかえながら、そう言った。私は目を瞑って、なるだけ姉の姿を見ないようにしながら答えた。

「……昨日の事なら気にしないで。おねえちゃんの事、軽蔑したりなんてしないわ」

「ほ、ほんとう?」

「こんな時に嘘なんかつかない……」

知られて、軽蔑されるのはこちらだと、そう、思わないでもなかった。姉はどうしてこうも平然としていられるのだろう。昨日の今日のだというのに。

「お願い、いばら。手を握って、ここにいるって言ってちょうだい。不安なの」

……姉のこういうところが私は嫌いだ。しかし姉に悪気はない。心も読めない、姿も見えない。黙っていたら声も聞こえない。しかしそこに確かに存在している妹の、言葉が信じられなかったら手を握るほかに何があるだろう。少しくらいなら平気、そう言い聞かせて、私は姉の手を取った。

「……っ」

思いのほか強く掴まれて、思わず声が漏れた。手が意に反してぶるぶると震える、まるで恐れているとでもいうように。しまったと思ってももう遅い。

「……」

姉は絶望を絵にかいたような顔でこちらを見ている。当然だ。何も知らない状態で同じことをやられたら、私も同じ反応を返す。ああ、胸がどきどきしてきた。身体が熱っぽくて気持ちが悪い。臓腑が収まっていた腹から出ようとてんでばらばらに動いているみたいだ。

「ゆ、夢見が悪かったの。それで、なんだか、調子が悪くて。そんな顔しないで。おねえちゃんの事は、変わらず好きよ……」

今すぐにでも逃げ出したかった。それでも、姉を納得させなければ、姉は自分が嫌われていると思い込んだまま、私と出来るだけかかわらないようにするだろう。それは私の本意じゃない。ぎゅっと握られた手が引かれたので、私は顔を背けたままそろそろと姉に近づいた。

「あっ……」

それがいけなかった。私は車椅子の履帯に躓き、姉の体に飛び込んだ。あろうことか、姉は私を抱きとめた。やわらかな体が私の頭を受け止める。私は過呼吸を起こしかけて、口を手で押さえた。

「どうしたの、いばら。気分がすぐれないの?」

「そ、そうみたい。へ、部屋に戻って休むわ」

声は思いのほかスムーズに出た。起き上がろうとする私の肩に、姉は気遣わしげに白い手を回した。

「で、でも、怖い夢を見たんでしょう? 一緒に……」

私は首をぶんぶん振った。首を振っても姉には見えないことを思い出して、何とか口を開く。

「へ、部屋には入らないで。その……へ、部屋を見られるのは……は、恥ずかしいわ」

早く逃れたいばかりにわけのわからないことを口走ってしまった気がする。心臓も脳ももう限界だ。煮えたぎる血液は脳をとかし、思考能力を根こそぎ奪っていく。

「そ、そう? そういうものかしら……」



何を考えたのか、姉は自分の部屋の自分のベッドに私を寝かせた。薔薇の幾何学模様の入ったベッドは姉と同じ甘い匂いがして、もう訳が分からなかった。

「いばら、大丈夫?」

「へ、平気……」

何もかもが嘘だ。平気なわけなんてない。大丈夫なわけがない。私の姉は何を考えているんだ。

「熱はないけど、血圧が高いみたい。緊張してるのかしら。大丈夫よ、おねえちゃんがいますからね」

やわらかな微笑み。白いかんばせを縁取る花色の髪が揺れて、私の姉は美しい人だと思い知る。気が狂いそうだ。姉は自分が私の目にどんな風に映るのかも知らないでただそこに座っている。

