3-4 滅びの氷(1)

 彼女が体育館の外に出ると、雪はやんでいて風も弱かった。使い捨てカイロもある。これならなんとかなりそうだ。彼女は江戸川区の避難所を抜けて、伯爵のいる江東区の亀戸公園に向かった。まず柴又通りに出て北に進む。蔵前橋通りに出ると、そこを西に進む。


 商店はどこも閉まっている。街灯の明かりが頼りだ。少しばかり長く生き延びるより、最後の時を快適に過ごしたほうがいいという意見に押され、災いが始まった頃と較べ、節電はあまり呼びかけられなくなっていた。

 気温は、氷点下三十度を下回っている。吐く息は凍り付き、露出した顔は寒さで痛い。道行く人はほとんどおらず、道路にはところどころ車が乗り捨てられている。雪と氷に覆われた四キロの道のりは、体力の弱った今の彼女にはきついはずだ。それでも、人類のため伯爵に会わねばいけない。彼女は、強い意志で足を進める。


 蔵前橋通りにでると、立ち往生した車が延々と道路を塞いでいた。片側二車線でも雪がひどければ、先に進めない。凍結、エンスト、積雪、接触事故などで、車の進行が止まり、ドライバーは命を優先し、やむをえず乗り捨てたのだ。

 どの車も何日も放置されているようで、雪が積もっているだけでなく、ボディや窓が氷漬けの状態だった。車上荒らしにあい、窓が割られている車も何台かあった。人類が滅亡しようというこの時期に何を盗むのかといえば、車を乗り捨てるとき置いていった灯油やストーブ、毛布などだ。それを盗んで何になるのかというと、数日間、余計に生きられる。


 避難所を出て最初の頃は寒さと雪で足取りは重かったが、しばらくすると体が少し慣れてきた。道路中にゴミみたいに捨てられていた車を見ていたせいで、カーディーラーの前に来たとき、もう車の価値は鉄くずと同じだと彼女は思った。


 道路の左右にはマンションが立ち並ぶが、明かりのついている部屋はほとんどない。集合住宅の住人は皆、強制的に避難させられるのだ。しばらく行くと新小岩陸橋がある。たつみ橋交差点の混雑を緩和するために作られた車道だ。その交差点は事故があったようで、車が無造作かつぎっしりと詰まっている。それなのに人気がないのは寂しい。深い雪から足を抜きながら歩くので、一歩一歩が重い。新小岩公園の辺りまで来た頃には、疲労で歩くペースが遅くなっていた。街路樹も雪で重そうだ。


 もうすぐ平井大橋だ。橋の歩道につながる歩道橋を進む。雪が積もった歩道橋の階段を上るとき、転ばないように神経を使った。ここで倒れたらしゃれにならない。

 中川と荒川にかかる平井大橋は、およそ五百メートルと長い。街灯の明かりが煌々と橋の上を照らす。車道にはやはり放置された車がつらなっている。歩道は広いが、人影も自転車もない。凍り付いた川を目にすると、今がどれほど異常な状態なのか痛切に感じた。

 普段なら右手前方にスカイツリーが見えるはずだが、ライトアップがないので、今は見えない。そこにアマテラスがいるはずだ。ガブリエルはツリーをバベルの塔に変えてしまったが、アマテラスの能力では豆電球ほどの明るさしか輝かせることはできないだろう。


 橋に入ると、左右に建物がないので風が強くなる。極寒の風は激しく体温を奪う。車が通れない状況では車道も歩道もない。歩道のすぐ外側、車道の端の辺りも大勢の歩行者が通った跡が続いている。彼女はガードレールを乗り越えずに、そのまま歩道を歩いた。


 橋の途中で首都高速と交差するジャンクションがあるが、車の行き来はない。ジャンクションを越え、橋の半ばまで来た。橋の上は遮るものがなく風がきついせいか、一層寒さがひどいようだ。

 今彼女のすぐ横にあるクーペなどは、一見白いボディと思ったら、よくみるとシルバーだった。そのひとつ前の軽自動車は、荷台に石油ストーブと毛布が積んであるのに、横を通るとき助手席の窓が割られているのがわかった。車上荒らしはストーブや毛布を盗まなかったことになる。ストーブは重く、毛布はかさばるので、ストーブの燃料だけを抜き取ったのだろう。本当に価値のあるものは燃料ということだ。


