1-2 聖書はミステリー(1)
そのとき、京は病室でベッドに横たわる彼女と二人きりでいた。眠気と喪失感からぼうっと立っていると、「京」という彼女の声がした。
再び意識を取り戻したのかと思い、ベッドを見ても、目の前の彼女は仰向けで目をとじたままだ。寝言のようにも聞こえなかった。単なる空耳だろう。
自分も疲れているから、仕方がない。自販機のコーヒーでも飲んで目を覚まそうと思い、病室から出ようとすると、今度は後ろから声がした。
「こっちよ、京」
間違いなくハルミの声だ。
ベッドの上の彼女は相変わらず目を閉じたままだ。どういうことだ?
「そこじゃなくて、こっち」
彼が入り口付近からベッドのほうを見ていると、すぐ前から彼女の声がする。眠ったままなのに。
「ハルミ……なのか?」
そう聞いてみた。
「私の声、聞こえたの……よかった」
「どこから話しているんだ」
「あなたのすぐ前」
そう聞くと、彼は思わず後ずさった。
「私のこと怖い?」
「こ、怖くはないよ……ただ、ちょっと、いきなりで状況を理解できないんだ。本当にハルミなんだな?」
「たぶん、私」
「たぶんって?」
「自分でもよくわからないもの。走馬燈みてたら、意外と多機能で、十八歳に戻ったり、昆虫になりそうになったし、高級中華もいただいたし」
「全く意味不明だけど」
「それより、私、事故に遭ったんだよね。なにがあったの? 詳しく教えて」
「簡単に言うと、交通事故で意識不明。脳に出血はないみたいだけど、ショックで意識が戻らない状態。加害者男性は死亡。保険はおりるよ、たぶん」
「そうなの? だったら、もう少しこのままの状況楽しもうかな」
「楽しむって?」
「せっかくならこの状況を理解したいの。これって魂が体から離れた幽体離脱ってやつでしょ。前は全然信じてなくて、今でも信じられないんだけど、やっぱり起きている事実は事実だもの。研究する価値があると思うの。今戻ったら、もう二度と体験できそうもないし」
「そんな経験一度で十分だ。戻ってから、オカルト研究でもなんでもすればいい」
「もうこれはオカルトじゃないわ。私の意識がある空間座標と、私の体の座標が一致していないなんて、相対性理論でいう空間が伸び縮みするくらいすごいことじゃない。たとえば、今の私の声ってどこから出ているの? どういう仕組みで空気を振動させてるの?」
「その体から抜け出た電磁場みたいなものじゃないのか」
「生体には当然電磁場はあるけど、肉体という物質が引っ張るから、拡散せずにいられる。なにもない空間を電磁場が拡散もせずに移動できるの?」
「そんなことは後でいい。とにかく体に戻ってみるんだ」
「わかったわ」
彼は、ついに自分も頭がおかしくなったのかと思い、ハルミらしき声との会話を切り上げ、コーヒーを飲みに病室を出た。
ハルミは慎重に自分の体に近づいた。魂(というより魂に仮想現実空間体験の信号を送信する感覚領域)を自分の脳に戻すのだ。初めてのことなので、ひどく緊張する。地面からの視点の位置は、ちょうど体があったときと同じ程度の高さだ。ベッドのすぐわきまで移動した。そして魂の抜け出た自分の体をみつめた。額の辺りから慎重に頭に入る。
京が病室に戻ると、ハルミはベッドの上で上体を起こしていた。
彼女は京を見ると、笑顔を浮かべ、
「今日、仕事じゃなかった?」と聞いた。
彼はベッドのわきまで来て、「心配したぞ」と声をかけた。
「心配したって? さっきまで、私としゃべってたじゃないの」
その言葉に彼は驚いた。
「やっぱり、あれ、幻聴じゃなかったんだ」
「今、何時?」
ハルミはメガネをはずしているので、よく見えないのか、壁の時計を目を細めて見ている。
「事故から三日目の午後だ。とにかく、わかるように説明してくれ」
「私にもわけがわからないわよ」
「それなら、自分が体験したことを、最初から順に話してくれ」
「京が出ていって、後を追いかけてたら、車に撥ねられたみたいで」
「相手も悪いけど、君も慌てていたんだ」
「撥ねられたとき、すごく時間の流れがゆっくりしてきて。それから、走馬燈を見たの」
「臨死体験ってやつか。本当にあるんだな」
それからハルミは京に自分の体験を、かなり省略して説明した。すると、夫は、
「ふうん。死を前にした脳内では様々な物質が分泌され、それが幻覚を生み出す。それにしても中国の宮廷料理をタダで戴けるとはうらやましい。どうせその辺の中華料理屋の味だろうけど」
といって、見下したような態度をとった。
夫のその言葉に、「あれは幻覚じゃないわ」といって、彼女は感情的に反発した。
「体験した本人からすれば、全部真実だと思いたいだろう。でも、合理的に考えれば幻覚だとわかる」
「だって私の知らないことまで、見えたんだもの」
「具体的にいうと?」
「走馬燈で中学校の同級生が、私の噂してるところとか。そんなの私が知るわけないし」
「他には?」
「あなた、病室で私の声聴いたでしょ。あのとき確かに返事したわよね」
「あのときの状況は、君がそばにいたから成立したわけで、僕は幽霊と話したわけではない。君は僕の前にいると言ったけど、実際はベッドの上の身体から出ていなかった。声は口から出たわけじゃなく、特殊な状況下で君の脳波の影響範囲が拡大し、それが僕の脳に直接働きかけた」
「は? 私の脳波である電磁場領域で音の信号が生成され、それが空気振動を引き起こし、あなたの耳に聞こえた?」
彼女は、自分がおかしなことを言っている自覚はあるが、同じように人がおかしなことを言うとすごく気に障る。
「空気は経由してないよ。電磁場の情報が直接脳に伝わったと言っているんだ。僕は脳科学者じゃないからうまく説明できないけど、実際に空気振動が起きたわけではなく、僕の脳に幻覚を起こさせるように君の脳波が作用したんだよ」
「科学的に説明しようとしてるみたいだけど、そっちもオカルトにしか聞こえない」
「未知の科学と呼んでくれ。とにかく幽霊とか死後の世界とか認めるつもりはないから」
「自分が実際に体験して、まだ認めないとは……」
ハルミはあきれたが、すぐに納得した。以前の彼女も今の彼と同じように、認めていなかっただろう。彼女自身、自分の体験を論理的に説明できないでいた。
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