3-3 主の日(1)

 十二月二十五日が来た。ほとんどの人々は、イエスの再臨のことなど忘れ、例年通りのクリスマスを迎えた。ハルミもできるだけ平静を装っていたが、何か異変が起きていないか、気になって仕方がなかった。


 その日は京も休みで、彼女は夫と遅めの朝食をとっていた。食事の最中もハルミは気が気でないようで、何度も窓の外を眺めていた。そんな彼女に夫の京は、

「何も起きてないし、大丈夫だよ。普通のクリスマス」と気休めの声をかけた。

 彼の言うように、その時点では何も起きていなかった。


 それから数分後の午前九時。


 ちょうど京が食べ終わった頃で、食欲のないハルミはまだ半分ほどしか食べていない。

「裁きの予告日二十五日が終わるまで残り十六時間。それまでの辛抱か」と京がいった。

「それ日本時間の場合。おそらく天の裁きは、イギリスの時間を基準にしてるはず。ということは、そろそろかな……」

 彼女の言葉が合図になったかのように、突然、部屋の中が暗くなった。

「なに停電?」と言って、京は部屋の中を見回した。 


 すでに日が昇っているので、停電で暗くなるはずがない。京は足下に気を付けて、照明のスイッチのところに向かった。ハルミはすぐに窓のそばまで駆け寄り、外を見た。

 夜のように暗いが、単なる夜ではない。月も星もない。見渡す限りの大空を超弩級の積乱雲のような黒雲が覆い尽くし、太陽の光はほとんど遮られていた。

 京は部屋の明かりを点け、ハルミの隣まで来た。周囲の建物も次々に明かりが点っていく。きっと中では、何が起こったのかわからず、大慌てだろう。

「外も真っ暗か」と彼はいった。ハルミは黙ったままだ。


「その日は近い、主の日は近い。これは雲の日、異邦人の滅びの時である(エゼ30:3)」

 というエゼキエル書の言葉通り、主の日、黒雲が空を覆い尽くしたのだ。この雲によって異邦人が滅ぶのだろうか。それとも、

「ああ、主は怒りを起し、黒雲をもってシオンの娘をおおわれた(哀2:1)」

 とあるように、イスラエル人も裁きの対象とするのだろうか。


 隣で京が、放心したようにぶつぶつ言っている。

「本当に起きたんだ……裁きって、この世が闇になるってことか……大変だぞ。これから照明点けっぱなしだな」

「雲で暗くするのが目的じゃない」

 と、主の裁きの本当の意味を知った彼女は言った。

「じゃあ、何?」

 彼女は、その問いに直接には答えず、

「よりによって冬に起きるなんて……」

 と、独り言のようにつぶやいた。


 京はその意味に気づいた。

「氷河期になるのか」

「氷河期じゃすまないかもしれない。最悪の場合、全球凍結」と、彼女は冷静に言った。


 地球全体が、氷の星になる全球凍結になる可能性がある。SFの世界の話ではない。地球は過去に少なくとも二回、全球凍結を経験している。二十二億年前と六億年前だ。熱帯付近でもマイナス五十度、海も陸地も厚さ一キロの氷に覆われ、海底火山の近くなど地熱のある場所以外の生物は死に絶えた。原因は、大気圧の変動とする説が有力である。


「地獄の炎ではなく、地獄の氷。これが主の日ということ」とハルミは言った。

 主の日とは、旧約聖書に数多く登場する裁きの日のことだ。ヨエル書では、その日を、

「これは暗く、薄暗い日、雲の群がるまっくらな日である(ヨエ2:2)」

 と、空が雲に覆われ地上が暗くなる日と説明している。

 イザヤ書十三章十節ではこう言っている。

「天の星とその星座とはその光を放たず、太陽は出ても暗く、月はその光を輝かさない」


 グリニッジ標準時間、午前零時。イギリスがクリスマスを迎えた瞬間、黒雲が世界を覆った。その広さは地球の半分、太陽光が当たっている側だ。この世は全て闇に包まれた。

 その時間に夜だったヨーロッパでの反応は鈍かったが、それまで太陽が出ていた地球の裏半分では大変な騒ぎになった。混乱に乗じ略奪を行う者も出た。パニックを収めるため軍隊が出動した。信心深い人々は寺院、教会、モスクに押し掛けた。世界中のカトリック教会は、聖堂の十字架を、念のために用意しておいたイエス像の無いものに差し換えた。