 凍った川を目にしたくなく、車道に目がいきがちだが、歩道にも珍しいものがあった。

 人だ。

 十メートル先に黄色いセーターを着た女性が背中をガードレールにもたせかけ、足を前に投げ出している。遭難者のようだ。

 近づいていくと、大柄で肥満気味の四十歳前後の女性とわかった。この寒さの中でセーターなのは上着を盗まれでもしたのだろうか。髪に雪が乗ってないことから、雪が止んだ後で倒れたはずだ。まだ息があるかもしれない。


 ハルミは、ルカ福音書の一節を思い出した。

「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った(ルカ10:30)」


 地位の高い祭司やレビ人は何もせず通り過ぎた。嫌われ者のサマリア人はその人を宿屋まで連れていった。善きサマリア人の譬えとしてしられるイエスが語った有名なエピソードだ。

 ついさきほど牧師の説教にもでてきた。ハルミの考えでは、ルカ福音書にしか書かれていないので、イエス本人の言葉ではなくガブリエルの創作なのだが、教訓としての価値は否定できない。

 今、ハルミは祭司やレビ人のとった行動をとるか、サマリア人のそれを選ぶか、選択を迫られている。


 今は一分、一秒を急いでいる。人類の一大事に一人の命のことにかまっていられない。下手にここで助けようとしたら、助けに入った自分まで死んでしまうかもしれない。それに、彼女ひとりを助けるために、伯爵に会うのが遅れて、何百万人、いや何千万人も犠牲者が増えるかもしれない……。

 そう思うと、知らぬ振りをして通り過ぎるほうが正しいような気がした。


 だが、避難所で聞いた牧師の言葉が浮かんでくる。

「どんなにお金持ちでも、どんなに偉い政治家でも、どんなに頭のいい学者でも、今人々を助けようと奮闘しなければ、倒れている人を見捨てた祭司やレビ人と一緒なのです」

 ――人々を助けようとしてるから急いでるのに。だけど、レビ人や祭司のようにはなりたくないし――


 迷った挙げ句、ハルミは人類全体の危機を優先することにした。


 幸い、女性は目を閉じている。ハルミは首を右に曲げ、女性の様子を見ながら、足音を立てないように忍び足で歩く。女性はかろうじて生きているようで、呼吸をしている。ハルミに忍者の才能があるのか、女性に意識がないのか、気づいてはいないようだ。


 無事、女性の前を通り過ぎた。

 罪悪感と安心感の入り混じる中、ハルミは前を向き、過ぎたこととして忘れようと決意した矢先、後ろから「待って」という女性の声が聞こえ、足を止めた。 

 気づかれた……ハルミはそう思ったが、すぐにそうでないことがわかった。

「待ってて、お母さん……」

 女性は独り言をいったのだ。

「お母さんか……もう~仕方ない」

 とハルミは小声でつぶやき、向きを変え、反対側から来たかのように、足音を立てて女性に近づいた。

「どうしたの、大丈夫?」

 そう声をかけると、女性は目を開き、ハルミの顔を見つめた。

「ジャンパーを盗まれたの。それとマフラーと帽子も」と、弱々しい声で女性は言った。


 平常時なら、今の日本でひとの上着をはぎとって盗むような強盗はいない。このような状況だから起きたのだろう。今や食糧と防寒着こそが宝なのだ。亀戸公園までは残り一キロ強。そのくらいなら、コートなしでも自分はなんとかなると考え、ハルミは自分の上着を女性に与えることにした。

