3-5 義の太陽(1)
怖がってちゃだめだ。彼女は勇気をふりしぼり、天使と正面から向き合った。右手の指先に意識を集中し、何もない空間にヘブライ語で聖書の言葉を記してゆく。
「もうじゅうぶんだ。今あなたの手をとどめよ」
ダビデの人口調査の罪で、御使いがエルサレムを滅ぼそうとしたとき、主が諫めた言葉だ。それを三千年ぶりに相手に味会わせるのだ。これが、彼女にできる精一杯の抗議だ。
彼女は御使いの顔を見たが、まぶしくて表情がわかりにくい。
数秒もしないうちに御使いは答えた。頭の上に英文が映画字幕のように宙に浮かぶ。
「私の名を騙るだけでは満足できずに、今度は主にでもなったつもりか」
――その言葉に弱いって伯爵も太鼓判押してくれたのに、却って機嫌損ねちゃったみたい。でも、どうして私のしたこと知ってるの? まさか伯爵が?
「サン・ジェルマン伯爵、ラファエルさんはどこにいるんですか?」
ハルミも指で英文を書いた。
「彼は地上に送り返した。ここは無神論者の来るべきところではない。そして、あなたは多くを知りすぎていると彼が教えてくれた。あなたは偽イエス騒動の黒幕で、自分はあなたに脅されて仕方なく参加したともいっていた」
伯爵は、ハルミを悪役にしたてて、かつての上司に弁解したようだ。
「何故、こんなことをするの? 地球に生き物が住めなくする必要がどこにあるの?」
「その質問に対する答えは、話せば長くなる。
私は以前から天使長が実はエノクではなく、アブラハムの父アーザルではないかと疑っていた。そのきっかけはこうだ。私は天使長に、アーザル親子は商売のためカナンに向かったのでは、と尋ねたことがあった。そのとき、天使長は、アーザルはアブラハムをウルから追い出したと言った。それは天使長が以前ヨシュアに語ったことと違っていたので、私はおかしいと思った」
御使いの長い言葉は、写真に印刷した文章のように見える。
「他にもおかしいことはあった。天使長は、アーザル当人しか知り得ないようなことをいくつか話していた。アブラハムのことを改名前のアブラムとよく呼び、最初からアブラハムにしておけばよかったと言ったこともある。これらのことから、私は天使長がアーザル本人だと推測した。だが、その疑問は私の胸のうちにおさめていた。彼がエノクであろうとアーザルであろうと、たいした問題ではないと考えたからだ。
天使長は神の声を聞くことができる唯一の方だった。彼が去った後、天使長となったミカエルには、神は語りかけてはくださらなかった。我々は、天使長と別れたことを後悔するようになった。だが、そのような気遣いは不要だった。なぜなら、天使長エノク、つまりアーザルこそが神だったからだ。私は、何千年間も神を創造主と思っていたが、あるとき、神がアーザル、つまり天使長自身のことだと気づいたのだ」
「それはいつ?」
「私が空を越えた時のことだ」
「どういう意味です?」
「今から五十年ほど前。人間たちの偉業に刺激され、私も宇宙に出ようと思った。青い空を過ぎ、暗い空に出たとき、私は神を感じた。それは私がかつて想像していた神とは、まるで違うものだった。
神は果てしなく広大で、無のようであり、全てのようでもあり、表現することのできない、言葉を越えた存在だった。神に思考や感情があるのかさえわからなかった。それに対し、天使長に啓示を下していた神は、あまりにも人間くさく感情的だった。私は天使長が神の言葉として話していたことが、天使長の作った嘘だと気づいた。天使長は神の言葉を偽り、我々を騙していたのだ」
大天使は、宇宙空間に飛び出し、宇宙飛行士とおなじように神を感じた。それは聖絶を命じた聖書の神とは、あまりにもかけ離れていた。
「それが、太陽を隠すことにどうつながるんですか?」
「人類に真の神を教える必要からだ。人類がこれまで信じていた神は真の神でないことを気づかせるため、ヤハウェの名を持って災いを下した」
「それではヤハウェが神でないとわかっても、人類自体が滅びてしまいます」
「滅ぼしはしない。人類がヤハウェを信用しなくなった時点で、この円盤を消す。それは間もなくのことだ。その直前に、『偽の神ヤハウェは真の創造主によって滅びた』と円盤に文字を浮かべる予定だ」
ガブリエルが全生物を滅ぼすと思ったのは、取り越し苦労だったようだ。しかし、わざわざそこまで徹底しなくても、再臨したイエスに天の父は真の神ではないと語らせるだけでよかったように思える。それに、四千年かけた成果をいきなりゼロにするのも、もったいない。そこでハルミは聞いた。
「ヤハウェを偽物とすることは、あなたたちのこれまでの努力を全て無駄にすることです。本当にそれでいいんですか?」
「私は、いつもその時点で最善だと思ってきたことを行ってきた。今、すべきことは、ヤハウェと真の神の区別をはっきりと人類にわからせることだ。その最善の手段は、真の神がヤハウェによる災いから人類を救うことだ」
彼女は思った。この天使の思考パターンはいつもそうだ。改善するよりも全部壊してやり直す。リストラクチャリングではなく、リエンジニアリングを選択するのだ。次々と新しい国々を作っては壊し、自らの宗教のために世界を最適化していったのもそうだ。ある計画がだめになると、それを軌道修正させるのではなく、全く新しい別の計画を用意して、それ以前の計画をつぶそうとする。
