第7話
日直の仕事で最後の授業が終わった黒板をだらだらと掃除しながら、急にふと、橋田が羨ましくなった。
百合子はいつも橋田を気に掛けている。とっくに退学したにも関わらず、あれから度々橋田の近況を知りたがっていた。それが羨ましかった。
一番橋田を知っていたのは矢本だったらしい。百合子は矢本から聞いた好物の葡萄や好みそうな本を持って自宅まで行ったが、いつも母親が平謝りするだけで本人には未だ会えていないそうだ。
「矢本さん、橋田さんのスペシャリストだったのよ。彼女も昔、橋田さんと仲良くなりたくて頑張ってたそうなの。橋田さんが意外に漫画を読むのも彼女から聞いたわ。わたしも、今じゃその新刊が出る度に買ってるの」
少女漫画って主人公が幸せになるから素敵よねと、日誌を書く手を止めて同意を求めてくる。今日は百合子と当番の日であった。この学校では席が隣の者同士がそのまま日直当番になる。うちのクラスは担任が面倒がって、その内すると言いながらも未だに席替えを一度もしていない。もう当番は何周もした。
黒板が片付いたので、何か手伝おうかと彼女の席へ行く。僕は少女漫画など読まないので、その話題には適当に肯定しておいた。返事を聞き、百合子は満足そうに微笑んで頬に手を当て両肘をつく。はぁと、憂いを含んだ溜め息を一つ。
「その漫画の感想も言い合いたいのだけれど、会えないのよねぇ。橋田さんのお母さんがいつも申し訳なさそうな顔をするものだから、ちょっと行き辛くなっちゃったわ」
暫く間を置いた方がいいかしら。
そう聞かれたが、曖昧に濁す事しかできない。この先、橋田が百合子に会おうとする日はきっと来ないだろう。
「……もしかして、橋田さんお仕置き期間中なのかしら。そしたら会えるはずないわよね、どれくらい経ったら終わるのかお母さんに聞いても大丈夫かしら」
お仕置き期間とはなんだ、あれはもう引き篭もりだろう。そう告げると、男の子にはわからないわよと笑われてしまった。
細い小さな字ですらすらと残りの内容を書き込み、ぱたりと日誌を閉じる。教室内にはもう誰も残っていない。百合子と帰宅しようと待っていた女子も数人いたが、待たせちゃ悪いからと百合子が先に帰したのだ。
「女の子はね、何か酷い失敗をしたり間違えたりするとお母さんにお仕置きされちゃうの。わたしも矢本さんのお通夜から四日間ずっとお仕置きだったわ。ほら見て、まだ薄っすら痕が残ってる」
おもむろにセーラー服の胸元を軽く広げて、僅かに赤く染まった肌を躊躇いもなく見せてきた。斑らに残る殴打の痕。よく見れば、首筋にもその名残りがある。
「泣きながら帰ったから、そんなみっともない姿で外を歩いたのかって怒られちゃった。ビンタの痕が消えるまで自宅謹慎だったの、うちはいつもそうなのよ。女の子だから、外では常に綺麗な姿でいなきゃ駄目なのよって、母が」
そう得意げに話して聞かせる百合子が哀れで仕方がない。外部に暴力の痕を勘付かれない為にそう言っているのだ。外で泣いただけで打たれるのも、不穏な気配を悟られまいと過敏になっているのだろう。何故そんな親を尊敬しているのだろうか。
こうして虐待の痕跡を惜しげも無く見せてくるのは、本当は助けを求めているのではないだろうか。黙りこくってしまった僕に百合子は小首を傾げている。無邪気な瞳が、きりきりと胸を刺す。
以前、ネットでダブルバインドという言葉を見た。虐待や厳しい躾けなどで心が拘束されてしまう、逃げ出せない精神の病らしい。百合子は無意識のうちにその状態から抜け出せず、こんなにも綺麗に歪んでしまったのではないだろうか。だから過剰に干渉してきた橋田の行いにも愛情と似たものを感じ、好意を抱いているのか。もっと単純な優しさを彼女は知らない。