「…………ねえ、いばら」

「……な、なに」

「…………」

姉は、じっと私の方を見て黙っている。私は不安になった。今、姉は本当に私を呼んだのか。それともなにかと聞き間違えた? そんなわけはない。ここには私と姉しかいない。

「……えっと、おねえちゃん?」

「あっ、あのね、昨日聞けなかったこと、今、聞いてもいいかしら」

姉は私の言葉にかぶせるようにして、そう言った。

「う、うん」

誰が拒否できよう。

「いばらがおねえちゃんの事をどう思ってるか知りたいの。なんでもいいわ。どんなことでも包み隠さず教えてほしい。何を言われても、受け入れる覚悟はできているから」



「……好きよ、おねえちゃん」

「本当? それだけ?」

それだけなものか。それですむならどんなに良かったことか。私はだんだん苛々してきた。

「私の言うことが信じられないの?」

「え……」

私は姉の細い肩を布団の上に押し付けた。

「私が、どうおもっているか? どう思っているかですって?」

私は前開きの服を、半ばむしりとるようにして脱がせた。苛々していたのだ。煩い心臓の音も、火照った体も、じれったい姉も、全てが鬱陶しかった。



布団の上に散った花色の髪に、はっとして手を止めた。突き立てようとした指は入る間もなく阻まれる。作り物の体は私の狼藉を許しはしなかった。爪ががちっと鳴って、私の脳は急激に元の落ち着きを取り戻した。

「あ……」

そしてその落着きは、私の胸に罪悪感と恐怖を呼んだ。

「……」

姉はくしゃくしゃの髪を直しながらゆっくりと身を起こした。

「ご、ごめんなさ……」

「それがいばらの答えなのね?」

姉が何を言ったのかわからず、言葉を切った。私は、私を押し倒した目の前の、白い肌や優美な曲線、美しい睫毛たちが、ひどく恐ろしかった。

「怖かったりいやだと思ったら言って。いつでも止められるようにするから」

怒りや苛立ちは萎えていた。私はここにきて、どうしていいかわからなくなってしまった。



自分が何をしているのか、何をされているのか、当の自分でもわからない。首元のボタンは外されているはずなのに、だんだんと胸が苦しくなる。天蓋を仰ぎ見ると部屋の照明と目が合った。それはどうすればいいかわからず迷子になってしまった私の姿を煌々と照らし私を責め苛む。

「あの、ま、眩しい」

「あっ、明かりは消したほうが良かったかしら」

姉は珍しく慌てたようで、少し早口になった。

「気が利かなくてごめんなさいね、なにぶん、勝手がよくわからなくって」

姉が空中で手を振ると、部屋の全照明が落ちた。塗りつぶしたような真っ暗闇の中、姉の息遣いが聞こえてくる。姉の手が私の服のボタンを外していく。光るものの何もない真なる暗闇の中でひとかけらの迷いもなく。

「見えてる、の?」

「光学感知式じゃないから、明るくても暗くても同じなの。びっくりしたかしら」

「う、うん」



ぷに、と体がふれる音がした。血が引き、全身が総毛立った。暗闇の中で服を脱がされ、このまま流れに任せてしまってもいいかと思い始めていた矢先のことだった。

「ま、待って!」

私は咄嗟に体を押して退けた。やわらかな体。薄い皮膚の下には骨がある。しなやかな肢体とその感触に私はぎくりとした。

「ええ、待つわ」

後ずさろうとして失敗した。腰はもうとっくの昔に抜けていた。

「わ、わたし、考えたの。こんな、こんなことして、私たち明日から、どんな顔をして暮らせばいいの?」

私は顔にかかる髪を払った。目の前の闇は甘い匂いがして、使い物にならなくなった下肢を痺れさせていく。

「好きなように生きれるわ。今までのようにだって、もっと違うみたいにだって。いばらがそうと望むなら、何もなかったような顔をしたっていいの」

『いばらがそう望むなら』私はぞっとした。姉は鏡のように私の望みをなぞる。私は恐ろしくなってしまっていた。姉のなぞる欲望の形が。何も考えていないんじゃないかと思わせる、空虚でつかみどころのない得体の知れぬ姉の心が。何もかもを見透かし、それに従って動く、姉の主体性の無さが。私は姉のそういうところが、ひどく嫌だったのだ。

冷えた手が私の足のあわいに触れて、体が跳ねた。

「やっ、やだ、触らないで、わたし、やっぱりやめる。放して」

「おねえちゃんは平気よ」

何も堪えないような声で姉は言う。違う。違う。そうじゃない。私は首を振った。

「おねえちゃんが大丈夫でも、私が駄目だわ。私が、私だけが戻れない」

私は手を払いのけた。どんな望みに合わせても、姉は姉のまま何一つ変わりはしないだろう。私が、私だけが、元のように戻れない。姉を、望みを叶える箱だと認識できない私だけが。誰よりも姉を特別視しているがため、姉がもたらすひと時の快楽を享受できない。