 当然、日本でも混乱は起きた。政府はすぐに非常事態宣言を出し、有識者を集め、情報収集と分析につとめた。テレビ番組は臨時の報道番組に切り替わり、世間の慌てる様を中継した。大声で暴れ出す若者の集団が出現し、警察官は混乱を防ぐためパトロールに繰り出した。

 どの会社も臨時休業となり、サラリーマンは自宅に戻った。冬休みに入ったばかりの子どもたちは、自宅から外に出ることを控えた。公共交通機関は通常通り運行することが決まったが、不要な外出を避けるよう、テレビ、ラジオなどあらゆるメディアが人々に呼びかけた。買い占めが横行し、それを防ぐため、ほとんどの商店はシャッターを降ろしたが、今が商売時と考え、通常通り営業を続ける店もあった。


 黒雲が出現して十時間後、エルサレム上空に巨大な光の文字が現れた。

「ヤハウェに逆らう国は滅びる」と、地上から肉眼で見えるほど大きなヘブライ文字で示されていた。


 災いが起きると、ハルミはすぐさま伯爵と連絡をとった。ジェイコブにとりついでもらう。電話の向こうのジェイコブも不安そうだった。

 伯爵は冷静だった。今回のことをある程度予想していたようだ。

「このまま氷河期になるの?」と彼女が聞くと、

「これは一種のブラフ、脅しです。おそらく地域別に雲の量を調整し、仏教やヒンズー教の国に対し、改宗を迫るでしょう」

「それならいいけど。いや、よくない。そんな無理矢理強制改宗なんて、やり方がずるい」

「残念ですが、世界は一神教以外の宗教を捨てることになるでしょう。それでもユダヤ、キリスト、イスラムという選択枝がありますし、ガブリエルは宗教以外のことにはあまり口を出さないと思います」

「もし、改宗を拒むと?」とハルミは聞いたが、聞かずとも答えはわかっている。

 いうことを聞かない国には、太陽の光が届くことはない。農業は壊滅的な打撃を受け、照明や暖房で多くのエネルギーが必要とされ、その国の経済は壊滅する。長期化すれば、そこは南極のようになる。

 大混乱のなか、最初の一日が過ぎた。地球の平均気温は十度近く下がった。このままでは、年内中に人類の半分は死ぬという意見まで出た。


「主の日は暗くて、光がなく、薄暗くて輝きがないではないか(アモス5:20)」


 グリニッジ標準時間十二月二十六日午前零時。

 黒雲に変化が起きた。伯爵の予想通り、ある地域には太陽光が届き、ある地域は闇に閉ざされたままという現象が起きた。つまり、一神教の国々から黒雲が消え去ったのだ。

 光に照らされた国の国民は、狂喜乱舞した。闇のままの国では、絶望の叫び声が起きた。


 神は何故、このような差別をされるのだろう。光の当たった国とそうでない国の違いは宗教だった。最初に光を取り戻したのは太平洋などの海、インドネシア、マレーシア、バングラデシュといったイスラム教の国と、フィリピン、韓国、ロシア、オーストラリア、ニュージーランドといったキリスト教徒が多い国だった。時間が経過してもその傾向は変わらず、キリスト教徒が大半を占める南北アメリカは全て光を受けることになった。一日の半分が過ぎ、ヨーロッパや中東諸国は光を受けた。


 世界の大半は一神教の国なので、闇に閉ざされたままの国は日本、中国、タイ、インドなどユーラシア大陸の東南部に偏ってしまった。中国ではにわかキリスト教徒が増え、インドではイスラム教徒とヒンズー教徒との間で争いが起きた。自分の国が光を受けたからといって、喜んでばかりはいられない。地球全体で見れば、太陽放射が減っているので、気温は低くなり、このままでは大規模な気候変動は避けられない。光の国々は、闇の国々に対し改宗を迫った。


 日本政府は公式には、信教の自由は保障されるとしたが、このままでは気候変動と海外からのバッシングで、国として成立できなくなると危惧し、ニュース報道などは改宗を勧める論調一色となった。ネットでは、仏教や神道に対する非難が巻き起こったが、非難する側も、これまでなじみのない宗教にどう改宗してよいのかわからず、戸惑っていた。

 全国津々浦々のショッピングモールや駅前では、市民団体の協力のもと、牧師や神父が説教を行っていた。そのそばでは、教会の信者たちが、非常時ということで、入信の手続きを簡略化して受付けていた。


 その日の午後、ハルミは今後のことを話し合うため、伯爵のアジトに出向いた。大使館も黒雲の影響は免れない。すでに帰省中だった大使一家は母国から戻る予定がなくなり、残っているのはジェイコブと日本人スタッフだけだ。公式には大使館と何の関係もないが、伯爵は自分の家のようにそこでくつろいでいた。