「……どうしたの? あぁ、日誌ならもう終わったわよ。なんだかお腹空いてきちゃったわ、もう帰りましょうか」
早く帰宅したいのかと思われたらしい。はにかみながら、教卓へ日誌を置くために席を立つ。僕を横切る際、さらりと黒髪が空気を撫ぜた。甘い、ぼんやりと目眩がしそうな匂いが鼻を擽る。
「黒板きれいね、ありがとう。あなた帰り道は別方向よねぇ、じゃあ校門で別れるまで一緒に行きましょうよ」
筆箱を鞄にしまい、着々と帰り支度を進めていく。鞄を肩にかけ、いよいよ帰ろうと教室を出ようとする。その腕を、思わず掴んだ。少し驚いたようにぱっと振り返り、どうしたの? と再び優しく微笑みかけてくる。黒目がちな大きな瞳が凝らすように細められ、その視線に晒されてじわじわと良くない執着心が足元から湧き上がるのを感じる。
家に、百合子を家に帰したくないのだ。歪んだままでは生きていけない、いずれ壊れてしまう。いや、もうヒビが入っている。おまけに掴んだ腕はこんなにも細い。彼女は普遍的な愛を知るべきだ。僕ならば、百合子の両親よりも橋田なんかよりもずっと彼女を大切に、普通に愛してあげられる。
「……良く無い表情をしているわ。同情に踊らされている顔よ、それ」
違う、同情なんて安上がりな感情ではない。情けない顔をしていたのを指摘され、かぶりを振って熱弁をふるう。
このまま二人で逃げてもいい。それか卒業を待って、どこか遠い土地で真っ当に百合子の人生をやり直してもいい。いずれにせよ、僕は何をしてでも百合子の助けになりたいのだ。痛い事もしないし、それが当然という考え方も解してやりたい。僕の人生を、百合子の幸せの為だけに使いたいのだ。
心臓がばくばくと激しく脈打ち始めた。生まれて初めての告白である。息が上がり、酸欠のように頭がくらくらする。百合子はそんな僕を見て、やはり緩く微笑んだままだった。
「……物凄く嬉しい。わたしの事、そんなに大切に思ってくれてるのね」
僕に掴まれていない方の小さな手で、そっと熱くなっている僕の頬を包む。ひやりとした冷たい指先が触れ、ぞくりと背中が粟立った。上気した肌に、とても気持ちがいい。
「でも逃げるなんて駄目よ、助けもいらないしあなたの人生もいらないわ。強いて言うのなら……あなたの愛情の証だけが欲しい」
あなたは母のように傷痕で愛を示す人? それとも、やっぱり男の子だから、父のように性欲で表す人かしら?
そう問いかけながら、蕩けたような表情で見上げてくる。また、話が通じていない。そういう事ではないのだ。助けを求める当然の感情を取り戻して欲しい、ただそれだけなのだ。
「通じてないのはあなたの方よ。わたしはそれさえ貰えれば何をされても幸せなのに、わたしを不幸な子供にしたがっている。わたしの想いなんてそっちのけなの。みんなそう」
どさりと肩に掛けた鞄を落として、百合子は身体をぴったりと密着させてくる。背に腕を回して、僕の心音を楽しむように胸元へ耳を当てた。くすくすと鈴が転がる笑い声が、脳に直接反響する。
「この脈の激しさの分だけ愛してくれればいいのよ。橋田さんはもっと凄かったわよ、飛び出ちゃうんじゃないかってくらいだった」
遠くで野球部員の掛け声が聞こえてくる。この体勢は駄目だ、離れなければ。しかし金縛りにでもあったかのように小指の先すら動かせない。橋田も同じ状況になったというのか。いつ、一体どうして。
「みんなね、わたしの事を自分だけが理解してると思い込んでるの。わたしの秘密を知るのは自分だけで、自分だけがわたしを助けられるって。わたし、何にも隠してなんかいないのに」
嫌味ではなく、本当に不思議だという口調で胸元に顔を埋めながらぽつりと百合子は呟いた。
秘密とは、橋田からのイジメと親からの虐待じみた躾けの事ではないのか。みな気付いていながら素知らぬ振りをしていたというのか。
