3−4
武道具屋さんからの帰り道、わたしはとても綺麗な人とすれ違った。
高そうな黒い毛皮のショートコート、大きなサングラス。長い髪を高そうなバレッタで緩くまとめている。
いつもの悪い癖で、すれ違いざまにわたしはその人をそっと『覗いて』みた。
(あれ?)
何もない。
その人の背後は無色透明だった。
(何にも考えてないのかな。でも、そんなことってあるのかしら?)
すれ違った時、その人からはとても素敵な匂いがした。きっと高級な香水だ。
(不思議な人……)
と、その時。
「ね、あなた」
と、背後から声がする。
声をかけてきたのはその綺麗な女性だった。
「あなた、『魔眼』持ちなの?」
「ま、魔眼?」
訳が判らず思わず聞き返す。
「だって今、私を『視た』でしょう? それにその瞳の色。てっきり魔眼持ちの子だと思ったのだけど」
「判らないです。でも、死んだ人とか、なんか背中にモヤッとした何かとかは確かに『視え』ます」
「あなた、面白いわ」
その人は、わたしのおとがいに長く白い指を添えると、じっとわたしの瞳を覗き込んだ。
「ねえあなた、今時間ある? 少し、お話を聞かせてくれないかしら」
「そ、それはいいですけど」
怪しいといえば怪しい人だ。オーラが見えないなんて人初めてだし。
でも多分危ないことにはならない、そんな気がした。それにこちらには貰ったばかりの木刀もある。
実は、わたしもこの人には興味があった。
魔眼やら何やら変なことを言っているけどわたしもこの人の話を聞いてみたい。
「じゃあ、私の事務所に行きましょ? 立ち話も何だし……タクシー」
美百合さん──それがこの人の名前だった──は運転手さんに指示すると、武道具屋さんのある水道橋から新宿にタクシーを向かわせた。
「私の事務所なら落ち着いてお話しができるわ。素敵なソファもあるからゆっくりして行ってね」
美百合さんは簡単に自分は医者だと自己紹介した。
「ちょっと、特別なんだけどね」
いたずらっぽく笑う。
でも美百合さんは決して苗字を名乗らなかった。
わたしが黒川アリスだと自己紹介しようとした時も、
「アリスちゃんね。苗字はいいわ。お互い、苗字は知らない方がいいと思うの」
ますます変なことを言う。
タクシーは靖国通りを抜けると、新宿三丁目の角を右に曲がった。
そのままくねくねとした道を辿り、歌舞伎町の裏手の方へ向かう。
やだ。変なところに来ちゃった。
やがてタクシーは瀟洒な作りのマンションの前に停まった。
「ここでいいわ。ありがとう」
運転手さんにそう告げる。
とっても高そう。入り口にはなんかギリシャ風の柱が立ってるし、ドアには警備員の人もいる。
「この辺はね、物騒だから。でも、お仕事の関係でここじゃないとダメなのよ」
美百合さんは運転手さんに黒いカードを差し出した。
さすがにこれはわたしも知っている。ブラックカード。お金持ちじゃないと持てないカードだ。
暗証パッドを叩いて入った美百合さんの事務所はこじんまりとはしていたが、居心地の良さそうなお部屋だった。
部屋の隅には観葉植物が置かれ、部屋の真ん中には白い革の大きなソファセットが設えられている。
どうやら美百合さんはいつもここでお仕事をしているみたいで、書類が綺麗に揃えて重ねられていた。
「タバコ、いいかしら?」
コートを脱いでソファにくつろいだ美百合さんは水色の箱から長細いタバコを一本取り出した。
「どうぞ」
どうやら強力な空気清浄機が動いているようだ。タバコの臭いはほとんどしなかった。
サングラスをとった美百合さんは細面で、とっても美人さんだった。尖った顎、細い鼻筋に綺麗な眉。まるで女優さんみたい。
わたしは美百合さんの向かいにかしこまるとなんとなく小さくなった。
胸を張って目を合わせられない。
優しい顔立ちなのにすごいプレッシャー。
美百合さんは横に細くタバコの煙を吹き出すとわたしに言った。
「じゃあ、教えて? あなた、どうして魔眼を手に入れたの?」
「わたし、十歳の時に交通事故に遭って、瀕死の重傷を負ったんです……」
問われるがままに、わたしは今まであったことを美百合さんに話し始めた。
¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨
こんなことは初めてだった。
冥界でのことはパパにも詳しくは話していない。どうせ信じてもらえないだろうし、なんとなく言うのがはばかられたのだ。
でも、美百合さんは違った。