「私のコート着て」

「それじゃ、あなたに悪いわ」

「私は大丈夫」

 大丈夫ではない。遭難者よりましというレベルだ。

「さあ、早く。早くしないと危ないから」

 ハルミはコートを脱ぎ、女性に着させ、自分が着けていたカイロまで渡し、彼女の体をささえて、なんとか立たせることに成功した。


「ごめんなさい」と女性は言った。体力が回復していないせいか、右手でガードレールを押さえ、左手はハルミの肩に回し、顔は苦しそうだ。

「わたし、亀戸公園に行くんだけど、一緒に行こう」

 ハルミが肩を貸す形で、女性も歩く。歩道には二人の他に人の姿はなかった。


 女性には一人暮らしの母がいて、今は墨田区のほうの避難所にいるという。一緒に避難するように誘っても母は遠慮して、近所の避難所を選んだ。今の状況では、高齢者を別の避難所に移すのは大変だ。女性は雪がやんだので、今のうちに一目会っておこうと、自分のいる避難所を出た。新小岩公園の前で車上荒らしを目撃し、知らぬふりをして通り過ぎようとしたところ、相手に気づかれ、上着や鞄を盗まれた。それでも橋の途中まで歩いてきたが、寒さで動けなくなり、そこにハルミがやってきたという。ハルミは女性の事情が人ごとには思えなかった。

「もう少し早く出ていれれば、私も同じ目にあったかもしれない」とハルミは言った。


 女性は、何度も休憩を入れなければいけなかった。置いていくわけにもいかず、ハルミはその場で待つしかなかった。じっとしていると寒くて仕方ないので、体を動かす。動くのにもエネルギーがいる。空腹のハルミは体力を奪われ、カップ麺を食べなかったことを後悔した。


 平井大橋を渡り切ると、歩行者は五十段ほどの階段をおりなければいけない。女性を支えながら、滑り落ちないように一段一段ゆっくりと降りる。これでさらに体力を消耗した。下に着くと休憩を入れた。もう動くのは辛い。体を動かす代わりに諤々震えていた。

 再び歩き出したときには、女性よりハルミのほうが弱っているようだった。それでもハルミは「もう少しだから」と気丈に声をかけた。


 商店はどこも閉まり、街は暗い。

 平井駅の近くまで来ると、後ろから突風が吹いた。二人とも倒れそうだ。

「後、五百メートル。さあ、がんばって」

 とハルミは女性を励ましたが、とうとう自分が前に倒れた。横向きに倒れたまま、目を閉じ、動かない。空腹と睡眠不足、なれない避難で体力と精神力を使い果たしたところに、極寒の中薄着で歩くのは無理があった。


 今度は女性が心配する側だ。

「大丈夫? 起きて、起きてください」

 女性は、うつぶせになったハルミをゆさぶったが、反応はない。

「どうしよう……」と女性はうろたえるばかりだ。「ごめんなさい。私のせいで」

 女性は周囲を見回した。誰もいない。それでも、

「誰か助けて」と力のない声で叫んだ。


 風はいよいよ強く、寒さは尋常ではない。女性は両手で頭を抱えながら、震えている。

数分後、女性は結論を出した。

「ごめんなさい。このままだと私まで死んでしまいます。それではあなたの好意を無駄にすることになります。私ひとりでも生き延びます」

 と、女性はハルミに声をかけたが、ハルミの反応はなかった。

 女性は、自分を救ったハルミを置いて、そのまま前に歩きだした。涙が止まらないが、すぐに凍る。


 その様子をハルミは上のほうから見ていた。体から抜け出ていたのだ。女性のとった行動を身勝手だとか恩知らずだとは思わない。二人死ぬより、一人ですむ。犠牲者を少しでも少なくする理にかなったやり方だと納得した。


 間違いなく自分は死ぬだろう。いや、たぶんもう死んでいる。それは悲しいことではなかった。死ぬことにより、行動力が高まるのだ。特訓をすれば宇宙空間に出られるかもしれない。早く伯爵のところに向かわなければ。それでも、せっかく助けたんだから、女性が避難所に入るまでついていく。怖がらせるといけないので、声はかけない。


 公園の入り口まで残り百メートルというところで、とんでもないものに出くわした。

 車上荒らしだ。目抜き帽にサングラスの男が、右手に工具のようなものを持ち、めぼしいものはないかと、周りの車を物色している。女性の上着を盗んだ男かもしれない。女性はまだ男に気づいていない。また見つかって、今度は殺されるかもしれない。女性が無事通れるようにしたいけど……。