 サン・ジェルマン伯爵は薔薇十字団の会員で、ルイ15世とルイ16世に薔薇十字団に入るように勧めたと言われている。薔薇十字団は、十七世紀初頭のドイツやフランスで噂になった秘密結社で、クリスチャン・ローゼンクロイツという、十四世紀から十五世紀にかけて活躍した人物が教祖とされる。ローゼンクロイツは百歳以上生きたとされ、人智学の創始者ルドルフ・シュタイナーは、その著書の中で、「クリスチャン・ローゼンクロイツは、サン・ジェルマン伯爵としてフランス革命に関与したりした」と記している。 


 伯爵の組織は、宗教と国家のない世界を理想としていた。だが、いくら世界各地から情報を収集し、解決に向けての議論を重ねても、少なくとも表面上は、全人類はヤハウェに従わざるをえないという結論になるのだった。

 伯爵は、それ以外の方法を模索していたようだが、今回ばかりは高い知性と莫大な財力、不老不死の伯爵でもどうしようもないようで、「あきらめるしかないかもしれません」と言って、これまで人前では見せたことのない弱さを彼女に見せた。


 彼女はそんな彼に、ガブリエルと会って説得することができないかどうか尋ねてみた。

「それにはいくつか障害があります。おそらく、地球全体が雲に覆われたということは、ガブリエルは宇宙空間に出ているはずです。私の能力では、到底、成層圏を越えられません。エッフェル塔の頂上なら簡単ですが。仮に宇宙に出たとしても、広大な空間で彼を見つけることは困難でしょうし、見つけても近づけるとは限りません。接近したところで、大気がないので声が伝わりません」

 伯爵は乗り気でないようだ。


「あなたなら幻を描いてメッセージを伝えられるじゃないですか」

「それもわかりません。地球の外では試したことはないですから。真空中では、光のコントロールがうまくいかないかもしれません」

 彼女には伯爵を説得するだけの材料がなく、説得に成功しても現状が好転するとは思えなかった。伯爵の組織は、アジアの国々を一神教に改宗させるように、各国政府に働きかけることを決めた。


「これは暗き地で、やみにひとしく、暗黒で秩序なく、光もやみのようだ(ヨブ10:22)」


 主の裁き三日目。

 闇の国々は、次々と主に従い始めた。

 仏教国タイの国王みずから、国民にキリスト教とイスラム教への改宗を呼びかけた。すると、一時間だけタイ王国を太陽が照らした。中国政府は、国の予算を使って教会とモスクを建設する計画だと発表し、同じく一時間照らされた。インド政府は、国民に対しイスラム教を推奨する声明を出し、二時間照らされた。日本だけは、複数の巨大宗教団体の反対で何も行動を起こせず、国民は氷点下十五度以下で苦しんだ。


「見よ、暗きは地をおおい、やみはもろもろの民をおおう(イザヤ60:2)」


 四日目。中国政府は、午前三時という異例の時間に緊急会見を開いた。最新調査でイスラム教徒とキリスト教徒の信徒数の合計が五億人を越え、半年後にはその数は十億人を超えると予想されると発表。その日は一日中、中国への太陽光が遮られることはなかった。

 嘘でも発表すればいいと各国は学習し、インド政府はイスラム教への改宗が急速に進み、信徒数は現時点で十億人を越えると発表。ベトナム政府は、学校の授業で聖書とクルアーンの朗読を必修とすることを発表した。日本政府も、似たようなことを企てたが、与党自体が宗教法人の強い影響下にあるため、最終的に認められることはなかった。それで太陽は出なかった。


「その日は怒りの日、なやみと苦しみの日、荒れ、また滅びる日、暗く、薄暗い日、雲と黒雲の日(ゼファ1:15)」


 五日目。黒雲は日本の上空だけを覆っていた。海外からは一切の同情もなく、徹底的に日本は批判された。いくつかの国で日本との交易停止が発表された。外交努力で海外との関係がうまくいったとしても、港が凍り付けば、海上貿易は出来なくなる。日本は追いつめられていた。

 国民の我慢は限界に達しつつあった。一体、何故、政府は手をこまねいているのか。しかし、国会議事堂では改宗強制派と反対派の間で喧々囂々の議論が交わされるだけで決着はつかなかった。ネットなどでは、現在ある宗教法人をそのまま、名義上、キリスト教などに改宗したことにするという姑息な妥協案が囁かれていたが、一顧だにされなかった。

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