「いばら、泣いてるの……?」

「放っ、放っておいて」

「放っておけないわ。ほら、大丈夫よ。落ち着いて」

覆うもののなくなった首筋にやわらかな髪が触れて、抱きしめられたのだと理解した。やわらかな乳房が胸へと当たる。ふと、私は心のうちに、自分の望みを思い出す。

「名前……名前で呼んでみていい?」

止まらない涙が頬を伝って流れていく。目を閉じることが出来なかった。

「どうぞ」

姉は肯定した。やわらかな声が鼓膜を揺らす。私は茫然としたまま、それを口にした。

「そ、そうび……」

何かが決定的に壊れる瞬間を、私は体感した。いけない。この一線は、超えてはならない。目の前にいるのは誰だ。私を今抱いているこの美しい人は、一体誰だというのだ。名前で呼ぶような関係に、なれる人だと思ったのか。姉は私がどの名前で呼ぼうとも、それを許すだろう。他人行儀に名前を呼ぶことが、本当に救いそのものだったのか?

「やだ。おねえちゃん。わたしのおねえちゃん」

「いばら? どうしたの、どこか痛いの?」

震える腕を背中に回し、私は姉に抱きついた。

「……いやだ。おねえちゃん。わたしのおねえちゃん、それ以外のものにならないで」

姉は何も言わず、泣きじゃくる私を撫ぜた。



「おねえちゃん」

「なあに、いばら」

姉は相変わらず美しく、私はその芳しきに触れない距離を保って、今までと同じように生活している。姉は変わらず、私に話しかけてくる。違うのは一つだけ。私は姉が好きだということを、隠さなくなった。私は姉を褒めるようになった。姉の花色の髪を、長い睫毛を、やさしい声を。

「今日も綺麗ね。そうしてると髪の色と相まって大きな薔薇が咲いているみたい」

私がそう言うたび、姉は驚くのだ。まるで、初めて知った言葉を興味深く見つめるように。これは驚きだった。

「本当? ねえ、いばら。私の髪って何色なの? いばらの髪と同じじゃないの?」

「私の髪は薄荷色。おねえちゃんのは薔薇のピンク色。もしかして知らなかった?」

「知らなかったわ。おねえちゃん、知らないことばかりね」

しゅんとした姉は、可愛らしかった。私は、慰めようとして、でも何を言っていいかわからなくて、月並みな言葉をぼそぼそと呟いた。

「教えてあげる…… 私の事、もっと知ってほしいから」

「教えてちょうだい。知りたいわ。おねえちゃんね、ずっと同じものを見て、同じことを考えていると思っていたの。でも、そうじゃないって気が付いたから」

姉は花がほころぶように微笑んだ。

「私と話すの好き?」

「ええ。好きよ。……もしかしていばら、おねえちゃんが何を考えているのか、なんでもわかっちゃうのかしら。それって、なんていうのかしら、少し……」

「怖い?」

「ど、どうしてわかるの?」

姉は目に見えて戸惑っている様子だった。私は笑った。

「うふふ、私も同じだもの。心で思ってることを言い当てられたりして、何もかも見透かされたみたいな気持ちになるの」

「私、そんなことしたかしら……?」

「シンクロニシティってやつかしら? なんだかなにもかもばれちゃってるんじゃないかって、思っちゃったのよ。でも、そんなことはなかったみたいね。うふふ、好きよ、おねえちゃん」



「おねえちゃんね、ひとつわかったことがあるわ」

「どうしたの? なにがわかったの?」

「いばらがおやすみのキスをしたがっていることよ。そうね、その、おねえちゃんのほっぺに」

にこにこと笑う姉は自分の頬を指差し、ぷにぷにとつついた。これはおそらく作り話だ。私は姉の頬にキスがしたいと思ったことは一度もない。

「うふふ、なにそれ」

私は姉にキスをした。これは姉の我儘だ。誰の欲望を映したわけでもない、姉の感情そのものだ。私は嬉しくなって、左の頬と右の頬に二回ずつキスをした。

「ねえ、いばら、もうひとつわかったことがあるわ」

「ん、なあに、おねえちゃん」

「私もいばらにおやすみのキスをしたがっているってこと、かしら」

私は思わずふきだした。姉もつられて笑った。ぱっと部屋の中が明るくなるような、そんな笑顔だった。

「もう、おねえちゃんってば」

「うふふ」

私は頬を近づけて、姉のキスを受け取った。ちゅっと可愛らしい音がして、私たちはまた笑った。

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ソウビとイバラ 佳原雪 @setsu_yosihara

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