「あなたに見せたのは橋田さんの愛の証と母のお仕置きの痕で、母の本当の愛情の印を見せたのは挨拶委員の葛谷くんだけよ。あなたも葛谷くんと同じで信じてくれないから、後で見せてあげる」
愛情の印とは、なんだ。何故、突然葛谷の名前が話題に上がる。あいつは矢本の事件以来学校を休みがちで、彼女にとって重要人物とは思えない。
「葛谷くんが倒れたとき、わたしもその場にいたのよ? 慌てて保険室の先生を呼びに行ったのだけれど、偶然通りかかった誰かがもう助けてくれてたみたい。これがあなたの知らない事の一つ。他には……あぁ、陸上部の小暮くんには、橋田さんとのちょっと恥ずかしい所を見られちゃった。あと、眼鏡の山下くん。彼は橋田さんのご近所さんで、山下くんもわたしと彼女の関係を知ってるの。二人共揃って女同士はおかしい、自分の方が大事にしてやれるって言うのよ、頭が固いわよね」
つらつらと顔を伏せて抱き着いたまま、百合子は溜まっていたものを吐き出すように独白する。女同士とは、まさか橋田と恋愛関係にあったとでも言うのか。
目眩がする。先程とは違う種類のものだ。ぐらぐらと足元が覚束ない。
「二人といえば、矢本さんとの事を知ってるのも二人ね。岩屋くんと楠木くん。岩屋くんは、矢本さんが死体を最初にわたしに見付けて欲しかったんじゃないかって言ってきたの。だから安心して、最初から最後まで、ちゃんと息が止まる瞬間までずっと見てたわって伝えたら、変な顔して逃げちゃった。楠木くんとは謹慎明けに喫茶店で話したの。可笑しいのよ、矢本さんを間違えて死なせてしまったって言ったら、楠木くんったらね、自分は変態だなんて言い出したのよ。唐突よね」
思い出し笑いを堪えるように、彼女の肩が小さく揺れる。もうやめてくれ。それ以上、新たな秘密をばらさないでくれ。
ぐいと押し退けるように身体が離され、あの悪戯っぽい上目遣いの笑顔で、百合子は僕の情けなく歪んだ目を見詰める。
「みんなこうやってね、何か一つの秘密を知って、それがわたしの全てだと思い込むの。今迄もそんな人ばかりだったわ。秘密になんてしていないのに、自分が異常だと思っただけでわたしが疚しく感じてると勘違いするの、悩んでると信じて疑わないの。全部見当違い」
幼子に言い聞かせるような柔らかい口調だ。様々な情報が一度に脳内を占領し、まさしく幼児のように何も理解出来ず立ち尽くすしかない。笑っている。彼女は何故笑う。
「そんなくだらない深読みなんてしないで、わたしが好きならただ抱き締めてよ。それだけでも伝わるから、お願い」
切なそうに寄せられた眉が、彼女の懇願が本意のものだと告げている。抱っこを強請る小さな子供のように両手が差し出された。誘蛾灯のように淡く、触れたら弾けてしまいそうな危な気を孕んで、このままその身体に触れてしまえば何かが終わるような、何かに成り下がるような。
「……意気地無しなのね」
僕は、やはり動けなかった。
カラスが鳴いている。
床に落ちていた鞄を拾いあげ、残念そうに百合子はまた明日と別れの挨拶をする。冷や汗をかきながら足元を凝視している僕の横をすり抜け、一人で教室を出た。あの矢本がぶら下がっていた扉が閉まる音を聞き、途端に膝から崩れ落ちる。取り返しのつかない過ちを犯したような気がして、訳も分からず涙が溢れてきた。
百合子、僕はただ百合子を、彼女を本当に助けたかったのだ。ただそれだけだ、何故こうも噛み合わない。
そしてその日の夜、百合子は母に刺し殺された。
本当の意味で、彼女は手の届かない存在になってしまったのだ。
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