第6話

 矢本が死んで、四日が経った。

 百合子は未だ教室へ現れない。体調が優れないそうだ。

 クラスでは百合子への同情ばかりが集まり、矢本も橋田と同じように忘れられていっている。何人かの女子は自宅までお見舞いに行ったが、百合子の母親に申し訳無さそうに面会を断られたらしい。物腰の柔らかい、大層な美人の母親だったそうだ。


 明日は来るのだろうか。そんな事を考えながら、夕暮れの町をぶらぶらとあてもなく歩いていた。通学路が商店街に近いので、買い食いでもしようかと立ち寄ったのだ。

 本屋の前を通り掛かり、漫画でも買おうかと足を止める。すると、店内に見知った顔を発見した。

 私服なので判別がつき辛かったが、あの子鹿のような瞳は正しく百合子である。丁度店を出る所だったのだろう。視線に気付き、彼女は少し驚いた表情を浮かべた。手には文庫本サイズの紙袋が握られている。スタンドカラーの白いブラウスが、夕陽と街灯の色に染まり柔らかく光っていた。


「あら、不味い所を見られちゃったわね。うふふ、学校サボって本屋だなんて不良でしょう?」


 随分とやる事の小さな不良であるな。

 具合が悪いと聞いていたが、意外にも元気そうだ。明日からちゃんと行くわよと言いながらきょろきょろと辺りを見渡し、一人なのかと問われる。お互い様だ。


「ねぇ、サボタージュの口止め料にご馳走するから少しお茶していかない? 折角だから授業が何処まで進んでしまったのか聞いておきたいのよ。時間あるかしら」


 断る理由などない。二つ返事で近場の喫茶店に連れ立った。

 ずっと昔からあるこの寂れた店は、その古さ故の威圧感ある見た目に気圧されてしまい一度も店内に入った事はない。しかし、百合子は何度か訪れているようだ。ここのチーズケーキが好きなのよと、メニューを手に取りながら顔を綻ばせている。

 小柄な老人のマスターにコーヒーとチーズケーキのセットを二つ注文し、とりあえず簡潔に授業の説明をした。百合子と違い自分は学生服であるので、あまり長居はできない。けれど最近の授業内容なんて自宅待機とカウンセリングと自習ばかりだったので、酷く遅れを取っているわけでもなくあっという間に説明は終わってしまった。にこにこと小さなマスターが淹れたてのコーヒーと小皿に乗ったケーキを運んでくる頃には、既にもう話す内容がなくなっている。ゆっくりしておいき、と老人は百合子に微笑んでカウンターへ帰っていった。やはり常連なのだろう。


「ここのご主人ね、学生服お断りの看板はとっくに外したのに若い人が寄り付かなくなっちゃったって前に言ってたの。だから今度、みんなで来ましょうよ。きっと喜ぶわ」


 コーヒーに角砂糖を落としながら楽しそうにそう提案してくる。そのみんなとは、誰の事だろうか。百合子は誰とでも仲が良いのでわからない。下手したら一学級全員ついてくる。

 おすすめのチーズケーキは小さな丸型で、クッキーを砕いて固めたような土台にレアのムースが乗った手の込んでいるものであった。ブルーベリーのソースがかかり、一口含むとしゅわしゅわと弾けて予想以上に美味い。こんな店だとは知らなかった。これは是非、また来たくなる。


「美味しい、幸せだわ」


 少しずつ、勿体無さそうに百合子はフォークで小さく取り口に運んでいた。まるでデートのようだなとほんのり優越感が湧いてくる。しかし無邪気な表情でよく矢本さんとも来たのよと告げられて、湧いて出た甘い感情が掻き消えた。かっこつけて飲んだブラックのコーヒーが、喉に苦く残る。


「あのね、わたし間違えちゃったのよ」


 心なしか悔いるように、眉根を下げた笑顔で彼女は話し始めた。そういえば、矢本の通夜で彼女は泣いていたらしい。この顔が歪む時があるのかと、本人を目の前にしても信じ難い。


「矢本さん、亡くなる前の夜にわたしに電話してくれたの。お母さんと喧嘩して、要らない子だって言われちゃったみたい。だから次の日の朝、早い時間に教室で待ち合わせして会いに行ったの」


 次の日の朝。亡くなる前の夜待ち合わせしたということは、矢本が首を吊る直前か。驚きのあまり、警察には言ったのだろうかと見当違いな心配をしてしまう。


「矢本さん凄く泣いてたわ。当たり前よね、お母さんに捨てられちゃったんだもの。誰だって死ぬのは怖いわよ。人間って余計な事を考えちゃうから欲が出るのよね、だから……」


 そこで一度言葉を切り、唇をきゅっと引き結んで悲しげな表情をする。

 いや待て、矢本は別に捨てられてはないだろう。伝え聞いた通夜の様子では、恐らく売り言葉に買い言葉だ。矢本が大袈裟に嘆いたのだろうか。それに、余計な欲とはなんだ。


「だから、ね……手伝ってあげたの。ロープ、矢本さん自分で用意してたのに掛けるの嫌がって……酷く混乱していて、止めてくれないのかだなんて口走ってたわ。だから何度もやらなくちゃいけないって話して聞かせてあげたら、可哀想なくらいがたがた震えながらやっと首に掛けたの。誰か来ちゃったら台無しじゃない? だから見付かる前に急いで、頑張って、って応援して、それで……」


 なんの話しをしていたのだっただろうか。ぽろぽろと思い出したかのように溢れる彼女の涙を見て、先程聞いた内容が幻聴だったのではないかと自分の耳を疑う。

 あぁ、百合子はこうやって静かに泣くのか。


「でも、間違いだったのよ。矢本さん捨てられてなんかなかったわ」


 静まり返った店内に、オルゴール調のクラシックが流れている。店主の趣味か、ただラジオを流しているだけなのか。客はまばらだ。周囲の席に、人はいない。

 小さなハンドバッグから綺麗にアイロンがかけられたハンカチを取り出して、ごめんなさいねと言いながら百合子は目頭を拭った。見た目だけは同級生の死を悼む健気な友人の姿である。


「矢本さんの、お母さん……とても良い人だったわ。何故こんな事になってしまったのかしら。きっと、わたしも矢本さんも急ぎ過ぎたのね。次は、もし次も同じ目に遭っている人に会ったら……」


 間違えないようにしないと。

 吹っ切れたように緩く笑いながら、そう呟いてハンカチを握りしめる。くしゃりと花柄のそれが歪んで、ぞくりと背筋を得体の知れないものが駆け上がった。

 恐怖からではない、畏れだ。

 赤みを帯びた目元でにっこりと笑い、コーヒーが冷めちゃうわね、とカップへ手を伸ばしている。その指先がとても煽情的にいやらしく見えた。

 その指で、白くて細い腕で、引導を渡されたい。

 今更になって気付いた。もしかすると僕は、変態なのやも知れない。けれど百合子は、そんな僕も拒絶する事なく受け入れてくれるのだろう。

 それだけは核心を持って、強く思えた。

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