冥界のことも知っていそうだし、とっても話しやすい。
気がつくと、わたしは洗いざらい冥界であったことを美百合さんに話していた。
ひょっとしてこの人、尋問の才能があるんじゃないかしら。
「じゃ、あなた、百四十年もあそこで剣術の修行をしていたの⁇」
びっくりした表情をして美百合さんが仰け反った。
「百四十年って……二週間ほど意識がなかっただけです。確かにとっても長いこといた気はするけど」
わたしは美百合さんに答えて言った。
「いいことアリスちゃん、あそこではね、時間の流れる速度が違うの」
美百合さんは説明した。
「人によっても多少の違いはあるみたいなんだけど、こちらに比べて向こうではだいたい三千六百倍の速度で時間が流れているの。簡単に言えばこちらの一秒が向こうでは一時間、一日だったら十年だわ。だからね、二週間も行ってたら向こうでは百四十年の月日が流れるのよ。もちろん、精神体だから時間の感覚も曖昧になっちゃうんだけどね」
「そうなんですか。百四十年……」
確かにお師様とはずっと一緒にいた気がする。
それこそ、一生かそれ以上。
「で、何? そこで佐々木小次郎に会って直伝で剣術を教わったの?」
「お師様は自分がそうだとは名乗りませんでしたが、たぶんそうです。どっかの島で木刀で額を割られて自分は死んだって仰っていましたから」
「巌流島の決闘ね。あれが史実だってことは知っていたけど、佐々木小次郎が実は小さなおじいさんってのはびっくりね。しかも、あなたはそれを全部覚えているの?」
「はい。覚えています。現に……」──とわたしは竹刀入れから木刀を少しだけ覗かせて見せた──「今も修練を続けています」
「はー、そりゃ強い訳だわ。じゃあ、大人でもあなたには敵わない?」
「いえ、わたしはまだまだです。でもちゃんと戦える練習相手がいなくなってきているのは確かかなあ。今日はお稽古をつけてもらおうと思って警察に行ったんですけど、相手をしてくれた人が失神しちゃってもう来るなって言われちゃいました」
「そりゃ巌流直伝の剣術を相手にしたらそうなっちゃうかもねえ。今の剣道はお座敷剣道だから……昔の剣術みたいな殺し合いじゃないもの」
美百合さんは妙にこちら方面の話も詳しかった。本当に博学。
驚いた様子のわたしを見て、美百合さんはにっこりと笑った。
「わたしのね、患者さんには警察の人もたくさんいるのよ。だからそういう雑談とかも多くって耳年増になっちゃった」
「あ、そうだ」
不意に思い出してわたしはいつも大切にお財布につけている根付を美百合さんに見せた。
「これはお師様に頂いたんです。持ってきちゃった」
何気ない言葉だったのだが、急に美百合さんの表情が険しくなった。
「それを向こうから、こちらへ?」
「はい。気が付いた時には枕元にありました」
「ふーん」
瞑目し、頬杖をついて考え込む。
「普通はね、向こうからは何も持ってこれないの。行くときは身につけているものを概ね持っていけるんだけど、戻ってくるときは精神だけが帰ってくるから普通なら何も持ってこれないのよ。アリスちゃん、あなたは本当にお師匠様と深い絆を築いたのねえ」
「そうなの、かな」
「魔眼の原因もたぶん、それだわ。そのネズミを媒介にしてあなたの眼は向こうと繋がっているんだと思う。だから『視え』ちゃうのよ」
「魔眼って、何なんですか? 何かいけないもの?」
「とんでもない。とっても素敵な、これはギフトよ」
美百合さんはブンブンと手を振った。
「魔眼を持っている人はそうは多くないわ。それに、きっとそれはあなたとお師匠様との絆の証でもあると思うの。素敵なことよ」
「そうなんですか」
「それにしても、魔眼持ちでしかも向こうからものまで持ってきちゃうなんて……」
再び深く考え込む。
「魔眼を持っているってことは、恐らくあなたはあっちとこっちを行ったり来たりできるようになっていると思うわ。論より証拠、ちょっと試してみましょう」
不意に美百合さんはそう言うとバッグの中をゴソゴソし始めた。
「確か、ここに……ああ、あった」
美百合さんがバッグから取り出したのは小さな銀色のピストルだった。
「ええッ」
「逝ってらっしゃい」
パンッ
小さな音を立ててピストルの銃口からオレンジ色の火花が噴き出す。
胸元から血を吹き出しながら、驚く間もなくわたしは絶命した。
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