ユダヤ教の選民思想と律法主義が問題だと判断すると、キリスト教を興し、キリスト教が堕落すると、イスラム教を興し、イスラム教がキブラを変えると、全てを放棄した。神そのものに問題が見つかった今、聖書の神ヤハウェを捨て、近代の科学者や哲学者がその存在に気づいた宇宙の設計者を新たな唯一神に据えようとしている。
「古い建物は修繕するより、一から立て直したほうがいい。中途半端に手直ししても、またすぐに他のところが痛んでゆく。人は自ら蒔いた種の実を、自ら刈りとらなければいけない。天使である私たちも同じだ。私自らが作り出したものを自ら終わらせる。それが私の使命だ」
「あなたが思っているよりも、人間たちはヤハウェについて具体的なイメージを持っていません。神についてイメージできないのです。ですから、今のヤハウェ信仰を残しながら、そのまま真の神につなげてはどうでしょうか」
「人類が昔のままでいてくれたらそれでいいだろう。しかし、科学の発達した時代に、アダムのあばら骨からイブを創ったり、広大な全宇宙を創造したはずの創造主が四十年間もエクソダスに付き添い、幕屋の中にいたのでは、作り話にしか聞こえない。頭のよい人間はそれだけで神を信じなくなる」
「それなら、おとぎ話でいいではないですか。聖書には、おとぎ話としての創作の部分と、真実の部分の双方が混ざっているとするんです。『聖書は神の言葉そのものではない。バビロンの律法学者たちがまとめあげたとき、事実でない物語が混ざってしまった』と円盤に表示するんです」
天使はしばらく彼女の意見を吟味し、こう答えた。
「本来は科学と矛盾しない正しい教えを説くべきだが、今の状況を考えるとあなたの考えのほうがいいかもしれない。だが、残念なことに、すでにヤハウェの名のもとに人類に災いを下してしまった。もう災いは起きてしまったので、いまさらヤハウェの名誉を回復することはできない」
彼女の考え自体は、悪いと思っていないようだ。今回のことは、きっかけを作った彼女にも大きな責任がある。そこで彼女は天使に、もうひとつアイデアを提案した。
「まだ間に合います。『ヤハウェは汝らの信仰心を試した。全ての裁きは終わった』と表示し、円盤を消すのです。そうすることで、あなたの作ったユダヤ、キリスト、イスラムの三つの教えを残せます」
再び、天使は彼女の意見を検討した。そして、こう伝えた。
「ミカエルがいなくなってから、私が他の二人を率いることになったが、ミカエルと同じように、私にも神の啓示は降りなかった。だからこそ、私は神の考えに近づこうと努力してきた。その過程で、以前は正しいと思ってきたことが、間違っていたと気づくことが何度もあった。殊に宇宙空間に出たときに生じた気づきは最大のものだった。その考えを人間に伝えようとして、太陽を閉ざしたが、もはやそのようなことをせずとも、あなたのような知者が、真の神の原理を解明してくれるだろう。
アーザルの嘘を引き継いだ私たち天使の時代は終わった。私たちは落日のように消えてゆくのだ。だが、私たち天使の残したものは、果てることなく全ての人間を励まし支えていくことだろう」
ハルミの提案を受け、天使は、ヤハウェを神の座にとどめることを決めた。
「あなたの考えた言葉を示し、円盤を消すことにする」
他にも質問したいことはたくさんあったが、今や一刻を争う非常時だ。早く荒布を消さなくてはならない。
「今、人類だけでなく、全ての生き物は凍えています。慈悲深いあなたは、早く行動を起こすべきです」
「今これから人類に言葉を示し、円盤を消す。貴重な示唆を与えていただき、大変感謝している」
天使はそう自分の意思を彼女に伝えると、荒布のほうに向き直り、何かを口で唱えた。すると、荒布にメッセージの言葉が現れ、太陽の光がそこをすりぬけた。
人類が主の御言葉を受け取ると、荒布は消え、人類は恒久的に光を取り戻した。しかし、今頭上で輝く太陽は以前の太陽ではない。大天使は、荒布の数倍の面積を持つ超巨大な凸レンズを遠方に描き出していた。広大なレンズは太陽光を集め、地球に照りつけた。かつてない輝きを放つ熱い太陽の光により、地表を覆った氷は急速に溶けていった。
「さらに主がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる日には、月の光は日の光のようになり、日の光は七倍となり、七つの日の光のようにになる(イザヤ30:26)」
「しかしわが名を恐れるあなたがたには、義の太陽がのぼり、その翼には、いやす力を備えている。あなたがたは牛舎から出る子牛のように外に出て、とびはねる(マラ4:2)」
氷に閉ざされた地上に、義の太陽が登った。ゾロアスター教やミトラ教では、翼を持つ太陽が崇拝されていた。太陽の翼とは、そこから放たれる光のことだろう。熱い太陽の光は地上に降り注ぎ、世界を癒していった。氷はすぐに溶けだし、人々は、牛舎の子牛のように、表に躍り出て跳び回った。
人類は、バビロン捕囚から解放されたユダヤ人のように、裁きの氷から解放された。
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