 ハルミは声を出せる。男に近づいて、耳のそばで、

「あっちへ行け。死にたくないならあっちへ行け」

 とどすの聞いた声で脅した。男は声のしたほうに首をひねったが、声の主の姿がない。男は驚きのあまり声も出ないようで、その場で固まっていた。

「早く向こうへ行け」と怒鳴ると、男は雪に足をとられながら西のほうへ逃げていった。


 それでなんとか、女性は旧中川にかかる江東新橋を渡りきり、左手にある亀戸中央公園に続く階段まで来ることができた。目的地のスポーツセンターまで後二百メートル。女性は苦しそうに階段を下りる。そのとき、ハルミは時計塔のある辺りから、銀色に輝く四角錐が空中に打ち上がるのを目撃した。数十メートルほど上がったところで暗闇に消えた。伯爵が練習をしているのだろう。


 ゴールが近づくと女性の歩みも力強くなった。最後の気力を振り絞っているに違いない。そして、ついに女性が施設の中に入るのを見届けた。凍傷がおきているかもしれないけど、後は中の人でなんとかしてくれるはず。


 ひとりの命を救ったことで、ハルミの気分は明るくなった。だが、人をひとり助けたところで、太陽が出ない限り、まもなく全生物が生きていられなくなる。女性を助けたことも無意味になる。

 だから、なんとしても宇宙空間に出て、荒布を破壊しなければいけない。新米幽霊の非力な自分でも、少しでも伯爵やアマテラスの力になりたいと、彼女は強く思った。


 B地区を抜けて、時計塔のあるA地区に入る。伯爵は時計塔のすぐ脇にいた。ハルミは音もたてずに伯爵に近づく。


「わっ!」と声を出して脅かした。お茶目な行動をとることで、自分が亡くなったことによる悲壮感をうち消そうとしたのだ。

 伯爵は彼女のほうをみて、怪訝な表情を浮かべた。

「どうなさったんですか?」

「これみてわからない?」と言って、両手を上げて、わざと明るく振る舞った。

「まさか……」

 伯爵は言葉が続かない。


 ハルミは事情を説明した。伯爵は冷静に、

「体を温めれば、まだ間に合うかもしれません。私が、そこの避難している人たちに事情を話しますから」と言ったが、ハルミは伯爵の言葉を遮った。

「もうたぶん、だめ。それにこっちのほうがいい。私のせいで世界中で何万人も凍死してるだろうし、自分だけ助かるのは心苦しい」

「そうですか……まだお若いのに」


 それからハルミは、宇宙人招来説を伯爵に説明した。話を聞いている間、伯爵は特に驚くこともなく、無言だったが、

「一見馬鹿げた考えに聞こえますが、たしかにそうかもしれません。ガブリエルならありえます。さすが、私の見込んだ方です」と言って、ハルミの労をねぎらった。


 反応が鈍いのは、自分の言ったことが間違っていると思っているのではなく、問題解決につながる答えではなかったことへの失望なのだろうと、ハルミは思った。それでも、ガブリエルとの交渉の際に少しは役立つはずで、自分が幽霊になれたことで、交渉に参加できるのではないかと、ハルミは期待がふくらんだ。


「残念ながら、私のオリジナルの意見じゃないの。それより、伯爵。せっかく私もこんなになったんだから、一緒に宇宙に連れていってくれない?」

「お連れするのはかまいませんが、一方通行の可能性もあります」

「どういうこと?」

「地球に帰還できるかどうかわかりません」

「?」

「地球から出る方法は考えていますが、戻る方法はまだ思いついていません」

「アマテラスはそのことを?」

「知っています」

「アマテラスがそうなら、私も行くしかないわ」

 自分が全ての原因だ。アマテラス如何に関わらず、ハルミは参加しなければいけない。

「もう時間がありません。ご決意が固いようですから、早速、あなたの役割をご説明します。ロンギヌスの槍に付加効果をつけてください」

「付加効果?」

「電磁力、熱、とほうもない質量。破壊力を上げる効果ならなんでも結構です」

「そうね……それなら、超新星爆発のイメージでいこうかしら」


 こうしてハルミも練習に加わった。京に自分の死を告げることも忘れ、荒布を破壊したところで地球に戻れるのかどうかも気にせず、地球の全生物のため、イメージトレーニングに集中した。

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